モン・ビューロー

「どうしたの電気もつけないで」


 家に帰ると、妻がいるはずなのに部屋の中が真っ暗で、また何かに思い詰めているのかもしれないと思いつつ、電気のスイッチに手をかけた。

 その瞬間、暗闇の中で何かが動き、自分に近づいてきた。


 刺された。

 そして刺した相手が妻だと分かった瞬間に、驚きよりも、死ぬ恐怖よりも、妻が漸く自分に依存したのだと思って嬉しくなり、笑ってしまった。


 妻は泣いていた。

 家に忘れた手帳が店にあったから、届けに来てくれたのに何も言わずに帰ったということは、彼女と話していることを聞いたのかもしれない。

 流石、吉岡さん。対男の疫病神的な存在から、とうとう死神に昇格したんだな。

 

 そんなくだらないことを考えているうちに、走馬灯なのか、小さい頃から今にいたるまでの記憶がゆっくりと思いだされた。


 

 物心ついた頃から、母は父の奴隷だった。

 仕事人間で基本家にいない父は、家にいる間は何もしない癖に偉そうで、いつも踏ん反りかえっているから嫌いだった。そんな父親に怯えて言う事を聞いている母も大嫌いだった。

 その上、母は、父のいないところでは、たびたび父を悪く言って、必ず最後に


「武はお父さんみたいになっては駄目よ」


と言った。

 言われなくても分かっている。なれと言われたってなるものか。


 そんな風に家庭を毛嫌いしていたから、高校から寮のある学校へ行き一人暮らしを始めた。

 親に干渉されないということが、こんなにも快適だなんて! などと感動し、そのおかげで同年代の男よりは余裕のある人間になれたと思う。

 そういった余裕があると、余裕がない人を助けてあげたくなった。


 今なら認めることができるが、どれだけ生意気を言おうが、自分では父から母を助けてやれず、その負い目から母を父以上に嫌うようになったため、母と同じ追い詰められた女性を助けることで、疑似的に「母を助けられなかった」ことに苦しむ自分を救ってやりたかったのかもしれない。

 必要なのは共感と、相手の都合は考えない強い言葉のバランスと言うタイミングだった。


 彼女らは最初の相談時点では「悩んでいる」「困っている」と言いながら、それを解決するのではなく「辛い自分に寄り添ってほしい」が大部分なのだ。

 そこは共感し、同じ相談が三度続けば、強い言葉で解決策を投げかければいい。


「そんな屑野郎、別れておしまいなさい」


と言ったふうに。

 弱っている彼女らをそんな風に励まし、しばらくすると彼女らは元気になった。

 それを見ることに満足していた。

 ただ、中には依存先として自分を求める子もいて、そういう子には自分で立てるようになるまで寄りかからせてあげて、もう大丈夫だと判断したら付き合いをやめるのだった。


 そんな自分が大学で出会ったのが妻の徹子であった。

 徹子は、今まで出会った女性の中で、一番か弱い存在に感じた。

 いくら励ましても、自分を卑下して、その癖、周りにも不満を抱いており、一向に状況を改善させようとしない。まるでうちの母のようだ。


 今度こそ、彼女を助けなくては。

 そう思って、彼女を大切にすればするほど、彼女はその行為に抵抗し、


「お願いです、もう別れて下さい」


なんて言うものだから、


「徹子は、僕がいないと駄目になってしまうよ」


と言い聞かせていたのだった。


 彼女は強い依頼心を持っている人だったが、頑なに僕を依存先にはしなかった。

 僕以外のものを拠り所にし、それに裏切られ、僕がそれを慰めてあげる。

 なんて不毛なのだろう。

 拠り所を自分にしてくれたらいいだけなのに。


 そんな風に思ううちに、僕の目的は彼女を助けることから、彼女を僕に強く執着させることに変わっていた。

 

 彼女には、僕さえいれば、それで良いと思わせなければ。

 そのためであれば、手段を選んではいられない。


 そして、晴れて妻を自分へ執着させる、とどめを刺してくれたのが、吉岡さんだった。

 彼女も彼女で、放っておけない人だ。徹子によく似た依頼心の強さと、不安定さ。ただ、彼女は徹子と比べて強かであった。

 拠り所に裏切られるのではなく、自分で拠り所を駄目にして、使えないと思ったら自分で次の依存先を探せる強かさ。

 多分、僕がいなくなっても、ちゃんと次の依存先を探して、自分でその依存先を駄目にするのだろう。


 もう、走馬灯も限界かな。

 そんな風に遠のいていく意識の中、最後の力を振り絞って、徹子の手を握った。

 言葉を発する力は残っていないから、これで「愛している」というのが、伝わればいいのだけれど。


「ああ、なんてこと、なんてことをしたの私。ごめんなさい……ごめんなさい、でもあなたが悪いの。あなたが悪いのよ。あなたが悪いのよね? そうよね、私は可愛そうなんだもの。私を可愛そうにしたかったんだもの」


 うわごとのように繰り返す妻の言葉を、薄れゆく意識の中で聞きながら、それを愛の言葉だと思う自分は、とうに父親よりもおかしい人間になってしまっていたのかもしれない。

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