† 残 † 最終武器は私の血。多分死ぬけど飲んでみる?

黒月一条 ₍ᐞ•༝•ᐞ₎◞猫部

はじまりの雨(1)


 雨脚は、いっそう激しさを増していくようだった。掘っ立て小屋のようなこのあばら屋では、ところどころの雨漏りもしかたがない。


 突然の雨から逃れるために駆け込んだだけだ。この気まぐれな天気さえ落ち着いたら、さっさと出て行くだけのこと。


 そう自分に言い聞かせて、灰色に染まる世界をどこか恨めし気に眺めていた。


 それなのに、先ほどから窓に打ち付ける雨に混じって稲妻が見え隠れするようになった。


 今夜は大荒れになりそうだ。そう思えば思うほど、心の底からとめどなく込み上げてくる溜め息を飲み込むことはできなかった。


 一体どうなっているのだろう。ほんの一時前までは雲ひとつなかったはずなのに、今ではこの有様だ。


「あーあ、ついてない……日没までには村に帰りたかったのに」


 体中の酸素を吐き尽すかのような、一際大きい溜め息とともに肩を落とす。あまりの晴天に浮かれて、つい遠出をしてしまったことを今さら悔やんでももう遅い。


「洗えば元の色に戻るかしら」


 ふいに足元に目をやれば、泥まみれになったお気に入りのブーツ。鮮やかな赤い色が無残にくすんでしまっている。


「どうしよう……」


 薄暗く、かび臭い小屋の中から、不気味に暗くなり始めた外の景色を呆然と眺めた。


 不規則に響き渡る轟音と光が、不安そうに両手を胸の前で握り締める“彼女”の横顔を照らし出す。


 その胸元で煌めいているはずの十字のクリスタルは、すっかり輝きを失っていた。


「どうしよう……もうすぐ夜、よね……」


 こんな天気の急変さえなければ、余裕を持って村まで帰れるはずだった。こんな小屋の中で足止めをくらうこともなく、日常的な夜を迎えることができたはずだったのだ。


 それなのに、どうしてこんなことに……。


 自身の軽率な行動に対する後悔と、運の無さに嘆くことしばし、とにもかくにもこのまま夜を迎えるのはまずいと思い直すと、懐から使い古した地図を取り出して、冷たく軋む床の上にやや乱暴に広げた。


 おそらく今いるであろう場所を指先で辿りながら、瞳はせわしなく地図と窓の外を交互に彷徨う。

 

 彼女の心の奥から、底知れぬ恐怖が大きな波となって襲いかかろうとしていた。


 確かここはまだ、“彼ら”の領域でもあったはずだ。


 夜に、“彼ら”の領域で、“彼ら”に出くわしてしまったら……?


 にわかに足元がひやりと冷え始める。


「どうしよう……私、どうしたら……」


 考えれば考えるほど自分の愚かさに耐えきれず、思わず両手で顔を覆った。


「ああ……神よ……」


 助けを乞うように呟いた言葉は激しい轟音に飲み込まれ、掻き消されてしまった。


 それでも呟かずにはいられない。何度も、何度も。


 絶望の中にあるからこそ、心の拠り所が欲しかった。


 この状況下では、自分の身が危ういことは誰の目から見ても明らかだ。意を決して村への道を急いだとしても、無事に辿り着ける可能性は五分五分といったところだろう。


 それほどに、今いるこの場所は彼女にとっては死地に近い。


 そんな彼女の不安をさらに煽るかのように、激しい稲妻が小屋を不規則に照らし出す。そしてまたわずかな静寂が訪れたかと思えば、稲妻。


 静寂。


 稲妻。


 その時。


 何かがカタッと動く音が響いた。


 空耳かとも思ったが、微かな音にも敏感になっていた彼女は、慌てて顔を起こすと辺りを小さく見回した。無意識に胸の十字架をきつく握りしめる。


「……だれ……?」


 震える声を振り絞り、暗くなり始めた室内へと目を凝らすと、小屋の奥の方で何かが蠢いたように見えた。


「……っ!」


 身体の震えがいっそう強まる中、それは音もなくスッと立ち上がると、軽やかなステップでも踏むかのように一瞬で彼女の前に姿を現した。


「ひっ……!」


 彼女の顔に明らかな恐怖が浮かぶ。だがしかし……。


「すみません、驚かせてしまいましたね」


 そんな彼女の前に歩み出て、ふわっと優雅に微笑むそれは、目も眩むような長身の美青年であった。


 少し着崩した白いシャツに、細身の黒のスラックス。わずかな動作にもさらりと流れるプラチナの髪は、夜のベールに包まれ始めた世界の中にあっても柔らかな輝きを放っている。


 まるで夜を支配する月のように。

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