第2話 メイド、掃除する

 うらめしい。

 何がと問われれば、自分の小器用さが。

 そして、やるからにはそこそこのレベルまで達しないと気が済まない、負けず嫌いなところが!


 私だって搾乳などやったことがない。

 だが、隣でいちいち感嘆の声を上げる男よりは、飲み込みが早かったというだけだ。

 クロテッドクリームを作るために乳を搾れという男爵様は、「食いたいお前がやれ(意訳)」という私に、いかに自分が不器用なのかということを実践してくれた。

 絹の布で綺麗に乳房を拭ってやるまでは、まあよかった。しかし、肝心の乳は握っても引っ張っても一滴たらずも出てこない。

 「おかしいなぁ」と乳首を覗き込んだところで自分の顔に直撃させるというおまけつき。ハナコ(牛)も痛いのか煩わしいのか、終いには威嚇しだして、蹴られる前に交代と相成った。

 パンパンに張った乳からは永遠に出るのではないかと思わせる量が出た。具体的には甕二つ分くらい。たいしたことない? 全部手絞りだぞ。くそ。腕が痛い。

 スッキリしたハナコと、モノクルをさっき乳を拭いた布で丁寧に拭いてかけ直した男爵様はお互い上機嫌だ。「よく頑張ったな」なんて声をかけているが、頑張ったのは私だ!


「さあ、ではキッチンに!」


 喜び勇んで甕を一つ持ち上げ、ステップを踏むように軽やかに足を踏み出した男爵様だったけれど、つい今しがた出されたハナコの落とし物に足を突っ込んだ。あ、と思った時はもう遅い。彼の足は見事な放物線を描いて宙に振り上げられ、身体が浮いた。甕は投げ出され、男爵様は腰から落下する。

 ハッとして甕の方を追いかけたけど、疲れ切った腕は役立たずだった。ガシャン、と派手な音を立てて割れて、せっかく絞った牛乳は床に広がっていく。

 あああ。もったいない!! 私の! 苦労が!!

 ハナコが知ってか知らずか、それを美味しそうに舐め始めた。


「おい。そこは僕を助けるとこじゃないのか? ……あたた……」

「私が頼まれたのはクロテッドクリームを作ることです。貴方の無事は特に言われていません」

「んー? そうか。……そうか? いや、だめだ。僕が無事じゃないと作ったものを食べられないじゃないか!」

「ご無事で何よりです」


 冷めた瞳で投げやりに言ったものの、男爵は「そうだろう」なんて明後日の返事をしている。いっそ頭でも打って気絶してくれれば、ナイフを取り返してとんずらしたのに。

 打ちそうになった舌打ちをぐっとこらえている間に、男爵は無事な方の甕を拾い上げようとした。

 慌てて横からかっさらう。


「それは私が持ちます!! 男爵様は湯でも浴びてきてください!」


 牛糞まみれで雑巾臭もしている男に食べ物を持たせたくない。


「えー。でも、ボイラーは使えないし、じゃあ、ついでに湯を沸かしてよ」

「なんで使えないんですか?」

「そろそろ暖かくなってきたから燃料費節約。無駄に大きいからさぁ。動かすのに燃料かかるんだよ。ひとりならキッチンで沸かした湯と水でどうにか」

「…………」


 私は誰の話を聞いてるんだ? こいつ本当に男爵か? 廃墟に住み着いた浮浪者だったりしないか?

 当初の疑問が再び過ぎる。

 いや。もういい。気にしたら負けな気がする。やることを終わらせて、さっさとおさらばしよう。




 キッチンに案内させて男爵を浴室に追い立ててから一息つく。

 さすがに居住空間は小綺麗に保たれていた。コンロもそこそこ使われているのか、火を絶やさないようにしているのか、まだ温かみが残っていたので湯を沸かすのもそこまで時間はかからないだろう。

 大小の調理用具は揃っていて、きちんと磨かれている。その一点だけは、お金持ちらしいと言えた。

 いくつかの鍋に湯を沸かしている間に、手回しの遠心分離機で絞った牛乳を分離させておく。クリーム状の方を取っておいて、これを一時間ほど湯煎にかけるのだ。

 細かい作り方は知らなかったのだけど、どこかにレシピがあるはずと聞いて、棚と引き出しを片っ端から開けてみたら、すぐに見つかった。

 温度管理が意外と面倒で、人に作らせたくなる気持ちは少しわかる。しばらくコンロの前から離れられなくなるので、湯が沸くまで丸椅子を引っ張り出してきた。


 陽はもう沈みかけているらしく、ガス灯の明かりが届く範囲以外は闇に沈んでいた。領主の館には電気が通じたらしいので、なるほど必要な場所しか灯さない明かりでは、『幽霊屋敷』の呼び名が似合う訳だ。

 きつかった包帯を巻きなおしていて、ふと襲ってきた男のことを思い出す。

 知らない顔だった。どこかの賞金稼ぎだろうか。ターゲットの顔も碌に知らなかったようなので、先に襲われてしまったあの娘は運が悪かった。ちょっと歌が上手かったばかりに。

 目撃者を口封じに来る周到さがあるなら……あるいは、どこかの組織の人間なら面倒くさいことになるかもしれない。ようやく普通の人々に紛れ込めてきたというのに。


 ぐらぐらお湯の沸く音に小さくため息をつき、それを浴室まで運んでいく。水場は纏まっているようなのでありがたかった。

 組織と言えば、ヘムリグヘート男爵は闇組織を牛耳っている、なんて噂もあるのだが、今のところそんな才能は欠片も見えない。そう装っているのだとすればかなりの曲者だ。

 猫足のバスタブに腰掛けている中年……は言いすぎか? いや。青年よりは行ってるだろう。行ってるよな? よく見ると年齢不詳で全く胡散臭い。


「やあやあ。ありがたいね。そっちのたらいに入れといて。こっちはいっぱいになっちゃったから」


 いっぱい?

 バスタブに水の入っている気配はなく、なんだか黒っぽい袋? が詰まっている。

 不審に思いつつも言われた通りにお湯を移せば、鼻をつまみたくなるような臭いが近づいてきた。慌てて場所を譲って、ついでにバスタブの中を確認する。


「ひっ……」


 と、飲み込んだ息の音はシャワーの音にかき消された。

 ぎょろりと目を剥いた、額の真ん中に穴の開いた黒衣の男が窮屈そうに転がっていた。額の穴からはまだ血が流れ出しているので、死んでから時間は経っていないはずだ。

 銃声など聞こえなかったのに、いったい何が……


「後ででいいから、それ、片付けておいてよ」

「何を……!」

「得意でしょう? 掃除」


 シャツを脱ぎ捨て、下衣に手をかけたまま胡散臭い笑みを向ける男爵に、まだ鍋を持っていたなら熱湯を浴びせたことだろう。


「なんで、私が!!」

「だって、君の客でしょう?」


 優雅に指差された先から舌打ちが聞こえてきて、次の瞬間には黒いものが飛び込んでくる。とっさに飛び上がり、その肩を踏み台に背後へと舞い降りた。黒いスカートが翻り、どちらの視界も遮る。構わずに、屈みこんだ体勢から片足を伸ばして体を回転させ、黒衣の人物の足を引っかけた。倒れ込む相手にさらに肉薄し、指先に触れるナイフがないことを思い出して舌打ちをする。相手の首に全体重を乗せた膝を落として、暢気にお湯の温度を調整している男爵を睨みつけた。


「客の相手をさせる気なら、ナイフを返してください」

「やだね。まだクロテッドクリーム作ってないじゃないか」


 マイペースにパンツ一丁になる男にいいかげん腹が立ってきた。本気で飛びかかろうかと重心を移しかける。


「キッチンにはまだ結構な数の刃物があると思うけど?」


 やれやれというように肩をすくめて付け足された言葉に思わずハッとして、にやりとする口元に歯噛みする。まだ数人の気配を感じていた私は、無言で身をひるがえした。

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