落ちぶれ男爵とワケありメイド

ながる

第1話 男爵、メイドを拾う

 うららかな午後、とは言えなかった。

 空には黒い雲が低く垂れこめ、今にも雨粒が落ちてきそうだ。無計画に広げられた住宅街の裏路地は、入り組んでいるうえに普段でもほの暗いが、今日はいっそう暗く沈み込んで見える。

 熟練執事のような年季の入ったシンプルなモノクルをかけ直して、男は誰も見ていないのに肩をすくめた。


「やれやれ。やっぱり外は物騒だ」


 足元にはいくつかの果物と粉ものが入った袋、それから若い女性が二人倒れていた。

 服装を見ると、どこかの下働き風のお嬢さんたちだが、片方は胸から血を流していて明らかに手遅れ。

 もう一人は……と顎に手をやりながら男は観察する。

 死んでいるお嬢さんより服装は地味。発育もよろしくない。特に女性の魅力である胸部と臀部に圧倒的に肉が足りない。

 ナイフで切られたのか、髪はザンバラ。手足に細かい傷多数ではあるけれど、こちらはまだ息があった。


「うーん……」


 男は間延びした声で唸ると、足先で女性をつついた。

 辺りには、他に人影はない。男が通りかかったときに逃げ出した人影も、戻ってくる気配もない。


「うーん。まぁ、いいか」


 何やら諦めたようにそう言うと、男は無事そうな果物と破れていない粉ものの袋を拾い上げて、同じような調子で息のある方の女性を担ぎ上げた。


「……おもっ。えー。どこに肉が……」


 わずかに女性が身じろぎした気がして、男は言葉を切るとうっすらと口角を上げた。

 そのまま踵を返し、人通りのある方へと向かう。


「まったく、面倒だねぇ。さて、これでどのくらい片付けが進むかな?」


 楽しそうに独りごちる男の肩の上で、女性の唇が微かに震えた。


 🎩 🎩 🎩


 最悪である。

 何が、と問われれば、全てがと答えるしかない。

 鼻がひん曲がりそうなニオイの中で目覚めたのも、意識のないふりをしているうちに不覚にも本当に意識を失っていたことも、手足にミイラのように包帯が巻かれていたことも、髪が短くなっていることも、メイド服を着せられていることも。

 何より!

 目の前の男が最悪である。

 一応、助けられた(ということになるのだろう)身であるから、多少の横暴には目をつぶって、多少でない横暴には相応の報いを返すつもりでいたのだけれど……

 荒れ果てた廃墟で目覚めてえずきながら戸惑う私に、ヤツは胡散臭い笑顔でのたまったのだ。


「あ、起きた? 僕ねえ、クロテッドクリームが食べたい」

「――は?」

「そりゃ、焼きたてのスコーンもあると嬉しいよ。でも、ほら、さすがにそこまでの贅沢は言えないからさぁ。クロテッドクリーム」


 にこにこと、まるで子供のように男は言う。

 現状も把握できず、黙り込んだ私をふたつの瞳が覗き込んだ。頭に蝶を飼っているのかとも思ったけれど、ダークグリーンの双眸はもっと厄介そうな輝きを有していた。思わず身構えて、彼をざっとチェックする。

 服装はシャツにループタイ、強固な皺が見えるので、アイロンは当ててないか、数日着たっきり? グレーのパンツ共々中流の上の方のイメージだけれど、この男からはもう少し鼻につく上流の匂いがする。

 ……訂正。臭うのは、ここの空気だ。獣臭というか、排泄臭というか。なんでこんなに臭いんだ。


「頭でも打った? やっぱりもうちょっとちゃんと診察しないとダメかなぁ」


 胸元に手を伸ばされ、反射的にそれを払いのける。男の口元が弧を描いたのを見て、布団を跳ね除けて男の背後へと回り込んだ。低い体勢から腿に付けたレッグシースへと手を伸ばしたところで、翻る黒いスカートに気付く。愛用のナイフは収まっておらず、右手はぐるぐるにまかれた包帯で鬱血しかけていた。

 振り返った男は驚いた様子も焦った様子もなく、同じように胡散臭い微笑みを貼り付けたまま、手にした小ぶりのナイフを持ち上げて小さく揺らした。


「うん。だいじょぶそう。それだけの元気があれば、できるよね? クロテッドクリーム♡」


 見下ろす男と、睨み上げる私。

 ふざけた男の真意と隙を探っていく。


「ぶもーーーぅ!」


 その緊張を切り裂いたのは、聞こえてきた牛の鳴き声だった。

 思わず膝から崩れ落ちそうになる。


「もうちょっと待ってなぁ」


 男は隣の部屋に向かってのんきにそんな声をかけた。

 なんだこれは。どういう状況だ?


「ハナコも苦しそうでさ。2日前に最後の使用人に逃げられて。訳ありなんだろう? 何も聞かないからさ。ちょっとうちで働きなよ」

「……働き……?」


 そこで、着せられているのが黒いスカートに白いエプロンのクラシックなメイド服だということに気付いた。こいつが着せたのだろうか。

 小さな焦りを目に止めたのか、いっそう朗らかに男は笑む。


「ああ。心配しなくていいよ。全部ひん剥いても僕のはぴくりとも反応しなかった。もうちょっと肉付きよくなったら考えるけど、まあ、そっちは期待してないか――っと……」


 平手打ちをすんでで避けられて、舌打ちが出る。

 ひょろい体は風にあおられたように距離を空けて、あわよくば奪い返そうと思ったナイフをさらに高くに掲げた。


「まあまあ。余計だったね。ともかく、気はないから安心してって言いたかったんだ。傷の手当てのお礼としては妥当だと思ったんだけど。クロテッドクリーム」

「感謝してるわ。ありがとう。でも、ごらんの通り、剥いたなら財布のひとつも持ってないのわかってるでしょ? それとも、有名店におつかいに行けばいいの? とにかく、そのナイフを返して」

「うーん。おつかいに出せる余裕があるなら、自分で買いに行くんだけどね。作ってくれたら、返してもいいよ」


 何をそんなにこだわるのか、金持ちの道楽なのか、よくわからないけれど、ひとまず頭の中で計算する。あのナイフは師匠の形見だ。執着はするなと言われたけど、愛着はあるし、服に隠し持っていた他の暗器も全部取り上げられているようだ。このままここを去ってもいいけれど、私を狙ったあの男はまだ近くに潜んでいるかもしれない。だとすると丸腰は心許ないのも確か。明るくなって代わりを調達するのを黙って待つなら、数時間料理に時間を取られるくらい、大差ない……か?


「……ここはどこなの。料理はどこで? 材料は」

「おっ。やる気になった? ここは僕んち。んーと、『幽霊屋敷』の方が有名かな? もちろん、キッチンに案内するよ。まあ、その前に材料を調達しなくちゃだけど。やったー! よろしくね。ピアちゃん」


 アホの子よろしくその場で小躍りする男に名を呼ばれて、私は思わず左腕を押さえてしまった。肩に近いところ、そこにある火傷の痕を。

 うっかり反応してしまったことにわずかに眉を寄せ、男を観察する。ここに残る文字を名前だと思い込んでくれただけならいい。

 だけど、私の視線もものともせず、小さく円を描きながら浮かれる男の様子に小さく息をついた。ただの変人だ。逆らわずにクロテッドクリームを作って、さっさと縁を切ろう。

 私は彼の言葉を反芻する。『幽霊屋敷』。そこの主人だというなら、彼の名は。


「では、レヴ・ヘムリグヘート男爵。キッチンに案内していただけますか?」


 ぴたりと動きを止めて振り返り、彼はひとつ頷くと、男爵らしい優雅な動きで隣室を指差した。

 本物の男爵かは知らないけど。何と言っても彼の情報は少ない上に、突飛な噂話しか聞こえてこないのだ。狂人が成りすましても判らないに違いない。


「うん。その前に、一仕事あるよ。まずは搾乳だ!」

「……は?」


 キラキラした笑顔に釣られたように頬がひくついた。

 まさか、本当にそこから?

 ああ、まったく……最 悪 だ。

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