5-3
部屋の容積は、人二人が寝るための最低限だった。長方形のワンルーム、手を広げきることもできない空間には、ネジ止めされた収納と、硬いセミシングルベッドだけがある。それ以外にはほんの歩く空間も無い。立っているか、ベッドに座るか、許されるのはその二つだけだ。
その一切は無機質に一色で、飾り立ては無い。ここはセクサロイドにとって、寝泊まりする部屋であり仕事場でもある。客が来れば同じ場所で抱き抱かれるために、私物を仕舞わずに置いておくことは許されない。どんな者がそこにいようと、部屋の様相は画一的だった……どの場所の、どんなクラブへ流れても。
ベッドは硬い、だがアスファルトよりは柔らかい。使い捨てのリネンシーツは薄くとも、雨水はおろか塵一つ染みは無く、替えも置かれていた。視覚的な狭ささえ、その白一色も、目を閉じさえすれば見えない。
臭気を遮断する手段はなかった、だが同じことだ。壁紙に染みた精液、愛液、或いはローションの饐えた臭いさえ、セクサロイドには関係の無いことだ。嗅覚センサーが感知を拾おうと、それはただの客観的な情報事実に過ぎない。人間のように本能的な嫌悪を抱き、苦痛を感じずに済む。苦痛と嫌悪の感情は、そこにあり得なかった。
否定しようのない事実として、セクサロイドが住むならば――――路上より遥かにマシだった。ここでは重酸性雨に打たれることは無い。
曲がりなりにもニューヨコハマに生きてきた、ギャングから逃げ延びた程度のことはある。だがレプリカントは、規格外だ。身体能力は他のあらゆる人型生物を凌駕し、電子的な能力か、どこまでも俺を追って来る。
選択肢はあった。近隣の廃ビルに身を隠す、オールド・トーキョーまで逃げる、オオサカの国境を越える。だがその一つとして、何一つ確かではない、実行するための金も無い。
とはいえ、いずれゾラは追って来る。いつまでもこの場所にもいられない。
……本当にそうなのか。少なくともここは、路上いるよりは安全だ。
セクサロイドは所詮、この狭い部屋のベッド上でしか生きられない。そのように設計されているのだから。
その時だった。部屋の扉が開く。
「あっ……ごめんね、待たせて」
丸眼鏡のセクサロイドが、手に腕部パーツを持っていた。俺の千切れた肩を外し、新しく取り替えようとする。
その手先は、ひどく不器用だ。モジュール化され誰でも交換できる互換パーツを、何度もねじ止めに引っ掛かり、噛み合わず、手を油に塗らす。
それでもようやく通電すると、腕は違和感なく動いた。
「どう?」
頷くと、セクサロイドは表情を緩めた。
「よかった」
ふと目線が、俺の片足を見る。板バネ式のままの方だ。
「もしかして、それも怪我なの?」
「違う」
「だって、片方ずつで違う足だよ」
「問題ない」
「待っててね。今お店に、余ってるパーツがあるから。あたし、こっそり……」
「俺に関わるな」
セクサロイドは言葉を詰まらせ、縮こまった。アルゴリズムで動く眼球レンズを、上下左右へ不規則に振動させる。呼吸しないセクサロイドが、人間のように肩を上下させ、唇のシリコンを擦り合わせる。
だがその呼吸は、程なく静かになった。何度もこちらの目と、口と、それと床とを、上下に繰り返し見る。その振り子の動きは、やがて目と目に収束した。
「それって、あの変な人に追われてるから? それとも……」
その声は、決して小さくはなかった。
「ならどうして、あたしを助けてくれたの? 雨に打たれてたあの日」
「いや……」
「コートを貸してくれたこと。ずっと覚えてた、お礼が言いたくて……それから……」
俺はそこで立ち上がった。背中を向け、扉へと足を動かす。
その手を、セクサロイドが掴んだ。
首筋が目に入る。安物そのままのフレーム、何の衒いも無くくすんだシリコンは、しなやかな直線でそこにあった。
「えっとね、あたし――――」
見慣れたセクサロイドの口が、俺の知らない名前を告げる。
「――――って言うの。ずっと、あなたと、その……友達になりたくて」
「お前が『痛がり』だからか」
「えっ……」
一瞬に言葉に詰まる。だがすぐにセクサロイドは、静かに続けた。
「そうじゃなくて……違う、そうだけど……その……そうだから。そう、あたしは『痛がり』。痛がるのが仕事なの。いじめてもらうの、お客さんに。プログラムで、十回歩いたら三回は転ぶようになってる。ドジでチビで目が悪くて、全部気持ちよくいじめてもらうため。ああ、自分じゃなくてよかった、って」
同じ言葉を聞いたことがある。
それを今、違う時、違う場所、違う色で聞いている。
「だから、どうせあたしになんて、きっと何一ついいことなんて無いって思ってた。頑張っても頑張っても、全部笑われて、最後は台無しになるだけだって。だって芋虫は蝶になれても、人間にはなれないでしょ。プログラム通りのあたしの、プログラム通りの人生だって……」
声は決して大きくはない。しかし小さくもなく、消え入ることもなかった。
「でも、それだけじゃない……かもって、思えたの。あの時助けてもらって。たまたまあの時、たまたまあそこにいただけの、あなたに」
「俺に」
「たまたまでも何でも、こんなあたしでも……明日はいいことあるかも、って。ちょっとだけ思えたんだ」
違う。善意でも、ましてや偶然でもない。
借りを返しただけだ。それも遠い過去の借りだ、返された本人が覚えていないにせよ、思い出す必要もない。
「だからあたしも、あなたに何か出来たらな、ってずっと思ってたの。同じ風に、ちょっとだけ……ちょっとだけも明日が明るくなればな、って」
だがその借りが、弱さが、ここでこのセクサロイドに出会わせた。俺の意志とは関係なく、俺を偶然にも生き延びさせた。それを幸運と呼ぶのか、運命と呼ぶのか、俺にはわからない。それでも
ならば、考えたところで無意味だ。やって来る何もかもを受け入れ、生きられるだけ生きればいい。
かつてそう教えられた。そう今思い出した。
セクサロイドは喋り終えると、黙り込んだ。俺の手を一際強く握り、耐えかねたようにまた口を開く。
「しばらく、ここにいていいよ。ほら、あの人まだ、近くにいるかも」
指の上を、指が這っていく。
「この部屋は仕事で使うけど、物置とか……そうだ、よかったらあたしが、オーナーにお願いするよ。雇っ――――」
その指を俺は剥がした。人工シリコンの肌と肌は、摩擦らしい摩擦を起こすことも無く、静かに離れる。
俺は扉へと踏み出す。
「待って」
背中から、聞き慣れた声が呼び止めた。
「もう、会えないの? いつか……」
「そんな先のことは知らない」
「で、でも……」
「だが……――――」
俺は俺の知らない名で、セクサロイドを呼んだ。
「――――、ありがとう」
シリコンの頬を丸く緩めて、――――は笑った。その拍子に、眼鏡が傾く。
あいつはセクサロイドだ。それでいい。
そして、俺は「元」だ。
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