5-4
階段を登る一面は、闇だった。
街灯の光も、それを照り返す水の流れも無い屋内。何をどこまで登ったのか、確かめる術は無い。剥き出しの乾いたコンクリートの形だけが、冷たさと硬さとを伴って、足音を返す。一歩踏み出す度、その反響、そしてその反響。今自分がどこにいるのかを示す証は、それだけだった。
ふと、薄明が差す。上層へと一段を重ねる度、光は近づいた。やがて強く輝きを増し、乱れ、猥雑に煌めいていく。
最後の一段の向こうにあったのは、遠く都心部の点景だった。並び立つビル群、ネオン広告の連なりが、モザイクめいた光となって差し込む。その先は無い、崩落した壁と階段の残骸が、人骨めいて口を開けていた。
屋上へはまだ遠い。別の階段が必要だ。
道を折れ、中へと入る。様相に差は無い、闇を孕んだ鉄筋造りの迷路。ある場所には壁が無く、またある場所には床さえも無い。広く空虚な区画がそびえれば、狭く先のない道もまた横たわる。階層の概念の曖昧な中を、ただ壁伝いに進む。
灯りとなるのは、焚火だけだった。時に角越しに、時に柱の裏に火が焚かれ、影が揺らめき覗く。大抵はボロ切れを纏った人影が、眠っているのか、死んでいるのか、じっと身を潜めていた。それでも炎を囲う場所から、視線だけは感じる。
そのような浮浪者や、或いは企業に追われた者たちだけが、ここにいる。建設計画が頓挫し捨てられ、誰のものでもなくなった廃ビル。ここに残されたものは無いに等しい、精々が不法廃棄物だ。
故に誰かがそこにいる。暗闇の中には、常に息遣いがあった。どこから響いてきたのか、それすら反響のままに曖昧で、全ての音は不明瞭に交じり合う。元セクサロイドの足音もまた、容易く只中に紛れていた。
その騒々しい静寂を、声が切り裂く。
「どこまで逃げるつもり?」
どこか別の階から、声だけが遠く反響してくる。軽く細く、しかし低い。
「あの子の部屋にいればよかったのに。そんなに僕に会いたかった?」
ゾラだ。
「ま、いい判断だよ。このビルに電波中継器は無い。僕の能力を見抜いて、一番いい場所に隠れたわけだ……あれ? そこにいるよね。おーい返事してよ、ね」
俺が留置所にいたことを、ゾラは知っていた。警察を偽造電子証明で欺き、俺が逃げればその退路へ回り込んだ。奴の電子処理能力は、最早端子に触れるさえ必要ない、そう考えた方がいい。追って来ることは想定済みだ。
そうでなければ困る。
「ちぇ。位置は教えてくれない、か。君たちってみんなお金が無いから、ネットワークに繋げないだろ。見つけるのにいつも苦労するんだ……」
声は一方的に続く。
「で、どうする。このビルから逃げる? かくれんぼでもする?」
そこで目の前の闇に、上層へ続く階段が現れた。
「それとも……僕と戦う?」
足音が走った。重く、鈍く、それでいて急速な動き。獣染みた足取りが機械めいたリズムを刻み、唸りを上げて近づいてくる。
この階段も行き止まりだ。また別の階段を探し、通路へと折れる。その間に足音は、壁一枚の隣に――――違う、そこにいる。
コンクリート壁が砕けた。白い指先の貫いた断面と粉塵を掻き分け、ゾラが姿を表す。
「見つけた」
背を向けて走る。すぐ背に酔った足取りを感じながら、隣接するフロアへと飛び込んだ。
途端に俺とゾラへ、無数の視線と銃口が向く。
ギャングの取引現場だ。
「
「用心棒呼んで来い!」
「殺せ!」
怒号が飛び交うその中へ、咄嗟に身を伏せる。射線は俺の頭上を過ぎり、そのまま後ろに立つゾラを向いた。
次の瞬間、全ての銃口は一切の躊躇なく火を噴いた――――自らの頭へ。
肉、骨、血、そして金属と油、あらゆるものが弾け、飛沫き、辺り一面に転がる。そのただ中を全身に浴びて、ゾラだけが立っていた。
「このニューヨコハマに、サイバネ化されてない人間なんていない」
血の海を這い、まだ動く銃口もあった。それさもゾラが一つ手を振れば、銃口は持ち主の意志と関係なく動き、もう一度自分の頭を撃ち抜く。
「便利だもんね。みんなネットワークで繋がりたがる。だからこうなる」
跳弾した一発が、ゾラの横頭へ流れた。だが揺らしただけだ、ゾラは立っている。肉が抉れることも、血を流すことも無い。
その間に俺は、また立ち上がり駆けた。
「頑張るね。偉い偉い」
背中から、嘲笑うような声が続く。
「三十人いたから、三十秒待ってあげるよ。一…………二…………」
間延びしたカウントを無視し、最後の階段を登る。
建造途中のビルに、これ以上の階は無かった。屋上だ、鉄骨が剥き出しに晒された中を、重酸性雨が強く吹き付ける。
レンズを凝らし、断崖へ走った。立て掛けに錆びついていた廃材を、関節駆動限界に押し込み、傾ける。足場用の金属板一枚が、隣のビルへ倒れ、橋となった。
その上を渡った直後、ゾラが屋上へ現れる。
「それで終わり?」
隣のビルの扉には、鍵がかかっていた。壊すだけの道具は無い。
「逃げて、逃げて、逃げ続けて……
返り血を重酸性雨に流しながら、近づいてくる。
「そんな人生が今終わる。さ、今どんな気持ちかな。死を前にして、君は何を想う」
廃材の橋の上に、ゾラが一歩踏み出した。
「聞かせて――――」
そして落ちた。
廃材は音を立て、真っ二つに割れた。支えを失ったゾラの身体は音も無く落ちていき、高層数百メートルの暗黒に呑まれ、見えなくなった。
見せかけの身体がどれだけ細くあろうと、レプリカントの身体能力は凄まじい。それは一見物理法則に矛盾するが、答えは明白だ。それだけの筋骨格密度を持つに過ぎない。つまり体積当たりの重量比で見れば、人間より遥かに重い。セクサロイドの力では、ゾラを押し倒すことは不可能だった。
だが、そのために廃材は折れた。劣化した金属板は、軽いセクサロイドには渡れても、レプリカントの重量には耐えられない。
重酸性雨だけが、変わらずに振り続ける。その中に俺はしゃがんだ。
ただ一人――――ではなかった。
コンクリートへと叩きつけられる。衝撃、そのブラックアウトの中に、奴の顔が見えた。
「どこまで作戦かアドリブかは、知らないけど」
片腕で俺の首を掴み、ゾラが笑っている。
「ま、なんにせよよかった。もう一人いて」
「ゾラ――――」
「僕、ゾラじゃないよ」
目の前のレプリカントは少女のような笑みを浮かべ、少年のように唇を動かす。その舌先の動きに至るまでが、紛れも無くゾラだった。
しかしその裸体に、返り血と油は無い。
「ついさっきゾラが死んじゃったからさ、名前が無いんだよね。アルファベットはZで終わりだから、次からなんて呼んでもらえばいいかな……」
首を掴み上げられ、俺の身体は浮いている。どれだけ身を捩ろうと、ゾラ――――便宜上ゾラと呼ぶしかないそれは、動かない。
「ま、いっか。これから君は死ぬんだから。そうだ、自爆でもしてみる?」
ゾラの手に力が加わる。電子脊椎が物理的に軋み、駆動信号が途絶していく。
「そうだ、一周回ってこういうのはどうかな」
ゾラの唇が迫る。
「頭文字Aで、アレ――――」
それを貫いたのは、決定的な音だった。
雨の中、血が流れる。飛沫くことも、裂けることも無く、静かに漏れ出ていく。ゾラの額、その正確正面を貫いた、ただ一点の風穴から。
その向こうに、人影が現れた。何も無かったはずの場所で、電離した酸素燃焼と共にステルス迷彩が解ける。
「つまらない用心棒など受けてみれば」
便宜上ゾラだったものが、笑みのままに崩れる。それと俺をと見下ろすように、アンドロイドが立っていた。
「レプリカントに……セクサロイド、か」
人間を模倣する一切が無い。シリコンの肌や筋肉を持たず、
少なくとも、媚びるために作られてはいない。それは銃口からも明らかだった、硝煙を燻ぶらせたブラスター拳銃が、俺を向く。
「まさか、もう一度お前と会うとはな」
こんな奴は知らない。
元セクサロイドの契約労働者が、関わっていい相手でもない。
「俺はお前を知らない」
「そうか……だが私は知っている」
簡素なスピーカーにノイズを曇らせ、アンドロイドは単調に続ける。
「レプリカント風情の真似をするのは癪だが、私は今いつでもお前を殺せる」
背には鍵のかかった扉。目の前には銃を持ったアンドロイド。ゾラが生きていようと、死んでいようと、状況は何も変わっていない。
「さあ、どうする」
ならば、俺のすることも変わらなかった。
「お前を殺す」
銃口が僅かに動いた。
「ふざけているのか? お前如きセクサロイドに――――」
「『元』だ」
「それができると」
「わからない」
「何?」
「やるだけだ」
ニューヨコハマの雨は終わらない。アスファルト上に見上げたところで、ビル群の連なりと、重酸性雲だけがそこにある。星々が瞬くことも、昼と夜が移ろうことも無い。
だがそれが、セクサロイドの一生には永遠に等しい暗黒であっても――――一瞬でも同じ雨が降ることは無い。クラブの部屋からは見えなかったものが、ここでなら見えるかもしれない。
その前に立つのなら、逃げた先にも追って来るのならば、殺すまでだ。
「馬鹿にしているのか!」
声が割れ、ハウリングめいた雑音を混じらせる。
「勝者は生き、敗者は死ぬ。それを裁くのはただ唯一、絶対的な強さだけだ」
銃口がさらに近づく。電子頭脳の収まるフレーム一枚越しへ、照準に寸分の狂いも無かった。
「しかしお前には、研ぎ澄まされた理想も、醜悪なまでの力も無い。ならば何を見る。何に縋る。その脆弱なボディに産み落とされ、お前は何のために生きる。何を信じる」
「何かを信じたことは無い」
このアンドロイドが俺に何を求めるのか。そんなことは知らない。
「だが、死が理不尽である様に、生もまた理不尽だ」
「生だと」
「憐憫、敗北、逃避……偶然。ただ弱さに見える全てさえ、俺を生かす力かもしれない。敢えて言えば、それを信じる」
「偶然だと! それは自己正当だ。虫けらが己を慰めるための、破綻した夢だ。ただ捨て鉢の運任せではないか!」
そうだ。俺は運がいいだけだ。
「それでも生きている」
「何のために」
「それを知るために」
骸骨染みたフレームが軋み、金属と金属とが低く呻く。その手は硬く握られ、刃のように研がれた指先と手で、それそのものを砕かんばかりだった。緊張に張り詰めた力が、引き金に触れる寸前で震え続ける。
だが、その表面を雨水滴り落ちる度、静寂がそれに代わった。不規則な曲線に乱れていた銃口は、やがて一点へ収束する。
「博士……私は」
音も無く、銃口が下ろされた。
足元の水を掻き分け、アンドロイドは背を向けた。そのまま一歩ずつ離れ、ビルの断崖、それ以上どこへも行けない場所に立ち止まる。
そして振り向き、もう一度目だけでこちらを見た。
「お前は狂人だ。蛮勇と無知とを履き違えた、白痴に過ぎん。だが……」
アンドロイドが何かを投げた。コンクリート上の水面を滑り、俺の足に留まる。
ブラスター拳銃だ。
「その銃は、お前にこそ相応しい」
その言葉が終わると同時に、空気が電離を始めた。一筋のプラズマが空中を走った後、ステルス迷彩が空間を塗り潰す。降りしきる雨の中でさえも、アンドロイドの姿は見えなくなった。
残ったのは、銃だけだ。
拾い上げたそれは雨水に濡れ、しかし硬く照っていた。
「なるほど」
すぐに身構える。屋上の土砂降りの中を、声がした。
「つくづく運だけはいいね」
俺以外に立つ者はいない。
声は、足元から響いた。瞳孔の開ききった死体、ゾラであってゾラでないものが、口を動かしていた――――動かされていた。
「でもま、ここまで生き延びただけのことはある。ちょっと興味が沸いたよ」
死人の口が、一方的に続ける。
「君も逃げるつもりはないだろ。だったらもう一度、その力を見せてくれ」
死んだ眼が瞬き、角膜の奥に発光が生じた。微細な光は数字の形を取り、意味のある数列を繰り返す。
座標コードだ。
「来なよ、――――」
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