5-2
テナントビルの入口並ぶ通り正面、ネオン光は乏しい。薄暗く火花を散らすか、消えたまま放置されるか。裏路地の如き狭く一本道に、灯りは霞む。ネオンそのものの影と、時折に行き交う影、そこには何の区別もなかった。目を凝らせば歓楽街とわかるが、ポン引きの一人もいない。
その理由は、見る者が見れば瞭然だ。看板唯一つで検挙されかねない違法クラブ、ニューヨコハマの表にさえも出てこれない店が、この場所に行きつく。端金と心中する文無しが、当て所も無く彷徨うか。用済みと叩きだされた娼婦にセクサロイドが、行き場も無く佇むか。そのどちらかで、人通りは無いに等しかった。
雨風さえもどこか疎らだ。都市計画の見放した並びは歪で、隙間を風が逃げ、傾斜に雨は反れる。そのように胡麻化された雨風は、激しく音を立てることもない。だが完全な無音でもなく、それが寧ろ画一的なノイズめいて、静けさを強める。防水コートの切れ端のたなびきも、下水へと呑まれる水の流れも、全ては入り混じって曖昧に聞こえた。
確かなのは、ゾラの足音だけだ。
それがふと立ち止まる。
「よくついてくるね」
体は前に向けたまま、首だけでこちらを向いた。
「『どこ行くの?』とか、聞かないの?」
「聞かない」
留置所から出たばかりだ、金は無い。辛うじて生き延びているのは、この防水コートを与えられたからだ。ならば逆らうだけの権利は俺に無い。
「じゃ、もし、もしだよ。仮に僕が君を殺そうとすれば、どうする?」
「逃げる」
「追ってきたら」
「場合による」
ゾラは大きく息を吐いた。
「君、よく生きてこれたね」
「少なくとも、まだ生きている」
「運任せに開き直ってるだけじゃない。もっと何か無いの? 人生を切り開こうって信念とか、輝かしい夢とか。知恵とか力とか、愛とか勇気とかさ」
そんなものは無い。
ゾラはもう一度、深く息を吐いた。
ゾラがこちらを向く。同時にボロ切れが翻って離れ、身体を露にした。
一糸まとわぬ華奢な裸体。一度も光を浴びたことの無いように透き通った肌が、路地の闇に浮かぶ。だがそこには、何も無かった。男性性を主張するペニスも、女性性を主張する乳房も無い。平坦な肉体が少女のような笑みを浮かべ、少年のように唇を動かす。
重酸性雨の中、爛れることも、悶えることも無く。
「結局いつだって君たちは、僕を失望させる」
「レプリカント」
遺伝子調整の上で培養された、人造複製人間。無機的なアンドロイドとは違い、有機的な人体を持つ。
だが聞いたことがある、その性能は比較にならない。四年の寿命設定と引き換えに、あらゆる汎用人工知能を凌駕する、人間の作った最も人間に近い生物にして、人間を超えた存在。
ゾラが動く。その過程を捉えることは、物理的に不可能だった。視覚モジュールの描画と描画の間に、ゾラはそこにいた。
俺の腕を掴んでいる。押すことも引くこともできない、雨が流れるのを見ているしかないように、万力染みた力が離さない。
「驚いてるね。そういう顔をしてる」
「何のつもりだ」
「今ここにある行動が全てさ、そう言ったのは君だろ……君を殺そうとしてる」
手首ただ一点を締め上げる力が、腕全体を歪ませ、関節を逆へと曲げていく。少しでもこちらから力をかければ、肩からもぎ取れる寸前だった。
だから俺はそうした。肩を形成するフレームは容易く断裂し、配線が千切れ飛ぶ。これで自由になった、掴まれたままの腕を切り捨て、踵を返し走る。
二度曲がって視線を切り、テナントビルの連なる隙間へ潜った。ごく僅かな空間だが、片腕が無ければ入り込むことは容易だった。目指すのは、人の密集する往来だ。
レプリカントは企業にしか製造できない。即ちほとんどは企業の所有物だ、宇宙植民地で製造され、そこで死ぬ。自我を剥奪された廉価モデルでもなければ、
つまり人目さえあれば、派手は追ってはこれない。路地を二つも跨げば、目抜き通りに出る筈だった。細く身を捩り、俺はビルの隙間から這い出て――――目の前にゾラがいた。
「あり触れた逃げ方だ」
進むことも戻ることもできない首を、白い手が掴む。
「何の目的も無く、受動的に流されるまま、何かを考えることも、自ら行動することも無い。ただ死んだように、或いは眠る様にそこにある日々を生きるだけ。そんな自分を肯定するためだけの論理を真実と呼んで、他者を拒絶して孤独と高慢を履き違える。なんて惨めで、有り触れた存在なんだ」
身体が浮く。投げ飛ばされた、そう理解すると同時に、暴力的な衝撃が走る。路地のアスファルト上へ鈍角に激突し、身体は数度バウンドして、ようやくに落ちた。
平衡ジャイロが狂い、上下左右の区別もつかない。足こそまだついていたが、錯転した視界の中、立ち上がることもできなかった。
ゾラの姿は見えない。吹き飛ばされた俺を見失い、緩慢な足取りの声だけが、路地の角へ近づいてくる。
「ま、一応聞いてあげるよ。死を前にして、今どんな気持ちかな。君は何を想う。聞かせてくれ――――」
その時だった。地面を引きずられる。
足を掴むものがあった。微弱な力だが、雨水の冷やかさに滑らせ、俺の身体を引きずっていく。
徐々にゾラの声が遠ざかっていった。やがて屋内に入ったのか、蝶番の閉まる音と共に、雨さえも途切れる。そこでレンズは平衡を取り戻し、辺りを見渡した。もたれている場所は、豆電球の吊るされた裏口らしき扉だった。
「えっと……」
その正面に、セクサロイドがしゃがんでいた。
「だ、大丈夫?」
貧相な安物だ。劣化したシリコンにそばかすのような染みが浮き、低品質レンズの上から眼鏡をかけている。背は子供ほどしかない、
どこにでもある底辺クラブの、どこにでも売っている――――見慣れたセクサロイドだった。
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