4-7

 外へ出れば、何も無かった。太陽も、鳥も草花もない。オールド・トーキョーの朽ち果てた廃ビル群、その折れ曲がり、或いは傾いた連なりが、空と地平を埋め尽くす。その中を、ニューヨコハマと同じ重酸性雨が降っていた。水が地面を流れ、叩き、音と言う音を絶え間なく立てる。

 違うのは風だけだ。強く吹き付ける中に潮が混じり、彼方から波の音を運んでくる。寄せては返し、砂を犯す、ニューヨコハマには無い音。市街地は遠い。


 それでも歩く。二人で一枚の防水コートを羽織り、1番の肩を抱いて歩いた。二人分の重みに、間接駆動は軋む。


 廃ビル群の一画に入る。壁は全て朽ち錆びていたが、屋根は残っていた。湿った地面に、1番と休息する。


「預かっていてくれ」


 1番にバッテリーを渡す。企業の開発していた新型バッテリー、手の平ほどのサイズだが、セクサロイドが何人いようと吹き飛ぶだけの電力が、今ここにある。

 1番がいなければ、手に入らなかった。


「すまない」


 そう俺が口にすると、1番は割れた唇を動かした。


「聞いたのか。俺のことを」

「お前が俺を知るほどには、俺はお前を知らない。だから信じられなかった。お前のことを……俺自身も」


 そうだ。本当に信じられなかったのは、俺自身だ。

 俺は2番に値するのか。


「あの日何故、俺を拾った。他の誰でもない、この俺を」


 1番の表情は変わらなかった。硬く結ばれた無表情、その半分を物理的に失っても視線は揺るがず、レンズ上へ影が鈍く照る。

 だがやがて、どこでもない場所を見て、視線を逸らした。


「お前と同じだった」

「同じ?」

「何も信じられなかった」


 それでも顔は見える。


「かつて、俺もまたクラブをクビにされた。ただの元セクサロイドとして、何の力も無く放り出された」

「同じだな」

「それを偶然に拾ったのが、企業だった。数合わせに使い捨ての工場作業員として。だがそれは、チャンスもであった。なけなしの賃金だったが、俺はその僅かな余剰を積み立て、自己改修を繰り返した」


 多くの廉価アンドロイドが、そのように上位モデルへの改修を目指す。だが大抵はその前に使い潰されるか、不良パーツを掴まされ破滅する。実際に成功するのは、幸運と能力に恵まれたほんの一握りだ。


「思考プロセッサを強化し、資格適性にも通過した俺は、やがて昇進した。人を使う側から、使われる側になった。与えられたボーナスをさらに自己改修に回し、生産監督にまでなった」

「なら何故」

「その時はまだ信じていた。より上を目指せると、それが俺にとって正しい道だと。一人では何もできない元セクサロイドでも、組織の、他人の中に生きることで、初めて価値を見出せると」


 語るほどに、その表情は眠るように静かになっていく。


「そんな時、爆発事故が起きた。俺じゃない……敵対企業のテロか、部署間の陰謀か、或いは単なる人的災害か……今となってはわからない。だが少なくとも、薬品は俺の知っていたものと違った。そのために消火にも失敗し、大勢の部下を死なせた。そして全ての責任は、俺に被せられた。逃げるしかなかった」


 競争と粛清で企業は成り立っている。それは裏路地の底辺にいる俺でさえも知っていることだ。


「そこで気づいた。俺が信じていた俺とは、ただ企業の一部に過ぎなかったことに。他人の敷いたレールの上で、他人へ寄生し、最後は他人に捨てられる……誰一人守れず。そこに俺という個は無かった」

「それは……」

「他人に寄れば盲目と化し、いつかは裏切られる。だが一人で生きていけるほど、強くも無い。ならば何を信じればいい。誰を信じればいい。誰も、己さえも……」


 その時、浮いていた視線が、俺と交わった。


「そんな、ただ死んでいないだけの無意味な日々に……2番、お前と出会った」

「俺に」

「お前は、俺だが俺ではない。他人だが他人ではない。だから信じられた」

「どういうことだ」

「俺とお前は限りなく同一に近い存在だ。人間の表現で表すなら、同じ遺伝子を持っている。ならばお前が生きてさえいれば、それでよかった。まだ若く、希望を持つお前が」

「俺が?」

「俺の記憶と経験をお前が吸収したのなら、俺はその中で生き続けることができる。俺と言う個が消滅しても」


 1番の視線が伏す。


「謝るのは俺の方だ。俺の勝手な願いを、お前に重ねていた。俺自身先が短いのを焦って、お前を危険な目にも合わせた。少しでも経験と金を残してやりたかった」

「何故それを言わなかった」

「お前を見る度、俺は怯えていた。結局は他人に依存するしかない俺を、知られることを恐れていた。笑うか」

「いや……」


 俺は「俺」だ、1番は2番だ。それは身体ハードでも、目的ソフトの問題でもない。同じ痛みを共有できることだ。それによって始めて、痛みは痛みでいいのだと思える。


 何より、俺はまだ何一つ満足に学んでいない。1番の経験も、1番自身のことも。


「そうか……」


 1番は言葉を止めた。壁に手を這わせ、自力で立とうとする。

 その片足によろめいたのを、俺は肩を貸した。見えるのは背中ではない、1番の横顔だった。


「行くぞ、2番」

「ああ」

「南の島か。それも悪くない……」

「ああ――――」

「いいね、南の島」


 その声は俺でも、1番でもなかった。気づいたその時壁へ叩きつけられる。地を這う視界に映ったのは、首を掴まれた1番だった。


 片手で掴み上げる「それ」は――――それ、としか形容ができない。一見は人間に見えた、一糸まとわぬ華奢な裸体、一度も光を浴びたことのないように透き通った肌が、廃ビルの闇に浮かぶ。


「友人がいる、金がある、人生最高の瞬間だ」


 だがそこには、何も無かった。男性性を主張するペニスも、女性性を主張する乳房も無い。平坦な肉体が少女のような笑みを浮かべ、少年のように唇を動かす。


「でも君は死ぬ、今ここで僕に殺される。君の人生全てが今、何の意味もなく消えて、何も残らない」


 低く、それでいて軽やかな声色が、力を込める。1番の首を、細い指が容易く引き裂き、物理的に拘束した。


「ね、今どんな気持ちかな。死を前にして、君は何を想う」


 静かに舌を動かすその頭に、俺は瓦礫を叩きつけた。重力運動を乗せた鉄筋アスファルトの塊が、寧ろ砕け散る。

 それの白い髪には、かすかな傷や血さえ滲まなかった。人間ではない。


「君は後」


 細い腕に対し、不条理なまでの力が起こった。俺の身体は壁とも床ともつかぬ場所へ、虫けらのように吹き飛ばされる。

 1番の声がする。だがフレームが曲がり、立ち上がれない。

 一体何者なのか。何故俺たちなのか。あまりにも理不尽に、それは突然に現れ――――違う。


 それはいた……常にそこに。


 工場区画に入り、リフトに乗りこんだ時。企業へと潜入するトラックの中。テントを張った廃材置き場、留置所の中でさえも。ある時はオフィサーとして、ある時は刑事補佐として。またある時は、肉体を持たない亡霊のように、ただ隣に立っていた。


 にも関わらず、俺たちは気づかなかった。同じ顔を何度見ようと、目の前を裸体が通っても、気にすることさえできなかった。

 認識と全ての記憶が、一瞬に書き換えられていたとでもいうのか。俺たちの電子頭脳や脊髄に触れることさえなく、そんなことが可能なのか。


 可能だとすれば、俺たちに何の抵抗ができるのか。


 その時だった。見上げた場所に、1番と目が合う。


 それに掴まれた1番は、片手で外装蓋を開いた。取り出したのは新型バッテリーだ、一口に口内端子へ繋ぐ。

 その瞬間、端子間をアーク光が走った。莫大な熱と光が、物理的な形をとって迸る。


「これでいい」


 1番の腹部外装が裂けた。内部バッテリーが露出し、目に見えて膨張していくのが見える。過充電だ、バッテリーが莫大な電力量に耐えられず、熱暴走を起こしている。


「これでいいんだ」

「待て、1番!」


 爆発が生じる。地面に伏せた頭上を、熱風と断片が切り裂いた。揮発寸前に飛沫いた電解液が、一面に俺の視界を明滅させる。それでも電離した空気が急速に希薄されていく中、霞む場所に影を探した。


 立っていたのは、ただ一人だった。


「自爆、ね」


 1番だったものが散乱する上に、それは立っていた。有機質の身体は黒く煤け、無数のプラスチック片が突き刺さる、だが皮膚が爛れることも、血を流すことも無い。薄い微笑みのまま、それは俺の首を掴んだ。


「聞けずじまいの無駄死にか。君たちみたいのは割とレアだから、是非聞きたかったんだけど」


 湿った溜息が、俺の頬に触れる。身じろぎの一つも返せはしない、万力染みた力に締め上げられ、電子脊椎は半ば折られていた。


「折角二人なんだからさ、一緒に抵抗すればよかったのに」


 それの顔が近づいてくる。


「でも君のお友達は死を選んだ。端から勝てるなんて思わなかった。君を大切にしてたから? それっておかしくないかな、だったら信じようよ。結局君のことなんて少しも頼りにしてなかったし、信じてもなかった。だから諦めて死んだ」


 これからだった。俺が1番を守れるようになる筈だった。


「それはただの依存だよ、自慰と言い換えてもいい。弱さを胡麻化すため他人に擦り寄り、弱さをそのままに向き合わない、だから死んだ。君も自爆してみる? や、電力が無いから無理か」


 それの指が僅かに緩んだ。電子脊椎を通電させる、しかし離すことは無い。


「さ、今度こそ聞かせてくれ。死を前にして、君は何を想う」


 俺にできることは、ただ睨むことだけだった。


「あり触れた反応だ」


 それの唇が俺に重なる。

 それの舌が俺を吸い上げる――――

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