間章3
夜時間のオフィスは静まり返っていた。古ぼけた照明が消えれば、そのパルスめいた低い駆動も聞こえない。窓を叩く雨音は音の内にも入らない、パテーションと机で組まれた広い空間は、ただただ空虚だった。
マウスとキーを叩けば、それらは震える。けれどそれが音を発しているのかさえ、静けさには寧ろわからない。音なのか、或いはただの振動なのか、クリックを繰り返す度に幻肢痛染みて、不明瞭だった。
合わせてPCのディスプレイが切り替わって、曖昧な影も移ろう。ひび割れた打ち放しのコンクリート、そこから剥離した塵と埃とが、モニターの光彩に現れては消えた。その明滅が、本当に見たものだったのか、ディスプレイ上のノイズだったのか。それさえも、一瞬の後にはわからない。
そんな中で、ディスプレイに映る文字列だけを確かめる。それが仕事だった。
電話が鳴り響く。番号を見れば、他署からの連絡だ。
「はい、シンタカシマ署資料課です……あっ、あの件ですね、はい」
電話をハンズフリーに、片手でメモを取りつつ、片手はマウスを動かし、目はディスプレイのメールを見る。
どちらも死体のタレコミだった。けれど、価値ある情報ではない。
「謝礼の方はまた今度。ご連絡ありがとうございました」
早々に電話を切り、次のメールに移る。その次も、次のメールも、転送の必要はない。
気の遠くなるような作業でも、この微妙な判断はAIには任せられない。僕が精査し問題のない情報だけが、刑事に転送される。
その刑事は、携帯ヌードルを啜っていた。塵と埃が降り交じるのも構わず、目だけはPC画面を追っている。
スープを飲み干すと同時に、刑事は口を開いた。
「どうだった」
「また駄目ですね、嫌になりません?」
「嫌ならいい。帰っていい」
「別に。面倒ですけど、面白いと言えば面白いですし」
刑事は何も返さない。あの死体と類似する情報を調べ続けている。機械のような繰り返しの中で。
「意味あるんですか、これ」
僕の興味は、寧ろそこにあった。
「何を追ってるんですか。正義か真実か知りませんけど、有りますかね、そんなもの」
刑事の目だけがこちらを向いた。深い皺の奥の水晶体が、光を小さく、しかし確かに反射する。
けれどすぐに、ディスプレイへと戻っていった。
「そんなことは知らない」
「無いものを探すんですか」
「ただ、知りたいだけだ」
言ったきり、刑事は口を結んだ。
知識欲。崇高に聞こえても、欲は欲だ。そして知識はフラットなエネルギーに過ぎない。知るだけ知り何にも使われなければ、何の意味もない。
いや、知識ではない。この男が求めるのは真実だ。ただ、暗闇の中で何があったのか、隠されているものを暴くことに意味がある。磨かれた知性でも、語られるべき物語でもなく、陳腐な事実だけがそこにある。
でも、理解はできる。
世界をより正確に知ろうとすることは――――例えそれが、一分一秒に揺らぐ量子的なものであっても――――本能的だ。極めてシンプルに、機能的な生存欲求へ即してる。少なくとも酩酊や幻覚の世界へ身を投げるよりは、僕にも遥かに理解できた。
横道でも、もう少し見ていたい。この男が、どんな結末を迎えるのか。
僕は立ち上がって、背筋を伸ばした。部下として、少しは仕事らしい仕事をしてやろう。
「コーヒー、淹れますね」
刑事の視線が一瞬だけこちらへ向いた。目を細めて、けれどまた、音も無く画面に戻る。
僕は席を離れて、給湯室に入る。電話が鳴ったのはその時だった。
「俺が出よう」
何か言う前に、刑事が電話を取った。
「ああ、俺だ。さっき出たのは部下だ……何?」
眉間に刻まれた皺が、一層深くなる。
「ああ……いや、待て。どういうことだ。あの死体と?」
コーヒーを淹れて、後ろから刑事の席に置いた。薄い白髪の張り付いた頭が、すぐそこで震えてる。
「全く、同――――」
その後頭部に、僕は引き金を引いた。
銃弾が頭とディスプレイとを貫いた。身体は椅子の中で跳ね回った後、血の海へ俯せに沈む。刑事はその中で、目を開けたまま動かなかった。
「あーあ」
もう少し見ていたかったが、仕方がない。背に腹は代えられない、運が無かった。
「結構楽しかったんだけどな」
僕は拳銃を口に咥え、もう一度引き金を引いた。
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