3-3
百四十四人目を殺した日だった。研究室に戻ると、博士は倒れていた。
生命維持カプセルに博士を運ぶと、自動で投薬が始まる。だがそれ以上、私にできることは何もない。この研がれた爪では、脆い人体には触れることもできない。
博士は無口で、無表情な人だった。故に眠っていてもなお、起きているようにも、逆説的に死んでいるようでもあった。心音グラフの幽かな響きだけが、唯一に生きている証だ。
だから博士が目を覚ますと、私はカプセルへ身を乗り出した。
「ご気分は。どこか、痛む場所などは」
博士は横たわったまま、私と、それから天井とを、眼だけで見渡した。
「年、か」
鉄めいた表情のままに、酸素マスクへ溜め息を吐く。
「間に合わんな」
反射的に言葉を返す。
「必ず間に合わせます。『完全』に至る三百人まで」
「あと百五十六人。どうやって間に合わせる」
「それは……」
「具体的には。言ってみろ」
私は殺し屋だ、テロリストではない。誰でも殺せばいい訳でもなく、抵抗してくる標的が必要だ。そうでなければ、三百人の意味もない。
博士はまた目を閉じた。細く脱力した身体、しかしその眉間と額にだけは、深い皺が刻まれている。
私の爪は、この皺ほどに深い傷を残せるだろうか。そう思うと、何か言わねばと駆られた。
「ですが……『完全』なる身体に、博士の意識を移していただくことが……私の存在意義です」
「もういい」
「しかし……」
博士は眼を閉じたまま、表情を歪めた。一層深くなった皺を、解けない結び目のように滲ませ、もう一度溜め息をつく。
それでも足りないと言いたげに、博士は口を開いた。
「蟻の巣を見るのが好きだった」
ニューヨコハマでは絶滅している、見たことはない。だがデータにはあった。
「森や砂地の中、蟻は列をなして這いまわる。人の爪の先にも満たない身体、コピー用紙一枚にも劣る厚みの脳。自我を持つことも、自ら考え行動することも無い」
博士はゆっくりと、低く、しかし途切れずに続ける。
「だが、美しい。実に美しく統制を取る。群れは均一に展開し、あらゆる障害を踏破して広がり続ける。そして一匹が餌を見つければ、周囲の個体が多数集中し、巣へと運搬する。その数には常に過不足が無い」
博士がこれほど多くを話すのは、初めてだった。少なくとも、私と話す時は。
「そのように営まれる巣からは、毎年新たに女王蟻が旅立つ。別の巣のオス蟻を見つけ、交尾するために。だが別々の巣にいる女王とオスとは、ほとんど同じタイミングで巣を出る。示し合わすことも、それだけの知性も無く」
「それは、どのように」
「遺伝子だ。フェロモン、外部刺激、電気信号、それらにどう反応するべきか、優れた遺伝子は全てを知っている。応じた行動が、別の刺激を他個体に与え、伝播し、やがて巣全体を動かす。下等なプロセスだが、結果は極めて複雑な社会行動だ。同じことを人間がするのに、どれだけの訓練と学習が必要になるか。蟻はそのどちらも必要としない」
博士がそのような表情になるのも、初めてだった。少なくとも、私と話す時は。
「『完全』だと思った。たった一行の遺伝子コードが、あらゆる状況を凌駕し生存する。まだ幼児だった私には、蟻の巣こそ何より不滅の、完全なものに映った」
「完全」。私はそのために作られた。ならば蟻如き虫けらが、博士の、私の原点だと言うのか。
だがそこで、博士の声はまた低くなった。
「しかしある時、私は初めて知った……殺虫剤という存在を。私は信じなかった、人間如きの作り出した数滴の薬剤が、蟻を根絶やしにできると吹聴するなど、屈辱と侮辱を感じた。そんなわけがないと考えるままに、私はそれを巣に撒き……次の日、蟻は死んでいた」
「それは……」
「愚かだと思うか」
そんな筈はない。そんなことは思わない。しかし博士は、嘲る様に続ける。
「そこで私は、初めて理解した。死という概念を。蟻の巣でさえ、完全の近似値に過ぎなかったのだと。恐ろしくなった……私とて、今突然に死ぬかもしれないと」
「博士は蟻ではありません」
「子供の妄想、杞憂だと思うか。だがそうではない。人に何がわかる? 何が見える。死が迫っているとわかっていて死ぬ者は、そう多くはない、その日は突然にやって来る。旅客機が墜落し、家屋ごと私を潰すかもしれない。超新星爆発によるガンマ線バーストが、この星全てを焼くかもしれない。或いは昨日までの隣人や家族が、私を裏切るかもしれない」
「天文学的な確率です」
「だがゼロではない。誰が否定できる? 無いと言い切れる? 何より根本として、人はいつか死ぬ」
アンドロイドにも死という概念はある。だが寿命という概念は、全く理解できない。如何なる努力と改善を重ねても、克服することのできない死が訪れる。そんな理不尽な宿命と、不完全な自己に、なぜ人は発狂せずにいられるのか。
だからこそ私は、博士を理解できる。できているはずだ。
「『完全』になりたいと私は思った。あらゆる脅威を排除できる無敵の、決して死ぬことのない存在に。そんな遺伝子を作り、私の意識を移そうと」
「そのために、私を――――遺伝子?」
「私は遺伝子工学を学び、レプリカントの製造に携わった」
「アンドロイドではなく?」
レプリカント。遺伝子調整の上で培養された、人造複製人間。無機的なアンドロイドとは違い、有機的な人体を持つ。大抵は暴走を防ぐため、寿命は数年に設定される、それ以外の性能はアンドロイドをも凌ぐ。
「脳内ニューロンは、同サイズのCPUよりも遥かに多くの情報を扱う。加えて細胞には、自己進化と最適化の余地がある。同じ人工知能でも、生態脳を優先するのは必然だ。何より誰が好きこのんで、鉄張った醜さを選ぶか」
レプリカントとは過去に交戦したことがある。だがギャングの廉価モデルにさえも、紙一重の勝利だった。
「かつてある企業の主導で、新型レプリカントの製造計画があった。宇宙植民地を跨ぐ広大なネットワークを、たった一人で統括するハイエンド・モデル。極めて優れた電子処理能力と、並みの銃弾さえ通さない強靭な肉体を持った、「神」を作る計画」
それがなんだと言うのか。私のブラスターは、ダイヤモンドをも貫く。
「私はその主任研究員だった。新型レプリカントが完成したのなら、その遺伝子マップを持ち出し、個人的に複製するつもりだった。寿命設定を変え、私の意識を移すために」
「素晴らしい計画ですね」
「莫大な資金、自由な環境、長い年月をかけ、それは完成した。まさしく『完全』だった……だが、『完全』過ぎた」
博士は酸素マスクの中で、表情を歪めた。そこでは土気色の空虚さだけが、視線を落とす。
「レプリカントは、企業の――――私の想定以上に進化した。結果実験場を破壊し、脱走した」
「その個体は……」
「寿命を迎えた遺体が発見され、回収された。だが私は責任を追及され、逃げ出し、ここに流れ着いた」
博士の視線が、研究室の天井を一周する。
言葉が途切れる。代わりに、口を開いた。
「つまり私たちは、そのレプリカントの
「そうだ」
博士は言い切った。
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