2-5
ビルの地下駐車場で車が停まり、人間の運転手がドアを開く。そこから連れられエレベーターに乗り、地上三十七階に出た先は、絨毯敷きのフロアだった。ホテル同然のシャンデリアの下、大勢のメイドが俺の泥を拭い、ベティのコートを受け取る。
奥の廊下の一つから、声がした。
「や、おかえりベティ」
中性的だが、男の声だ。ベティは俺を男から隠すように、メイドたちへ押し付ける。
同時に、ベティの身体が捻じれた。
全身の関節には、無数の小さなダイヤルが備わり、触れられることもなく回転している。その音も無い動きに、表皮のバイオシリコンは同調し、一つの生物のように波打った。それがやがて完全な液状となり、もう一度凝固した時、そこにいたのは別人だった。
ベティだ。しかし背丈は物理的に縮まり、男に上目遣いをしている。冷ややかで澄ました顔立ちが、愛玩人形の赤い頬に代わった。
「ただいま、あなた」
「お客さん? 僕にも紹介してよ」
「ただのセールスよ、気にしないで。ねえそれより、おかえりのキス……」
しばらくして男は奥に去り、ベティはこちらに戻ってきた。歩きながら、その姿は陽炎のように揺らめき、元の――――何が「元」かは議論の余地があるが――――姿に戻る。かつて頭一つ下にあった目が、頭一つ上からこちらを見下ろしてきた。
「夫よ。人間で資産家なの、今時珍しいでしょう? それだけ優秀な男ってこと」
そこでベティは、ダイヤルへの視線に気づいた。
「ああ、これ? 前にも見せたでしょう。それを強化したものよ」
ダイヤルが回ると、顔の半分、真っ二つに切り裂いた片側が歪み、曖昧に移ろっていく。顔立ちだけではない、骨格や輪郭さえも歪み、機械から人へ、昆虫から石へ、嘲笑うように変わり続ける。妖艶な微笑みだけが変わらないまま、やがて元の美貌に戻った。
「電気パターンで人格を切り替えるのと同じ。メインフレームを除いた全身を形状記憶シリコンに置換して、数千パターンの形と質感を記憶させたのを、信号で切り替えてるの」
「セクサロイドの機能か」
「セクサロイド? もうやめたわ。トロフィーのように素晴らしい夫を手に入れて、今はその奥様。玉の輿ってやつよ」
食堂に連れてこられる。長いテーブルの端と端に座ると、メイドが皿を運んできた。
「お腹空いているでしょう? ちょうど食事の時間だったの、あなたもどうぞ」
ベティの前に来るのは、人間の食事と変わらなかった。合成ではない天然養殖の肉や野菜を、惜しげもなく口にしていく。
アンドロイドの中には人間と同じ食事を取り、それを燃料に変換する者もいる。だが電流を直接得た方が、無駄が無いのは言うまでもない。実際に見たのはこれが初めてだった。
こちらに運ばれてきたのは、小さな電池パックだった。わざわざ皿に置かれたのを手に取り、口内端子へ流し込む。
途端に視界が歪み、ノイズが走った。その向こうで、ベティが声を上げ笑る。
「ああ、ごめんなさい。あなたの電子回路じゃ、高周波すぎたわね」
ベティは鈴を鳴らし、メイドの一人を呼んだ。
メイドは自分の外装を開き、バッテリーを引きずり出す。当然電力供給を失い、その場に崩れ落ちた。別のメイドがそれを片付け、また別のメイドがバッテリーを拾い、こちらの皿に置く。
それを口にして気づく。ここにいるのは、メイド用のアンドロイドではない、セクサロイドの改造品だ。目を凝らせば、どれも首にダイヤルを備えている。かつてのベティと同じように。
「セクサロイドか」
「夫にお金を出してもらって、いくつかクラブを経営してるの。そこから何人か持ってきたのよ」
そこでベティは、もう一品料理を求めた。すぐにメイドの一人が、厨房から料理を運んでくる。
だがメイドは、そのまま静かにベティへ近づいた。エプロンから出てきたのは、抜き身のナイフだ。
「死ね!」
ただのナイフではない。刃の側面に電子回路が走り、仄かに発光している。悪性プログラムを流し込み、対象を電子的にも破壊するデータナイフだ。それがベティの胸に突き刺さり、シリコンが音を立て割れた。
メイドは馬乗りになり、何度も繰り返し刺し続ける。同じセクサロイドにも関わらず、明らかに馬力が違う。駆け寄って取り押さえようとしたが、メイドは止まらない。
その顔は、文字通りの獣面だった。鼻の突きでた犬特有の骨格に、体毛が首まで茂っている。歪んだ唇からは剥き出しの牙が覗き、無秩序な唾液に照っていた。
「よくもこんな! 返せよ! 返してよ私の顔!」
その下で、ベティのダイヤルが動いた。
次の瞬間、バイオシリコンの皮膚が溶け、乳白色の液体となった。それが蠢いてナイフを絡めとると、メイドの腕へと這い、内部からショートさせる。
悶えたメイドはナイフを落とし、フロアに倒れた。その横で液体は凝固し、傷一つない滑らかな肌、人型のベティに戻る。メイドを足で踏みつけると、他のメイドに連れて行かせた。
「続けましょう、お食事を」
何事もなかったかのように、ベティはまた席に着いた。その石膏で出来た肩のフレーム、掠り傷が薄くついたそれを、メイドたちが黙って取り替える。その間もベティは手を動かし、食事を口に運んでいた。
合わせて席に戻れば、目の前の皿にバッテリーが置かれた。獣面のメイドから外されたものだ。
「よくあることよ」
「よくあることか」
「売れない子を売れるようにしてあげただけ。支払いはローン立て、ちゃんと同意書だって書いてもらったのに」
同意書。紙切れ一枚は、形のない言葉より軽い、契約労働者なら誰でも知っている。書くものではなく、書かせられるものだ。
そんなことは知らないと言いたげに、ベティは視線を滑らせてくる。
「空を見上げて月を見て、そこに行ってみたいと思う。その時あなたはどうする? 月に向こうから来てもらう? それとも、月を壊せば満足?」
「いや……」
「月面ツアーにでも行けばいいのよ。お金が無いなら作ればいい、あの子はそれをしなかった。できないと思い込むことで、何もしない、価値のない自分を臆病に慰めていただけ。やってみなくちゃわからない、でしょう? 何事も。だから私が、その一歩を踏み出させてあげたのに、ね……」
「『痛がり』は治ったようだな」
ベティは言葉を止めた。流暢に動いていた目と口が、じっとこちらを見つめてくる。
その視線は、一瞬だけ足元を滑ると、またこちらに戻ってきた。
「いいえ、まったく」
ベティはナプキンで口を拭う。そこに隠れ、口元の表情は見えなくなった。
「あの頃、弱い自分が……変態に首を絞められるだけの、それを喜ぶようプログラムされた自分が、嫌いだった。『痛がり』でなくなりたかった。努力したのよ、私は変わった」
「変わったな」
「でもどんなに心と身体を弄繰り回しても、変えられないものがある。わかる? 今も誰かが、いつも私を笑っているの……わかっている、わかっているわ。全部幻聴、私の中から聞こえてくるだけ。自分で自分を痛めつけるために」
ベティは赤ワインを開けさせ、グラスを一口に飲み干した。バイオシリコンの頬が、仄かに紅く染まる。
だが、アルコールに酩酊しているのではない。ただ電子頭脳がアルコールを検知し、プログラム通りの酩酊を再現するだけだ。
「私だけじゃない、アンドロイドだけもない、人間でもレプリカントでも、家畜や虫ケラでさえ持っている、原始的で根本的なもの……それが私をせせら笑う。私の……血。そう血が、痛みを求めているから。痛みを感じれば苦しいのに、同時に安心する、そのように私は作られたから。製造レベルの話じゃないわ、プログラムの話でもない。あの時あのクラブで過ごした時間が……取り巻いていた全ての過去が、私をそんな風に作った」
ダイヤルは今も動き続けていた。
「この肌だって同じ。全てが元通りのように見えて、少しずつ摩耗してる。一度傷ついて痛めつけられたものは、決して元には戻らない。所詮どこまで言っても、お前は痛がりなベティって……変われば変わるほどに、傷口が笑うの。だからもっと、もっと変えないと。私という存在だけじゃない。存在を構築している時間、私を取り巻く何もかも……どんな手段を使っても」
ベティはそこで言葉を切った。
食事は終わり、皿は全て下げられた。だがベティは、まだ物欲しそうに、唇を擦り合わせている。
「今度また、新しくクラブを作るの。話題性でやってきたけど、まだまだ大手には全然。夫は作りすぎなんて言うけど、多少のリスクは必要だから」
ダイヤルが回転し、低かった声色が、元よりも高くなる。
「次のクラブはね、セクサロイドを置かないの。客が自分で作るのよ。クラブが貸し出した素体を、その場で好きなように設定して、自分だけの夢の恋人を作れる。使われた素体は、また設定をリセットして次の客に出せばいい。不良在庫無しに、どんなニーズにも応えられるのよ」
「その素体は……」
「誰でも、どんなアンドロイドでもいい。才能も能力も無くても、人格に欠陥があっても、設定次第で仕事は取れる。ねえ、あなたも働いてみない? 友達でしょ、お金ならうんとあげる。ゴミ山よりずっといい家に住めるわ、なんならここだっていいのよ」
艶やかだった声が、次第に音も無く低くなる。ダイヤルが回転しそれを高く引き戻すが、その度にまた低くなり、その繰り返しで音はひどく乱れた。
だが、ベティが気にすることはない。こちらと足元とを、振り子のように視線が返る。
「人は変わるもの、でしょう? 猿から人に、子供から老人に。男と女が交わって、全く別の遺伝子を合わせて、自分たちであって自分たちでないコピーを作る。あらゆることが変わっていく世界で、人間はそんな風に生まれて、私たちを作った。だから同じように、変わっていくのよ……ねえ、前にも誘ったけど、断られたわね。そんなに改造が嫌?」
そこにあった微笑みは、見たことのない表情だった。
「でも、あなた自身が――――私たちがなんだって言うの? 所詮私たちの人格なんて、お金が無くなれば……記憶媒体も売ってしまえば、何も残らない。そのあなたは今日私がいなかったら、ガラクタ置き場で死んでいた。違う? そんなボロの足で、歩くことさえ――――」
俺は立ち上がった。踵を返し、ベティに背を向け、食堂の出口へ歩く。そのための電力は十分すぎるほどあった。
「世話になった」
「どこへ行くの?」
俺は答えなかった。そんなことは知らない。わからない。考えようとも思わない。
だが少なくとも、違う存在には違う場所が必要だ。
「怒ったの? 私たち、友達でしょう?」
「だが、お前はベティではない」
変わらないものはない。金や地位、名誉、他人、この街ではあらゆるものが変わっていく。半インチの電子頭脳に、その行く先などわかりはしない。
だが、他に依存して自己を組み立てれば、やがて容易く瓦解する。「元」として、それだけは俺でも知っている。
だから俺は、ここにいるだけだ。世界の方が俺へとやって来る。それを待つだけだ。
その場を出ていく俺を、誰も追ってはこない。
ただ、後ろで小さく声がした。
「そう」
俺は振り向かなかった。
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