2-3
カニ漁船に乗ったことがある。数人が乗る限りの小舟は、ヨコハマ湾の荒波に揺られ、常に転覆寸前だった。寧ろ転覆で済めばマシな方だ、水面にせり出す水没ビル群が、波濤を砕いては飲み込み、漁船を待ち受けていた。
その日の歓楽街も、似たようなものだった。スクランブル交差点が青を示せば、雨の波の上を、人の波が寄せては返す。それらはナイトクラブや宿泊施設へと飲み込まれ、或いは吐き出されては、据えた臭いのする熱気を交わらせた。ヨコハマ湾と違うのは、一面のネオン広告の光、その乱反射だけだ。人間と人間、セクサロイドとセクサロイドとが、互いを値踏みし、買い買われていく。
その道端、ごく狭い窪みに俺は立っていた。セクサロイドとしてではない、「元」として、「終末は近い」と書かれた看板を持ち、ただ立ち続ける。非合法カルトのキャッチコピーだ、ネットワークでは足がつくために、使い捨ての契約労働者を使う。そのゲリラ宣伝に雇われた一人が、俺だった。何故終末が近いのか、何故それがわかるのか、そんなことは知らない。終末が近いとしても、それまで数日を生きるため、ここに立っているしかない。
だが、割のいい仕事だった。防水コートは支給され、広大な交差点と鮨詰めのビル群が風を遮る。そしてギャングの縄張りだ、治安は良く、立ったまま
そんな時だった。雑踏の中、偶然に目が合う。
どこか見覚えがあったが、すぐに違うとわかった。
そのセクサロイドは、小綺麗なビジネスマンへ身を摺り寄せていた。媚びている、誰がどう見てもそうわかるが、惹かれずにはいられない。理性を性で押し潰す仕草、そんな器用な表情は、高度なプログラムにしかできない。そんな高級機な知り合いはいない。
だが意志と関係のない場所で、記憶素子が判定した。何もかもが違うが――――常に何かを乞うような目線、ベティだ。
便宜上ベティと呼ぶしかないセクサロイドが、こちらの視線に気づいた。客を送り出すと、人の流れを押し切り駆け寄って来る。
「久しぶり! どうしたのこんなところで、私びっくりちゃった」
大きく、聞いたこともないほど溌剌とした声だった。早口だが流暢で聞き取りやすい、どこのクラブでも花になる。
すると突然我に返ったように、ベティは首へ手をやった。そこには小さなダイヤルが数種類並んでいる。その一つを細く回すと、ベティはもう一度声を出した。
「ごめんね。えっと、その、あたし……どう?」
一節一音に詰まりながら、どもった言葉を続ける。そのアクセントの一つまで、記憶通りのベティだった。
だが、見た目はやはり違う。
基礎的な顔立ちこそ同じだが、最早別人のように改造されている。メガダース単位で売られていたのが、今はオーダーメイド同然だった。
「変わったな」
「そ、そうかな……そうかも……」
それでもダイヤルを回してから、喋り方と視線だけは戻った。小奇麗な顔が寄る辺なく視線を泳がすのは、ひどくアンバランスな光景だ。
しかしベティは、嬉し気にはにかんでいる。
「一杯頑張ったんだ。お金ができても我慢して、全部カスタムに回したの。それでもっとお客さんが取れたら、もっとお金も増えるなって」
「らしいな」
「う、うん。今お店で一番なんだよ、あたし」
ベティは大きく胸を張った。
するとふと、俺の足を見てくる。板バネ式は片方が折れ、通常の足に替えていた。折れていない方は、替える金も無いのでそのまま残してある。ベティは眉根を下げた。
「そっちは大丈夫? やめちゃってから、ずっと心配してて……」
「この通りだ」
看板を見せると、ベティの視線が泳ぐ。何かを言いたげに口を動かし、何も言えず動きを止める。
ベティはその間、手を首元にやって、あのダイヤルに指を這わせる。その様子を見ていると、こちらへ顔を上げた。
「あ……やっぱり、気になる?」
「いや……」
ベティはダイヤルを指先で掻いていた。だがそのうち、ほんの少しばかり捻ると、同時に喋り出す。
「これね、すごいんだ。何でも変わるの」
ベティは後ろを向き、首元を見せてくる。「
「気分」がもう一つ動く。ベティの声色が高くなった。
「お客さんに合わせて、あたしを調整するの。大人っぽくしたり、明るくしたり、おしゃべりしにしたり。お客さんに一番好きになってもらえるように」
複数のダイヤルが動くと、ベティの表情は、客といた時に戻った。欲情を欲しがって弄ぶ、女の目つき。高くか細い声かった声が、低く艶やかになる。
「こういうこと、これも私。それで……こっちも、コレも、これもあたしで、私」
何度も、何もかもが書き換わっていく。同じ顔が男のように、子供のように、或いは何も感じないように。
それでも一番気に入っているのは、女の目つきらしかった。
「どんな客だって思いのまま。間違えても怒られてもヘーキよ。これさえあれば、もう痛くないの……」
ダイヤルを振り切りながら、ベティが身を寄せてきた。二枚の防水コート越しに、シリコンとシリコンとが擦れ合う。
「ねえ、あなたもどう? 私より背も高くて綺麗なんだから、これさえあれば……また一緒に働かない?」
強くなりたい、ベティはそう言っていた。 このダイヤルが強さなのか。その定義は飽くまで、払われる金と時間なのか。
今更セクサロイドに戻るつもりもない。
だが、ベティを否定したくもない。
「俺はいい」
ベティは黙っていた。俯いて地面に視線を泳がすのは、ベティの表情だった。
またダイヤルが回る。気づけば目の前には、知らない顔が戻っている。
「そっか、ごめんね」
「いや……」
「それじゃ私、クラブに戻らないとだから」
言いかけた言葉を、ベティが遮る。身体と身体とが離れ、雑踏がその間に入り込む。
「元気でね」
それが俺の見た、最後のベティだった。
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