2-2

 まだオーナーがいて、俺が「元」ではない、セクサロイドだった頃。その日も同じだった。


 表通りから遠く路地裏に、クラブの裏口はあった。ひび割れた電球が吊るされ、辺りの闇を余計に強める。そのせり出した屋根の下、俺はしゃがんでいた。

 そこはあまりにも狭かった。風が唸る度、重酸性雨が横から吹き付けては、全身に浴びせられる。防水コートなしに歩くのと変わらない、シリコンの肌は爛れ、関節駆動系は火花を散らす。少しずつ緩慢に、生きながら身体が溶けていく。


 だが、他のどこにも行けはしない。機嫌を損ねたオーナーは、俺を叩き出した上で、裏口の鍵を閉めている。さらに両足は、八つ当たりの懲罰に叩き壊された。膝からはみ出た銅線が、雨に触れる度小さく弾けては煤ける。

 目の前に広がるのは、暗闇だけだ。そこには踏み出せない。

 足の有無ではない、ベッド上でしか生きられないセクサロイドには、あまりにも世界は広すぎる。この豆電球の下から出た時、そこに何があるのか。バグまみれの電子回路で計算しようとは、その時はまだ思えなかった。


 だが一方でいずれこの雨は、シリコンの肌からフレームの骨を溶かし、電子回路を焼き尽くすだろう。ならば、いつ死ぬのか。回路上へ直接重酸性雨が降り注ぎ、記憶素子やニューロンプロセッサを溶かした時か。その何割が失われた時、意識は消えるのか。半分か、八割か、或いは素子の一片まで残る限り、意識と苦痛が続くのか。どこまで俺は俺なのか。それが死なのか。

 或いは、既に死んでいるのか。何も感じず、何もせず、静けさにただ一人佇むだけのセクサロイド。それは死体と、既に死んでいるのと変わらない。


 そもそも初めから、生きていたのか。オーナーの酔いの回り、そんなごく薄っぺらい量子的偶然で、死へ落ちていく。それが生と呼べたのか。

 考えたところで、答えを出すだけの思考回路も、変えるだけの駆動力学も無い。ならば、この豆電球の下にいることだけが、唯一の正しさなのか。


 俺は目を閉じようとした。


 その時だった。後ろで鍵が開き、扉の動く音がする。そして膝を抱えた頭へ、防水コートが被せられた。


 振り向いたそこにいたのは、オーナーではない。同じクラブのセクサロイドだ。

 背は子供ほどしかない。頬の劣化したシリコンがそばかすのように泡を吹き、幼い印象を強める。加えて、低品質レンズの上にかけた丸い眼鏡が、それに拍車をかけた。小児性愛者ロリコン向けだったか、性欲と肉感が標準のセクサロイドからは、かけ離れた姿だ。伏した目線が泳ぎ、余計に身を小さく見せる。

 そのセクサロイドは、何度も声を詰まらせながら、ようやく口を開いた。


「あたし、その……隣の、部屋の……」


 話をしたことはなかったが、名前順の部屋割りで、偶然に覚えていた。


「ベティ」

「そうあたし、ベティ。ええっと……その……」


 ベティは後ろから、二本の足を持ってきた。

 板バネ式だ、湾曲した一枚板の弾力で立つ。骨が剥き出し同然の単純な機構は脆いが、その分安上がりだ。汚れ方を見るに、ガラクタを拾ってきたらしい。

 セクサロイドは街娼の代替品だ、肉感の無いパーツは不適格だが、壊れているよりマシだった。


 その脚部パーツを、ベティは俺の下へ屈み取り付けようとする。雨に打たれるのも構わない。


「これ……ええっと……あれ?」


 取付に手間取り、ベティの膝は泥を被る。


 アンドロイドは安物であるほど、機構も単純で修理も容易い。四肢や末端のパーツはモジュール化され、誰でも互換パーツと取り換えられる。だがベティの手先は、ひどく不器用だ。何度もねじ止めに引っ掛かり、噛み合わず、手が油と泥に塗れる。


 それでもようやく通電すると、俺は違和感なく立てた。


「どう?」


 頷くと、ベティは表情を緩めた。


「よかった」


 俺はそのまま、その場に立っていた。今クラブに戻れば、まだオーナーが起きているかもしれない。しばらく酔い覚めを待つつもりだった。

 隣のベティは、視線を地面に泳がせている。防水コートに入れてやると、すぐに身を寄せてきた。

 だが、わからなかった。オーナーに見られたなら、ベティもただでは済まない。


「何故助けた」


 問いかけた途端、ベティは縮こまった。アルゴリズムで動く眼球レンズを、上下左右へ不規則に振動させる。


「えっと、その……友達に……なりたくて」

「何故だ」

「それは……その、隣だし」

「理由にならない」


 ベティの眼鏡が傾き、すぐに直された。呼吸しないセクサロイドが、人間のように肩を上下させ、唇のシリコンを擦り合わせる。

 しばらくそうしているのを、黙って見ていた。するとベティは、次第に静かになり、何度もこちらの目と、口と、それと地面とを、上下に繰り返し見る。その振り子の動きは、やがて目と目に収束した。

 ベティは小さく呟く。


「よ……弱いから。いや違くて、その、」

「事実だ」

「そうじゃなくて……違う、そうだけど……それは……あたし」


 待っていると、ベティは静かに続けた。


「あたしは、『痛がり』だから」


 何をどう感じるか。人間にすら個体差があるように、アンドロイドにも差異がある。それは設計段階で設定され、痛みを感じない兵士もいれば、より痛がる調整もありうる。


「痛がるのが仕事なの。いじめてもらうの、お客さんに。プログラムで、十回歩いたら三回は転ぶようになってる。ドジでチビで目が悪くて、全部気持ちよくいじめてもらうため。ああ、自分じゃなくてよかった、って」


 人間が人間に抱える鬱憤を、人間のように痛がる存在へぶつける。聞かない話ではない。

 だが、需要は多くは無い。それほど客が取れるとも聞かない。


「みんなあたしのこと笑うんだ。クラブのみんなも……」

「セクサロイドがセクサロイドを笑うのか」

「あたしの思い込み……ってことも、あるかもだけど。心まで痛がりだから。ちょっとのことでも、ずっと引きずっちゃうんだ。だからみんなもっと笑うの。笑ってる気がする」


 ベティの声が低くなる。だが突然我に返り、高く声を上げた。


「ごめんね、いきなりこんなこと言って、ごめん……」

「別に」


 そういうと、ベティはまた静かになった。


「やっぱり……笑わないんだね」

「俺か」

「あなたなら、笑わないと思ったの。あたしのこと。だから……」

「お前より弱いからか」

「ち、違うよ! そうじゃなくて……」


 ベティはまた、傾いた眼鏡を直す。だがそのレンズは、まっすぐにこちらを見ていた。


「痛がりじゃないから。どんなひどいことされても、じっとしていて、綺麗で……」


 それはただのバグだ。表現制御と論理識別の異常で、何も顔に出ないだけだ。愛嬌を振りまくことも、作り物の喘ぎ声をあげることもできず、まともな客はつかない。だからオーナーにも嫌われる。


「あたしとは違うから。誰も笑わない、笑わせない、弱いけど強い。あたしもいつか、そんな風になりたい……」


 だがそのバグが、弱さが、ここでベティに出会わせた。俺の意志とは関係なく、俺を偶然にも生き延びさせた。それを幸運と呼ぶのか、運命と呼ぶのか、俺にはわからない。それでも死と同じように、生もまた理不尽にやって来た。


 ならば、考えたところで無意味だ。やって来る何もかもを受け入れ、生きられるだけ生きればいい。

 そう今わかった。教えられた。


 ベティは喋り終えると、また黙り込んだ。防水コートの中で身をよじり、耐えかねたように離れる。


「そろそろ、オーナーも寝たよ。中に入ろう?」

「ベティ」


 俺はそれを呼び止めた。


「ありがとう」


 シリコンの頬を丸く緩めて、ベティは笑った。その拍子に、また眼鏡が傾く。




 その数か月後、俺はクビにされ、「元」になった。

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