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だから今日この日にも歩く。
ニューヨコハマの年間最低気温と最大降雨量が、一度に更新された。暴力的な飛沫が白く霞み、目の前の足元さえ覆う。クリスマス寸前の冷気は、触れる者全てに結露して纏わり、レンズにむせた。風は一見ネオン街に遮られているが、ビル群の隙間から吹き降りては、局地的風圧を叩きつけた。重酸性雨はアスファルト上に波と化し、闇に鈍く照っている。
まともな人間なら出歩く筈もない。車道にさえ往来は少なく、歩道は凄惨を極めた。浮浪者が爛れた顔で俯いているか、
そんな中でも歩く。重酸性雨は大抵のレアメタルを溶かす、アンドロイドにも有害だ。ましてやセクサロイドの防水性は高くとも、人工シリコンの柔肌は脆い。設計想定の上では、所詮ベッド上でしか生きることができない。
それでも歩くしかない。セクサロイドではない、「元」だからだ。自分の身体を抱き、透明な防水コートにしがみつく。
それだけの価値が今日の仕事にはある。内容は知らない、知らされておらず、知ろうとも思わない。「軽作業」の三文字に応募し、抽選に通っただけだが、なんにせよ前金で明日を過ごせる、後金で三日は持つ。
指定された
暗い。窓が無かった、安物のワンルームにはよくあることだ。強盗の出入り口を増やすくらいならば、付けない方が安く済む。照明もついていない完全な闇に、暗視モードで入った。
空虚だった。照明は文字通りについていない、全て外されている。足元に目を移せば、分厚く横たわった埃一面。廃墟染みて、どう見ても居住空間ではない。人影はおろか家財さえ無く、そこにはテーブルだけがあった。
だがその上に、何かが置かれている。円柱形のインテリア、或いは美術品か。片手に収まる程度の大きさだ。
それに近づこうとした、その時だった。
「……ア」
電子音が擦れた。
その聴き汚さは、声そのものにあった。人の声であっても、人の発音形態ではない、窒息寸前に泡を弾く、或いは水中に金切りを上げる、くぐもった吃音。それは間隔を開け、二三続いた。
発声を練習している、もしくは思い出そうとしている。音声はダイヤルを捻じる調律のように、変化を繰り返した。高音と低音、徐々にその振れ幅が、少しずつ小さくなっていく。それはしばらくして収束し、やがて意味のある文章を紡いだ。
「ア、あっ、ハイ、はい。すみ、すみま、すみません」
成人男性、声質は細く比較的高音、壮齢には満たないか。後ろに歩けない柔足の如く、病的に華奢で鈍い声、それは途切れては憂鬱に次の言葉を探し、低く喘ぎを漏らしてはようやくに言葉を吐く。
「今、点けます。明かり」
テーブル上に青白く明かりが灯った。
円柱状の置物は、水を満たしたシリンダーランプだ。その下部に光源がつき、曖昧な光を広げている。ただそれだけの照明、部屋の暗闇は寧ろ深まる。
だがその中で、シリンダーだけは、存在を主張した。より正確には、そこに浮かぶ「眼球」が。
だが、錯覚は錯覚だ。各種センサーは明確に示している。眼球には血が通い――――便宜上の表現を用いれば――――生きている。
「わかりますか。聞こえますか。僕はここにいます」
この眼球は如何にしてか生きている。電気信号を利用して、この部屋のシステムに接続している。ランプを灯し、スピーカー越しに会話することもできる。
そしてネットワークにアクセスし、契約労働者を雇った。
「僕にも見えてます。これが僕なんです。僕は……」
眼球は言葉を止めた。スピーカーから、弛緩した溜息が漏れる。
「セクサロイド……ですか?」
人間の態度は、他人の肩書に依存して大きく変わる。
セクサロイドで損をしたことは無い。向けられるのは安堵、嘲笑、或いは肉欲、もしくは品定め。大抵は害のあるものでもない。
とはいえ、ここで「仕事」をするつもりも無い。
「『元』だ」
「そう、ですか……」
眼球は呟きを繰り返し、言葉を始めた。流暢さが増していく。
「すみません。気を悪くしないくれませんか。ただ、ほんの少し驚いたというか……ホッとしたというか」
人間は怖いから。眼球はそう言いかけた。
問いはしない、食い扶持にも関係はない。だが黙っていると、寧ろ眼球は続けた。
「何分十年もここにいて……スピーカーが動くか心配なくらいで。失礼があったらすみません。でも本当に、来てくれてよかった」
眼球は喋り続けた。たどたどしく言葉を噛み締める、草食動物の咀嚼、それでも続き、止まりはしない。本当に来てくれるか心配していたこと。誰でも良いと書いたのを後悔していたこと。凛々しいセクサロイドで嬉しいということ。機械は優しいので好きだということ。
無駄な会話だ。バッテリーは待機電力を消耗する、立っているだけでも死は近づく。
だがそれは言わない、その権利が無い。仕事を乞い金を貰う、眼球はそれら全てを与える。これは契約だ、服従に合理的な必要性がある。
だから待つ。ペニスを捻じ込まれる時と同じように、ただ待っていればいい。
やがて眼球は言葉を止めた。息遣いに我に返り、何かを言い訳しようとする。その言葉にならない呻きは、また長く続く。
それでも最後には諦め、眼球は言葉を口にした。この日最も柔らかく――――少なくとも、柔らかく努めた声だった。
「つまらなくてすみません。長くてすみません。自分勝手ですみません。でもどうしても、話しておきたくて」
皮切りに、また眼球は語り出した。
「少しでいいんです。聞いてくれませんか、僕を……」
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