1-2

 だから今日この日にも歩く。


 ニューヨコハマの年間最低気温と最大降雨量が、一度に更新された。暴力的な飛沫が白く霞み、目の前の足元さえ覆う。クリスマス寸前の冷気は、触れる者全てに結露して纏わり、レンズにむせた。風は一見ネオン街に遮られているが、ビル群の隙間から吹き降りては、局地的風圧を叩きつけた。重酸性雨はアスファルト上に波と化し、闇に鈍く照っている。

 まともな人間なら出歩く筈もない。車道にさえ往来は少なく、歩道は凄惨を極めた。浮浪者が爛れた顔で俯いているか、幻覚中毒者ジャンキーわらっているか。クリスマス・ネオンの装飾過多は、空しく熱を浪費する。


 そんな中でも歩く。重酸性雨は大抵のレアメタルを溶かす、アンドロイドにも有害だ。ましてやセクサロイドの防水性は高くとも、人工シリコンの柔肌は脆い。設計想定の上では、所詮ベッド上でしか生きることができない。

 それでも歩くしかない。セクサロイドではない、「元」だからだ。自分の身体を抱き、透明な防水コートにしがみつく。


 それだけの価値が今日の仕事にはある。内容は知らない、知らされておらず、知ろうとも思わない。「軽作業」の三文字に応募し、抽選に通っただけだが、なんにせよ前金で明日を過ごせる、後金で三日は持つ。


 指定された集団住宅コーポのエントランスを潜り、廊下に雨を被る。狭く低い階段、家畜の死骸を集めたコンクリート・ダンジョン。その一室のインターフォンを押せば、電子錠が無言で開いた。

 暗い。窓が無かった、安物のワンルームにはよくあることだ。強盗の出入り口を増やすくらいならば、付けない方が安く済む。照明もついていない完全な闇に、暗視モードで入った。


 空虚だった。照明は文字通りについていない、全て外されている。足元に目を移せば、分厚く横たわった埃一面。廃墟染みて、どう見ても居住空間ではない。人影はおろか家財さえ無く、そこにはテーブルだけがあった。

 だがその上に、何かが置かれている。円柱形のインテリア、或いは美術品か。片手に収まる程度の大きさだ。


 それに近づこうとした、その時だった。


「……ア」


 電子音が擦れた。不能品ジャンクスピーカーを通した粗雑なノイズ、だが詰まるような発音記号が、辛うじて人の声と認識させる。

 その聴き汚さは、声そのものにあった。人の声であっても、人の発音形態ではない、窒息寸前に泡を弾く、或いは水中に金切りを上げる、くぐもった吃音。それは間隔を開け、二三続いた。


 発声を練習している、もしくは思い出そうとしている。音声はダイヤルを捻じる調律のように、変化を繰り返した。高音と低音、徐々にその振れ幅が、少しずつ小さくなっていく。それはしばらくして収束し、やがて意味のある文章を紡いだ。


「ア、あっ、ハイ、はい。すみ、すみま、すみません」


 成人男性、声質は細く比較的高音、壮齢には満たないか。後ろに歩けない柔足の如く、病的に華奢で鈍い声、それは途切れては憂鬱に次の言葉を探し、低く喘ぎを漏らしてはようやくに言葉を吐く。


「今、点けます。明かり」


 テーブル上に青白く明かりが灯った。

 円柱状の置物は、水を満たしたシリンダーランプだ。その下部に光源がつき、曖昧な光を広げている。ただそれだけの照明、部屋の暗闇は寧ろ深まる。


 だがその中で、シリンダーだけは、存在を主張した。より正確には、そこに浮かぶ「眼球」が。


 贋作フェイクかと錯覚する。頭蓋から離れた眼球ば、矮小に玩具同然だった。黒色の瞳と乳白色の硝子体、ありふれた顔面記号だが、あるべき場所に無い、それだけで同じものには見えない。筋肉と電気信号プロトコルから滑り落ちたことが、眼球を作り物の無機物に見せる。


 だが、錯覚は錯覚だ。各種センサーは明確に示している。眼球には血が通い――――便宜上の表現を用いれば――――生きている。


「わかりますか。聞こえますか。僕はここにいます」


 この眼球は如何にしてか生きている。電気信号を利用して、この部屋のシステムに接続している。ランプを灯し、スピーカー越しに会話することもできる。

 そしてネットワークにアクセスし、契約労働者を雇った。


「僕にも見えてます。これが僕なんです。僕は……」


 眼球は言葉を止めた。スピーカーから、弛緩した溜息が漏れる。


「セクサロイド……ですか?」


 人間の態度は、他人の肩書に依存して大きく変わる。

 セクサロイドで損をしたことは無い。向けられるのは安堵、嘲笑、或いは肉欲、もしくは品定め。大抵は害のあるものでもない。


 とはいえ、ここで「仕事」をするつもりも無い。


「『元』だ」

「そう、ですか……」


 眼球は呟きを繰り返し、言葉を始めた。流暢さが増していく。


「すみません。気を悪くしないくれませんか。ただ、ほんの少し驚いたというか……ホッとしたというか」


 人間は怖いから。眼球はそう言いかけた。

 問いはしない、食い扶持にも関係はない。だが黙っていると、寧ろ眼球は続けた。


「何分十年もここにいて……スピーカーが動くか心配なくらいで。失礼があったらすみません。でも本当に、来てくれてよかった」


 眼球は喋り続けた。たどたどしく言葉を噛み締める、草食動物の咀嚼、それでも続き、止まりはしない。本当に来てくれるか心配していたこと。誰でも良いと書いたのを後悔していたこと。凛々しいセクサロイドで嬉しいということ。機械は優しいので好きだということ。


 無駄な会話だ。バッテリーは待機電力を消耗する、立っているだけでも死は近づく。

 だがそれは言わない、その権利が無い。仕事を乞い金を貰う、眼球はそれら全てを与える。これは契約だ、服従に合理的な必要性がある。

 だから待つ。ペニスを捻じ込まれる時と同じように、ただ待っていればいい。


 やがて眼球は言葉を止めた。息遣いに我に返り、何かを言い訳しようとする。その言葉にならない呻きは、また長く続く。

 それでも最後には諦め、眼球は言葉を口にした。この日最も柔らかく――――少なくとも、柔らかく努めた声だった。


「つまらなくてすみません。長くてすみません。自分勝手ですみません。でもどうしても、話しておきたくて」


 皮切りに、また眼球は語り出した。


「少しでいいんです。聞いてくれませんか、僕を……」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る