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 幸せを数えてみてください。自分の人生の中で、良かった、と思えたことです。どんな小さなことでもいいんです。自分の心に浮かぶ限り、思い出せる限りまで出し尽くしたら、今度は未来も考えてみてください。楽しみなこと、夢のある話、胸が沸き立つ希望を浮かべてください。全部で幾つでしょうか。


 次に不幸を数えてください。自分の人生の中で、良くない、と思ったことです。それから未来への不安や、やりきれない嫌なことも。詳しく思い出せなくてもいいんです。大切なのは、全部で幾つか、ですから。


 では最後に、幸福から不幸を引いてください。


 その数があなたの人生です。グラムやトンのように、天秤で測れる厳密な値です。可視的に定量化された、人生の価値です。


 それはおかしい、みんなそう言うと思います。


 でも、意味があるのでしょうか。不幸が幸福より多い人生に、価値があるのでしょうか。初めからそうだと知っていて、生まれてくる人はいるのでしょうか。


 そして……幸福が不幸より多い人生など……幸福に満ちた人生など……ありえるのでしょうか。




 ある夏の昼間に、どこかの校庭にいました。体育の授業だったのでしょう、体操着を着ています。ボールか何かで遊んで時間が過ぎ、校舎へ退散する折だったでしょうか、僕と言えば砂利や砂を慣らしていたので、最後に一人残っていました。


 すると遠くの体育倉庫から、先生が指しています。後ろを見れば、ボールが一つ残っていました。こんな色のボールは使った覚えがありません。転がって行った内に忘れられたか、或いは何時間もそのまま置き去りであったか。兎も角そのような場所に、ボールがあったのです。片付けてしまおうと、軽く拾い上げました。


 先生が何かを言いました。「こちらまで持ってきてほしい」そのような内容だったと思います。よく通る声でした、教育実習で仕込まれたのでしょう。蝉が何匹いても聞こえて、熱気と湿気で参っていた僕にも、確かに聞こえたのです。鼓膜は正常に震え、言語を電気信号としてパターン化し、聴覚野へと伝えました。


 ですがその途端、僕ではない別の存在が思考しました。


 持ってくる、という音は聞こえた。だが何を? どうして持ってくる? 『持ってくる』とはどういう意味だ? そもそも今自分が手に持っているのはなんだろう? 丸はどうして丸い? 

 いや、根本的な問題として……『僕』はどうしてここにいる?


 ……意味の分からない言葉でした。けれどそれらに押し出されて、僕の神経や脳漿は、どこか遠くへと追いやられました。自分の意志とは全く無関係なものに犯された意識では、自分の身体が遠く離れた異物に感じられ、動きません。先生の言うことを聞かねばなりません、何か返さねばならなりません。なのに声を出すことはおろか、歩き方さえ忘れてしまったのです。


 次の日公園に行って、歩き方の練習をしました。学校が終わってから、日が暮れるまで、決まった場所を何度も往復しました。


 これはとても昔のことです。どれくらい前か、今となってはわかりません。その時ほんの二歳だった気もするし、十八を過ぎた頃だったかもしれません。

 確かなのは、兎も角何事につけても、このような調子だったということです。


 ……つまらない話だったと思います。何せ、筋道も因果も無いのです。ただただ不条理な苦痛を、出来事として説明したに過ぎません。


 しかしそれこそ、当然の核心なのです。これは他人染みた苦痛の過去であって、僕の物語ではありません。


 そう、苦痛から生まれました。まず何より先に、苦痛があったのです。口よりも足よりも先に、苦痛が母の胎に宿りました。それから僕という存在が、苦痛に寄生して巣食い、栄養のおこぼれを浅ましくもいただき、醜く膨れ上がって、ようやくに形を成したのです。離れたことなどありません、僕は苦痛の影となって、『僕』の振りをして生きてきました。

 何を見て聞いても、まず苦痛が生じるのです。唐突な離人感と困惑に襲われ、抑え込むのに躍起になり、あらゆる労力をそこだけに払って、他に何もできなくなります。一切この調子ですから、僕が何を言っても、言われても、全ては苦痛に吸い込まれていくのです。外界から受け取る何もかもが、ぼんやりと遠くに感じられて、自分はどこか別の場所にいるように思われました。僕と言う人格は、苦痛の中に深く深く埋没して、その境界さえ感じられなかったのです。


 何よりゾッとしたのは、どうやら自分は普通ではない、と気づいた時でした。


 幸か不幸か、それは随分幼い頃だったと思います。物心ついた頃、既に僕は『僕』の振りをしていました。


 家族で映画を見に行きます。キャラクターが泣いたり笑ったりするのを、とにかく一緒になって真似します。どうしてそうするのかわからないので、とりあえずの猿真似で、わかっているふりをするのです。映画館の暗闇が僕を隠してくれる、それを頼みに必死についていきます。

 緊張は、映画が終わったあとです。映画館を出て明るみに曝された瞬間、正しい感想の正しい表情を浮かべてなければなりません。ですが何時間もの映像に疲れ果て、碌な考えが浮かばないのです。そこで自棄になり、思い切り笑います。誤魔化しです、子供なのでよくわからなかったが、とにかく何かが面白くて溜まらなかった、一応家族には感謝している。いつもそうして有耶無耶にして、家路を乗り切りました。


 緊張の連続は、日常こそでした。特に同年の友人というものが、僕に怖くて仕方ありませんでした。彼らは好き放題に自身を乗り回し、泣いたり笑ったりできて、その興味の矛先は野放図に移り変わり、寄ってたかって僕を囲みます。そしてほんの些細な逸脱でも、彼らの残忍さは嗅ぎ付けるのです。

 只管に表情を真似てついていきます。一瞬の遅れも許されません、会話の内容を統計的に分析し、先を読みます。あの人物について語るときは、大抵みんな笑っている。恋の話をするときには、大抵溜息が多くなる。そうした記号的な模倣を繰り返して、何とか僕は過ごしていました。


 兎角恐ろしかった。僕が『僕』でないと露見し、人間の振りをした何かであると、否定されるのが怖かった。他人に指摘された瞬間、それは逃れようの無い事実に確定します。……悪足掻きだったのはわかっています。それでも、この感覚は僕の気のせいで、本当は正常なのだと思いたかった。この世に遍く全てには確固たる価値があり、僕もその一人で、幸福に満ちた人生を歩んでいるのだと、信じたかった。


 愚かだと思いますか。ええ、そうかもしれません。本当に傷つきたくないのなら、ずっと独りでいればよかったのです。それでも薄っぺらい自己愛が、悲鳴だけは大きくて、僕を放しませんでした。他人といれば恐怖に慄くのに、一人の孤独にもまた耐え難くて……誰かが自分を褒め、承認し、人間の一員と扱ってくれて、初めて僕は僕だと……苦痛の付属品ではないと……思える気がしたのです。

 けれどこの劇薬は、副作用に至れば劇毒なのです。ふと一人になった時、それがどれだけありふれて短い時間であっても……自分は無価値で、いつまでもそのまま一人なのだと、苦痛が囁いてくるのです。それは耐え難い新たな苦痛でした。そこから逃れるために、また他人を求め、苦痛に埋没して苦痛を忘れようとする。そんな不毛な繰り返しが、ただ人生と呼べそうな何かでした。


 それでも、しかしです。僕は愚かだったのでしょうか。


 自分の感覚を、信念を、正義を……存在を、一体誰が証明できるのでしょうか。自分の内で自分だけが知っていることを、どうして自分が証明できるのでしょうか。『我思う、故に我あり《コギト・エルゴ・スム》』など、破綻しています。1-1を0と証明するには、まず1そのものが1であると証明せねばなりません。外在する定理が必要です、つまり同じように個人とは、他人によって観測され、ようやくに定義され得るのです。少なくとも僕は、そう信じていました。


 故に……逆説的に……こう思います。

 人一人など、存在しないに等しいのだと。


 たった一つの眼球にさえ、等しいのだと。

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