9話
やさしい人間になりたいと思った。かつて憧れたひとが、そうであったように。
皆それを笑うかもしれない。この凍てつく世界で他人に尽くしている余裕など、誰にもありはしないのだから。
弱さを笑い、痛む心を麻痺させ、踏みにじることを厭わなければ、きっと楽に生きられるのだろうと分かっている。
それでも自分に、寄り添ってくれる者たちがいた。
武器を託してくれた先輩や、愛をくれた両親や、仲間たちが。
その暖かさにまだ価値があることを証明したかった。
ここで負けて死んだとして、それがなんだってんだ。
陽彦の頭の中で、己を奮い立たせる真実の
おれは止まらない。最後まであいつらの
本当の、やさしいやつになってやる。
※※※
迫りくる陽彦の姿は、もはや黒い風にしか見えない。王が突き出した血の槍は
もはや何度目かも分からない、液状化からの再構築。まだ再生の限界は遠いとはいえ――万に一つというものを、王も意識し始めていた。
まさか妻と同じ、
彼女が言っていた通り、それは特別な存在ではないのか? ある日突然、そのようになれるものであると? だとすれば、今後の計画にも支障が出るのではないか?
迷いによって動きを鈍らせた王の胴体を、陽彦が容赦なく両断し、余裕ぶって笑い飛ばす。
「へっ、あんた
「あまり調子に乗るなよ、不愉快だ」
安い挑発に対して、王はややむきになったように見せた。あるいは本当に苛立っていたが、それを利用しようという程度の余地はまだあった。
陽彦がまた風に紛れて消える。王は血肉の槍を、身体の前面いっぱいに生やした。愛海が冬獣からの攻撃を受け止めてそのまま抱き殺しているのと、図らずも同じように。
あの速さでは、陽彦自身にすら動きを完全には制御しきれまい。ただそこに合わせてやればよいと待ち構える王の足に、後ろから黒いものが絡みつき、猛烈に引っ張った。
「っ、ぐうっ!!」
バランスを崩した王が、雪に前面から倒れる。無防備に晒されたその背中に何かが突き刺さり、肉体を大きく爆ぜ飛ばす。
液状化し、再結集しゆく
「聖二、
そう命令を下す王の顎を、鞭のようにしなる腕が狙い澄ましたかのように打ち抜き、先端から噴き出した炭酸ガスが凍結粉砕する。
馬鹿な、といよいよ王は狼狽した。この三人にはいま誰一人として、自分の聲が通じていない。
「なるほど、こういう感じなのか」
蛇めいた縦長の眼を細めて、聖二は薄く笑った。
生まれてこの
※※※
弟みたいなやつがいる。二つ歳下で、跳ねっ返りの強いやつだ。
そいつは生意気で、悪ぶってて、ろくに学びもせず、正義も倫理もきっと知らないくせに、肝心なときには優しく、強く、気高くあれる。
こっちは必死になって正義の味方の真似ごとをしているというのに、あるがままにそういう意思の強さを見せつけられて、たまにちょっとむかつくぐらいだった。
それで、今も——そいつがなにか新しい境地らしきものに至るのを、この目で見てしまった。
もはや認めるしかない。敗北を受けいれるようで
僕は
遠くの誰かを守るためにこいつが命を懸けるのなら、僕はこいつのために命を懸けたい。そう心の底から思った瞬間、なんだかたまらなく、自分にもできるという気がした。
何度も殺されかけた毒蛇の細胞に身を委ねる。自分が消えてしまったらどうしようというほんの少しの怖さを、こいつに負けたくないという気持ちが強く上塗りしていく。
そうして僕はいま――やっと一かけのそれを手に入れた。
王が
何気なく選んだだけの自分の言葉に感心する。僕らには、みな自由な意思がある。それは決して止められない。
※※※
これは種としての命運が懸かった戦いだ。ここで私たちが負ければ、きっと大勢が死ぬのだろう。
そう分かっていても――私はただ目の前の光景に、感動を覚えずにはいられなかった。
この世界に私のようなものは一人きりで、死ぬまで孤独なのだろうと、そう思って生きてきた。その思い込みは徐々に覆され、今まさに、ひっくり返ろうとしている。
私自身が時間をかけて、少しずつ変わってきた。そして陽彦と聖二が今、私のいるところに足を踏み入れてきている。
きっとそれは、
そしてそれは、
陽彦が目の前でそれになった、現象そのものが明らかな呼び水となって、聖二を引き上げていた。
もしかすると初めから、冬獣の細胞は凶暴なのではなく、思い込みが激しいだけなのかもしれないと思った。荒涼としてゆとりのない
可能性はきっと、全ての狩人たちにある。人に由来する私たちは獣たちと違い、あたまの中のことばを使って自己認識をつくり、自分自身の王になれるのだから。
※※※
緑の夕陽が山の向こうに隠れかけ、夜の帳が下りようとする頃。
丘を登りきった愛海は、信じがたいものを目にしていた。
幾度となく再生を繰り返し、いよいよ少しずつその体積を減らしつつある王。
癒えきらない傷を全身につくりながらも、しっかりと雪を踏みしめて立つ三人。
陽彦と聖二はいつもよりもどこか異形めいていて、けれど器用に連携をこなしている。
みな、髪によって接続されてはおらず。けれど『
戸惑いつつも、愛海は状況を呑み込んだ。陽彦と聖二も、深雪と同じくワイルドハントとして目覚めたらしい。そのように受け取るしかなかった。
陽彦の丸鋸が、王の顎から上を斬り飛ばした。すかさず流体化した頭部が、映像の逆回しのように元の位置へ収まり、その
お互いが決め手に欠いている。か細い勝機を
「……愛海、来たのか?」
陽彦らしき狼人間が振り向き、いつもより低い声で尋ねる。
視線が一斉に自分へと向けられて、愛海はどきりとした。
消耗した二つの勢力。そこに現れた万全のものがひとり。
「よくぞ……よくぞここで来てくれた、愛海。やはり私には、もうお前だけだ」
これまでにない感激と信頼の情を込めて王が言う。気を引くつもりはなく、本心から出たものだと察せられた。
「あんな奴に耳を貸さなくっていい。従う必要なんかない。聲だって、気づいてしまえば大した脅威じゃなかったんだ」
「愛海、簡単なの。あなたも望めば、今すぐになれる。自由になって、私たちと生きよう」
聖二と深雪がそう誘いかけてくる。なんだかとても魅力的で、正しそうに聞こえた。
見知った三人が聲なんて関係ないとばかりに戦うのを見ていると、自分にだけそれができないなんてむしろ不自然に思えてくる。何より愛海は、母が同じようなことを言っていたのを憶えている。
強く願えばきっと今、自分もワイルドハントになれる。
ずっと父の言いなりになって生きてきた。『聲』による命令という話でなく、もっと本質的に。
おそらく自分がどちらかに
こう言い換えてしまうこともできた。どちらが勝って生き残るべきか、愛海が決めることができる。
ああ、なんて――なんて恐ろしいことだろう。
分かってしまった。父に従って生きるのはとても窮屈であった反面、とても安楽なものでもあったのだと。何を選んでも、選ばなくても、本来的な責任は自分になかったのだから。
母が死んだのも。都市が滅ぶのも。三人の仲間たちが喪われることも、自分にはどうしようもないことだと思っていられた。
今この瞬間までは。
もしもここで、どちらの手も取らず、背を向けて逃げ出したのなら。それはきっと、両方を裏切ったことになる。
父を殺すか。三人を殺すか。いまの自分は、どちらかを選択しなければならない。
陽彦がなにか言いかけたが、その鼻先が何かを嗅ぎ分けるようにくんくんと動いた。代わりの言葉を探すように少し考えてから。
「……いいよ、愛海。むこう向いてな」
静かにそう告げた。聖二や深雪はもちろん王すらも、いったい何を言い出すのかと陽彦を見やった。
「親父を自分の手で殺すのも、死ぬところを見んのも辛いだろ。だから、いい。おれたちが勝って、生き残ったら、そんときゃまた仲間にしてやるよ」
聖二がやれやれと首を振る。深雪がしょうがないと溜め息をついた。三人は愛海から目を離し、王へと向き合った。
それこそが陽彦たちと王とを
父は決して、情がないわけではなかった。いつだって愛海や配下たちには優しかった。けれど彼の深い愛情は、己が率いる群れの内側にだけ向けられたものだった。
陽彦は、選ばなくてもいいと言ってくれていた。彼らと愛海とでは、立場や、大切にしたいものがきっと違う。どうしても踏み切れない、心の弱さもある。
生死の境目にあってすら、彼はできる限りそこに寄り添おうとしていた。
父王が邪悪に笑う。彼には
「愛海、
深雪の髪がうねり、王の右腕を掴んで封じた。
陽彦の丸鋸が閃き、左脚を巻き込んでミンチにする。
聖二の腕がしなって、突き刺した腹部を吹き飛ばす。
愛海が駆け出した――深雪の、陽彦の、聖二の、無防備になった背をそのまま追い越して、再結集する王の元へと迫る。
両手を広げ、正面からぎゅっと強く抱きついた。愛海の体内で、吸血機構がカチカチと音を立てる。自分とそっくりの赤い瞳が、目の前で困惑に揺れていた。
「馬鹿な……やめろ、
その単純な命令すら、もはや届かなかった。愛海の中の真実の聲が、共に生きたい者たちの名をはっきりと告げていた。
全身から生えた杭が王を刺し貫き、
「っ、があああああああああああああ……!!!」
王が絶叫する。愛海の中に取り込まれた血液を、もはや自分の一部であるとは
それは、
「ぐ、か、はっ……」
やがて、ほとんどの血を吸い尽くし、再生の限界を迎えて――骨と皮だけのようになった父を、愛海はいっそう強く抱きしめた。
「——お前のためなのに」
王は
「ごめんなさい、お父さん。愛してます。本当です」
父の分まで、愛海が代わりに泣いた。どうか信じてほしかったが、きっと伝わらないとも思った。
「わたし、あの人たちと一緒に自由に生きたいの。深雪ちゃんと。聖二くんと。陽彦くんと。だからもう、あなたの跡は継げません。ごめんなさい」
父は静かに目を閉じ――その体がぼきりと、氷のように折れて転がった。もはやその血が沸き立とうとする気配はない。
愛海がその身に杭を収めて、
人の
唯一の肉親を喪った愛海を、独りにしないために。
四人の群れに戻った狩人たちと、あっけなく滅んだ
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