8話
そのまま傷が再生して刃の回転を止めようとする気配を察し、陽彦は得物を引き抜いて素早く離れた。
傷口がうぞうぞと、別の生命かのように蠢く。血液と肉の中間的な何か――ジェル状の
「自己認識が私を作る。王とは受け継がれるべき血であり、私はその
それは明らかに、みなが知る生物の常識から逸脱していた。確かにここまでくれば、自らを人とは思えず、人の形をしたなにかと捉える方が自然なのかもしれない。
王の腕が変化する――集った血が鋭い
振るわれたそれを陽彦が武器で受けると、粉々に砕けて飛び散った破片が雨のように降り注ぎ、毛深く
「っ
「……っ!」
陽彦の感じた鋭利な痛みが、髪によって繋がったほか二人にも幻肢痛のように共有される。砕けた王の腕にはまた液体に戻った血液が集結し、あるいは血肉が新造されて、何事もなかったかのように元の形を取り戻していく。
絶望がじわじわと三人を
実際には攻撃のたび、少しずつ王の血液は弾き飛ばされて回収不能となり、その不足分を再生によって補っているのが分かった。だから理屈の上では、蓄えられた養分が尽きるという限界が存在していて、それが三人にか
「単に、分かっていなかったのだろう? ここまで差があると」
王はまた、大らかさを取り戻しているように見えた。三人にそれを見せつけたというだけでなく、彼自身が普段振うことのない力を再確認し、それに満足しているというふうに。
「君たちは勝算に基づいて、己の意思を通そうとしていたらしい。そこは気に入った」
「ちょっと押してるぐらいで、調子こくなよヒゲ野郎」
神経の接続を通じて、陽彦は深雪に要求を送った。もっと踏み込め、もっと力を引き出せと。
氷床をつよく踏みしめ――がくん、と
槍のように尖った血液の
「あああああああああ!!!」
深雪が絶叫した。その身ではなく、陽彦と繋がる髪を切断されて。自分自身の一部が喪われる感触に、嫌な汗が噴き出る。再び髪を伸ばして接続を取り戻そうとするその前に、王が陽彦の首根っこを掴んで後ろへと放り投げつつ、深雪の顔を思いきり蹴とばした。
「っ、まだ、だ!!!」
共有される痛みに一瞬怯みつつ、聖二は両の腕を振るった。王の体幹へと突き刺さった二本の牙がその身を爆ぜ飛ばし――ほんの数秒のうちに、また血が再集結して
「
丸鋸を振り上げたままで動きが止まる。その
衝撃に吹っ飛ばされた陽彦は、受け身の姿勢すら取れないまま氷床に強く身を打ち付けた。頼みの
「くっ……そが……」
立ち上がれないまま、陽彦は悪態をつく。深雪も聖二ももう動こうとしない。その姿を見下ろして、王は口を開いた。
「どうしてそこまで拒もうとする? もしや誰か、死んでほしくない人間でも?」
まるで今初めて、思い至ったとでもいうような口調だった。
「
王はそれに、ふむ、と頷き。
「そうだな。君を見捨てて、放り出した両親だ」
その言葉に陽彦は固まった。そうではないと否定する前に、王が続ける。
「本当に君を愛し、守るつもりがあるなら。
「戦えるわけねぇだろ。ただの人間が、冬獣と」
「違うな、戦うことは誰でもできる。ただ、勝てないだけで。彼らは仕組みを言い訳にしているだけだ。本当に君を想う気持ちがあるのなら、一緒に死んでやると言えたはずだ――ああ、うむ。確かにこれは、
そう語る王の瞳には、これまでにない感情が静かに燃えている。
「先生も妻も、私はこの手に掛けた。必要とあらば、この命も捧げよう。人型の
理不尽を強いる者たちに対する
かつての自分ならば、そこに強く共感していただろう。だからこそ今は、それをはっきりと否定しなければならない。
「おれもずっと、
陽彦の言葉に、王は憐れむように目を細める。
「私と君は、どこか通じているのではないかと思っていた。けれど君は、
その侮蔑的な言葉にも、陽彦は苛立ちはしなかった。
「いいや、おれはまだ
自分の中だけで考え続けてきたことがある。聖二でも、深雪でも、愛海でもなく、目の前の王こそがそれをぶつけるべき相手だった。
「この世界がもっと暖かくて、豊かで、優しかったら、きっと誰も傷つかずにいられたんだ。あんたの先生だってきっと、そんなふうに思ったんだろ。世界をもっとよくしたいって。おれたちなんかよりもずっとでかい力があるのに、あんたはそう思わねえのかよ。ただ弱くて、仕方なくそうとしか生きられなかった連中だけ殺して、それで満足なのか?」
問いであり、懇願だった。この男が同じことを志してくれたら、それだけでいろんなことができるだろうと。きっと陽彦も
「繊細だな、陽彦。きっとそのせいで、人より傷つくこともあっただろう」
右腕に血液の刃を宿らせ、その切っ先を陽彦の喉元へと向けながら、王は続けた。
「最期だ。これを拒めば、殺すしかない。私の群れに加わり全てを委ねれば、君が君であることで受ける痛みもきっと溶けてなくなる。
陽彦はごくりと、唾を飲み――
「クソくらえだ。あんたがやらねえなら、おれがやってやる」
その右手が刃を掴み、粉々に握り潰した。
両の足で雪を踏みしめ、陽彦が立ち上がる。肉体が一段と膨れ上がり、より長く伸びた毛並みが
これまで抑え込み続けてきた
※※※
「■■■■■ァァァァァーーーーーーー!!!」
いつの間にか暮れゆこうとする緑の夕陽に向かって、狼男が吠えた。目を血走らせ、牙を剥き出しにし、鼻息を荒く白ませる姿は、もはや人よりも獣に近い。
「……そんな」
やりとりを黙ってみていた聖二が、思わずこぼす。
いつかの夜の、理性を失いかけたとき以上に。陽彦は獣性を剥き出しにしている。
狂った――あるいは王たちの言葉で言うのなら、『成った』ことは明白だった。
おそらくはこの状況を覆せる一手を狙って、細胞に身を委ねたのだろう。
膨れ上がったその肉体が
何かがおかしいと、そこでようやく聖二は気が付いた。
「——聲が、効いていない?」
そして今や深雪の
「っ、……陽彦、
王が声を張り上げる。まるで聴こえていないというように、丸鋸が脳天を叩き割った。再集結した血がまた王を形づくるが、その表情には余裕がなくなっている。
「ねえ、あれ……本当に狂っている?」
深雪がぼそりと言った。以前の時は千切れた腕を敵の眼窩に突っ込み、喉を喰い破るような振る舞いさえ見せていたはずだ。今の陽彦は外見こそ人間離れしているものの、丸鋸を手に普段と同じような戦い方をしている。
その考えを、裏付けるように――
「——————てめェらも
いつもよりも野太くなった声で、陽彦が叫ぶ。
脳を含む全身の細胞が、獣のそれに侵されていながら――陽彦はいま、完全に、自分であり続けていた。
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