7話

 聖二たち三人が動き出したのは、目が覚めてすぐ――まだ頭上に太陽がぎる、日中のうちだった。


 集落を見下ろせる、小高い丘の上まで戻ってきた。雪上車のキー解錠アンロックし、中へと乗り込む。

 収納箱トランクボックスから、必要なものを取り出した。陽彦の丸鋸剣、聖二の針撃ち銃。おそらく、はじめの一撃をどのように入れるかの戦いになる。通じないことは分かっていても、攪乱ブラフのために構えるつもりだった。


 車から降りて、深雪を中心に固まって立った。集落へと戻って王を襲撃するつもりはない。住人たちの幾らかを見張りに回して備えているだろうし、多くの配下たちに囲まれたあの環境で戦うという方を避けたかった。聖二たちの読みが正しければ、向こうからこちらへと来るはずだ。


 ほどなくして――ゆっくりと丘を登って、王が近づいてくるのが見えた。村人たちが一緒に付いてくる様子はない。たった一人で三人を制圧しきれると考え、無駄な犠牲を出すまいとしているようだった。

 陽彦が丸鋸剣の暖気を開始する。ひらけた雪面に王が辿りつき、距離およそ十歩ほどで立ち止まった。


「どうして僕らがここにいると?」


 内燃機関の唸り声に負けない声量を張り上げて、聖二は問うた。


「君たちには監視を付けていた。何か動きがあれば伝えるように」


 知っている――配下の者たちに見張られていたことも、ここに来る途中で王を呼ぶべく引き返したのであろうことも。聖二の目や陽彦の耳を、あんな単調に動く住人たちがごまかせるはずもない。


 相対する王からは死角となる角度で、深雪の髪が聖二と陽彦の首筋へ伸び、ちくりと刺した。肉体の主導権はあくまでも刺された二人が持ちつつ、脳が体にかける制限の解除と、『こえ』からの防衛を深雪が担う。

 図らずもあの鳥との戦いが、そのまま予行演習となっていた。


「正直なところ、失望した。逃げようなどという浅はかさは勿論だが、それ以上に……君たちと愛海が一緒にいないことに。私は思いのほか、期待をしていたようだ」


「なんか勘違いしてるみてえだけど、別に逃げ出そうってんじゃないぜ、ここには武器こいつを取りに来たんだ」


 王の言葉に、丸鋸剣を挑発的に掲げながら陽彦が返す。戦いに先んじて、駆け引きはもう始まっていた。


「私たちで、あなたをたおす」


 深雪がそれに続く。王は小馬鹿にするようにそれを笑った。


「愛海が僕らと一緒にいないのは、彼女自身の意思です。あなたは自分の『聲』でなにもかも思い通りになると思っているようだが、それは違う。彼女にも、僕らにも、みな自由な意思がある。それは決して


 最善は『聲』がいまだに効くふりをして、油断させたまま距離を詰めること。そのため『聲』で制圧したいと思わせるような言葉を、聖二は選んだ。


「なるほど、そうか。では――□□□止まれ


 果たして王はからかうように、聖二の言葉を拾ってその命令を下す。

 三人がぴたりと、動きを止めるふりをした。雪を踏みしめて王が一歩ずつ近づいてくる。理想的な展開だった。


「昔と比べて、私も多少は丸くなったつもりだ。君たちをこれから死なない程度に痛めつける。その自由な意思とやらで、自ら進んで私の元にくだってくれるのを願っているが、恐怖と痛みから『成って』しまっても構わない。始めようか」


 そうして陽彦を殴りつけるべく、振り上げられた左腕を――丸鋸の刃がひらめき、切断した。流れるような軌跡を描き、刃はそのまま王の両腿を横薙ぎにする。


 三肢を失って体勢バランスを崩した王に向かって、聖二は銃を放り捨てて右腕を突き出した。陽彦が戦闘時に獣の形態を取るように、聖二にもそれがあった。五指が癒着して一本の尾のように変質した腕を、硬化した鱗が覆う。その尖端は牙のように鋭く尖り、それでいて注射針のように中空の管構造となっている。


 王の胸部へ、牙が深々と突き刺さった。ぱんっ、と大きな音がして、物に当たって雪玉が砕けるように血肉が弾け飛ぶ。その返り血が聖二や、繋がった深雪の髪をしとどに濡らす。


 完全にった――麻痺毒の生成とは異なる化学反応によって引き起こされる、純然たる破壊。敵の体内に送り込んだ高圧の炭酸ガスによって冷却粉砕し、身体組織をずたずたにする一撃。


 ほとんど肉片のようになって転がる王。その頭蓋を、陽彦が油断なく丸鋸剣で叩き割った。愛海の再生力の高さを普段目にしているが故の抜かりなさだった。


「——勝ったのか?」


 半ば呆然としたように陽彦が漏らす。残る二人も同じ気持ちだった。あれほど届かぬ脅威であると強調された王が、ただ三人の狩人に傷を負わせることもなく、いまや血の染みとなっている。円蓋ドームを滅ぼそうという存在が、こんなにもあっさりとたおれたのか?


 


「おい……さすがにそれは嘘だろ?」


 驚愕と怒りが、聖二の声に滲んでいた。それは意思を持つかのように動き、まとまり、やがて人の形を成していく。『聲』が効いていなくとも、その悪夢のような光景を前に三人は動けなかった。


成程なるほど、私の『こえ』が効かないのか」


 口ぶりから、もはやあざけるような雰囲気は消えている。一瞬前の殺戮劇などなかったかのように、五体満足で傷ひとつない王がそこに立っていた。


「全員がとはおもがたい。その髪がとても怪しいな。そういうことかね、深雪? 君も真昼まひると――妻と同じなのか」


「……クソ化物バケモンが」


 丸鋸を分離して構えながら、陽彦がこぼす。聖二が両腕を変質させ、鞭のようにしならせる。深雪が二人の内側へと潜り、無意識の制限を解き放っていく。


 どうやら勝ち目はなさそうだという絶望を皮切りにして、本当の戦いが始まった。



※※※



「すこし、話をさせてほしいの」


 どこか寂しげな母の声が、狭い雪倉ゆきぐらに反響する。それで愛海は――ああ、やっぱり本当に、この人とはもうお別れなのだということを悟った。


 父と母が、長らく揉めていることは分かっていた。どこか遠くに住む、自分たちとまるで関わりのない大勢の命の是非について。

 滅ぼさねばならないという父のことも、それを止めねばという母のことも、愛海にはよく分からなかった。それは自分たち家族が割れてまで、こだわらなければならないことなのかと。


 母はいよいよ、父に挑もうというのだろう。これまでに何度も、愛海は彼女を止めようとした。より力のある父の考えが優先されるのが、自然なことのように思えて。けれどもそのようにされればされるほど、むしろ母は屈してはならないという意思を固めているとすら見えた。

 命を懸けてでも、何かを示さねばならないとでもいうように。


「愛海。あなたは今、あの人の娘として生きているわね」

「……娘、ですけど?」


 掛けられた言葉に、にわかに不安になる。おそらく死を覚悟して何か遺そうとしているのであろうこの時に――まさか自分の出生に、不貞があったとでも明かされるのだろうかと。表情を暗くする愛海に、ああ、違うのよとちょっと笑いながら、母は続ける。


「あなたのその綺麗な髪の色は、間違いなく乃吾のあからのものよ。そうではなく、人にはみんな、自分として生きる権利があるということ。あの人の娘でも、生まれついての冬獣でもなく。支倉はせくら愛海あみとして、自由に生きていいということを言いたかったの」


 その言葉に、ほっと息を吐く。これまでにも似たようなことを、母は時折口にしていた。自分を継ぐものになれという、父の教えとは相反するものだ。


「あなたも、あの『聲』に従うほかの住人たちも、あるいは――過去の自分が決めつけた、こうであるべきという思い込みに囚われ続けているあの人自身も。ほかの誰かが発したことばを、自分自身の意思だと信じ込んで生きている。それは楽かもしれないけれど、とても窮屈で恐ろしいことなの。あなたの心が本当に大事にしたいと思っているなにかすらも、あの人がただ一言言うだけでないがしろにしてしまえるというのは」


 なんとなくなら、分からないでもない。けれど仮にそうだとして、自分自身には如何様いかようにもしがたい話だった。

『聲』が一切効かず、王でもないのにいつまでも『成る』ことがない。それはこの小さな村に限らず、広い世界で見ても母だけのことに違いなかった。


「お母さんだけが特別なんですよ」


「あなたもあの人も、わたしをそう言うけれど。本当はとても簡単で些細なことなのよ。気づいてさえしまえば、きっと誰でもこうなれる。わたしの脳もたぶんとっくに、冬獣の細胞に侵食されてけ合っている。けれどわたしの頭の中には、自分だけの『王』がいて、ずっと叫び続けているの。他の誰でもなくわたし自身に――いま本当になりたい、、って」


 母の言葉はいつもこうだった。どこか自由で、前向きで、けれどひどく抽象的だ。自分も、たぶん父も、彼女にどこか届かない憧れのようなものを抱いている。

 そこがたまらなく大好きで、けれどたまに恨めしくもなる。


「もしかしたらわたしと同じようなものが、これまでにもたくさん居たのかもしれない。冬獣の細胞が脳まで侵食していながら、自分を失わずにいられる狩人。厳しい世界のなかで、そうと気づかれないまま死んでしまっていただけで。その法則と再現性を見出し、みんなが等しくそう在れるのなら、その時こそ本当の意味で――旭先生が夢見た、すべての人が広い空の下で生きられる世界が、実現するのかもしれない」


 母には何が見えているのだろうとよく思う。父とほとんど変わらない、この村以外の景色など知らない環境で育ったはずなのに。

 先生に師事して修めたという学問が、彼女にその想像イマジネーションの翼を与えているのだろうか。


「願うことなら、あなたも王ではなくそれに――って、これじゃあわたしも押し付けているだけね。ただ、知ってほしいの。あなたには決して、一つしか道がないわけではないということ。それを決める権利を持っているのは、あの人ではなくあなた自身だということを」


「とっても素敵だと思います」


 紛れもない、本音ではあった。本当にそんなものに、自分がなれるとは思えませんけれど。そう続く言葉は口にせず飲み込んだ。

 母に嫌われないように、望まれるままの自分でありたかった。けれどそのように思う時点で、そこからはかけ離れていることも分かっていた。


「愛しているわ、愛海。あなたと乃吾のあのことを、心から」


 本当に欲しかったのは、ただその言葉だけだった。できることなら自分だけでなく、父の居る目の前で。かけがえのない家族三人に戻れたなら、それだけでよかったのに。


 この人はまだ、覚えているだろうか。まだ愛海が幼かった頃の、雪の降る暖かい日。三人で寝そべって見上げた、あの白く美しい世界を。

 確かめる勇気は、愛海にはなかった。


「わたしも、愛しています。お母さん」


 その言葉に頷き、ぎゅっと抱きしめ合って――いよいよ母は、去り行こうという気配をにじませた。せめてもう少しでもそばにいてほしくて、愛海は言葉を探す。


「ねえ、名前はあるんですか? お母さんみたいな存在。『』に」


 気を引けるかもしれないと、ふと口にしただけだった。けれど母は、思いのほか明るい笑みを見せる。

 もう何も与えることができないと思っていた娘に、最後の贈り物ができることに気づいて喜ぶというように。


「そうね。あの人——乃吾にしか今まで話したことがなかったわね。私が前に、勝手につけたものでいいのなら。旭先生にむかし聞いた、遠い国の伝承にもあやかって。自分自身の生を、たくましく生きる狩人たち——ワイルドハントって呼んでいるわ」



※※※



 四人に宛がわれた広い家でも、王たる父の邸宅でもなく――母と最期に話をしたのと同じ、ずっと空き家となっている狭い雪倉で愛海は目覚めた。


 あの時も今と同じだった。ただみんなが生きて、一緒に居てくれればいいだけなのに。

 たとえ深雪が、母と同じそれ――ワイルドハントであろうとも関係ない。父があるがままにその強さを振るい、敵対するものをすべて終わらせる。自分の人生はきっと、その繰り返しでできている。


 出入り口に掛かった毛皮をくぐって外に出た。既に陽は沈みかけ、丸みを帯びた雪づくりの家々が緑に染められている。

 そして遠く、雪上車を停めたあの丘の方から、音が聴こえた。

 ブルルルル、と吠えるような機関音。心臓がどくんと脈を打つ。


 戦いがもう、始まっている。まだ終わっていない。


 口を利く相手すらいないこの村で育って、他人ひとに声を掛けるやり方も分からず途方に暮れていた愛海を、迎え入れてくれた三人。


 彼らにとってはなんもないのただの人数合わせで、普通のことだったのだろうけれど。自分にとっては初めてできた、両親以外の大切な人たち。


 氷床をゆっくりと歩き出す。その終わりを、辛くとも見届けたいと思った。母の時は目を逸らしてしまい、それができなかったから。

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