5話

 名に付けられた、ひじりの字が好きだった。けがれがなく、ひいでたもの。その意味に恥じない人間になりたいと思った。

 幼い頃ひどく憧れた、巨悪を倒して世界を救うお話の英雄ヒーローたちのように。


 手術を受けた年齢が、十二歳と少し遅めだったからだろうか――陽彦や他の狩人たちよりも少しだけはっきりと、この世界ではみなが苦しんでいることに気づいていた。


 苦痛に満ちた世界を僕が救ってみせる。そういう物語の中に生きていることを、ある程度の歳までは本気で信じていたように思う。


 毒蛇の冬獣ニフルスの細胞に適合し、自身が分泌する毒にたびたび殺されそうになったことすら、聖二の中の思い込みを強めた。

 世界を救う英雄ヒーローにとって、その苦しみすらいずれ報われるための試練にすぎないのだから。


 狩人となってから少しして、『都市の影』から声を掛けられたときなど、自分はまさしく光の道を歩んでいると確信したものだ。


 けれどそんな自信溢れる心が、少しずつ折れていったのは――劇的な出来事でもなんでもない。この世界の現状を、正しく認識したというだけのことだった。


厳冬フィンブルヴェト』と『冬獣ニフルス』について、権利の濫用らんように当たらない範囲で可能なかぎりの情報を閲覧した。狩りや自治活動を漫然と繰り返すのではなく、根本的に世界をくする方法を知りたくて。


 辿りついた結論は残酷だった。人類はとっくに手遅れで、今からできることなど何もない。


 厳冬は天体規模の現象だ。宇宙の彼方からやってきた細かな塵芥ちりあくたがこの惑星ほしの衛星軌道上に留まって太陽光線を遮ることで、世界中が日照不足に襲われている。


 更に海面や地表が白く凍り付いたことで光のエネルギーがより跳ね返されるようになり、太陽が地球に与える熱よりも、地球から宇宙へと排出される熱の方が大きくなってしまったため、年々気温は下がっていく一方だ。


 かつて大国が宇宙にロケットを飛ばして塵芥を全て焼き尽くす計画を立てたが、成功の目途が立たずに頓挫したという。

 同じことを試みる余力や技術は、もう人類に残されていない。


 人の手の及ばないところで厳冬が始まったように、突然それが終わるという可能性は誰にも否定できなかった。それが大いなる自然であり、宇宙というものだ。

 だから人類を存続させようとする行いが、全くの無駄であるとは言い切れない。


 ただ、自分が生きているうちにその日が訪れることは期待できないし、先に人類が滅びる可能性の方が遥かに高いであろうことは予想できた。


 努力に意味を見いだせずにいると、人の心は病んでしまう。

 陽彦に語ったそれは居住区民のことのようでいて、実際には聖二自身の実感であり、種そのものに当てはまる話でもあった。


 ならば、正義の道を往こうとすることにもはや意義はないのか?

 そういう思考におちいったこともある。だが、今の考えは違う。


 およそ一年前、『都市の影』に属するある男が死んだ。四十代となった肉体はとうに最盛期を過ぎており、そのとしまで狂わずに戦い続けられたことが奇跡だった。


 彼の最期はあっけなかった。経験の少ない狩人たちと組んで、その失敗しくじりを身を挺して庇い、冬獣の餌食となったのだ。


 へまをするような新人が何人か生き残ったところで、どれほどの貢献に繋がることだろう。

 むしろ彼自身が生き残る方が、その後もより多くの冬獣を狩ることや、技術的蓄積ノウハウを引き継ぐことができたのではないか。


 なんとか持ち帰られたその亡骸はあちこち喰い破られ、顔からは目や耳や鼻がなくなり、およそ正視に耐えない状態だった。


 けれどその痛ましいはずの有り様に、みなが自然と敬意を払った。

 現実に打ちのめされて折れかけていたはずの聖二の心にすら、自然と込みあげるものがあった。


 弱い者のために戦う。みなが帰るべき場所を守る。そういうてらいのない正義を貫こうとするとき――たとえ世界が滅びようとも、魂の輝きは決して損なわれない。


 ろくに話したこともない男の亡骸が教えてくれた、その気高さこそが本物のひじりであり、彼が狂わずいられた理由に違いなかった。


 自分もまた、そのようにありたいと思う。だから聖二は、正さなければならない。

 か弱い一般住民を脅かそうとする、何者かの悪意を。



 ※※※



 雪原の静謐に、焚火の音がぱちぱちと弾けて響く。

 数日の休息が明けて――今宵の獲物は雪の下に巣穴をつくる、わにのような冬獣の群れだった。


 柔らかく積もった雪を泳ぐように移動する厄介なはずの種だが、愛海の誘引物質フェロモンで硬い氷の上まで誘き寄せると、深雪が髪で口を縛るなり陽彦が頭蓋を叩き割るなりして容易く狩り尽くせた。


 硬く分厚い皮膚に毒針を阻まれた聖二が手持ち無沙汰で、鳥狩りの時とは真逆のようにせっせと解体に励んでいた。


 久しぶりに皆が、満腹になるまで血肉を食らった。陽彦や深雪は鳥に似た味をそれなりに気に入ったようで、肉付きも良いと喜んだが、愛海はもっと毛皮のついた獣っぽいものの血の方が、命を啜っている感じがして好きだとか語った。聖二は相変わらず味がよく分かっていない様子で、ただ肉が固いなあとこぼしていた。


 食べ終えて、一息ついている頃。


「深雪、ちょっと来い」

「なに?」

「いいから来い」


 陽彦が少し強引に深雪に声を掛け、二人して焚火の辺りから離れていってしまった。

 傍らでそれを見ていた愛海は、突然のことでしばし呆気に取られ――遅れて好奇心やら興奮やらがやってきて、叫び出さないよう何とかこらえた。


 そういうことにまだ明るくない、自分にだって分かる。これは――ロマンスの気配だ。


「あの二人、もしかして……始まっちゃってるんですかね、ラブが……!」

「そういうの、きっと陽彦は嫌がるよ」


 控えめに黄色い声を上げる愛海を、聖二が嗜める。猟団の実質的なリーダーであるこの最年長の少年は、ちょっとお堅いところがあった。


「陽彦くんと深雪ちゃんが結ばれて家族になったら、わたしは素敵だと思いますけど」

「一足飛びすぎるよ。ちょっと抜け出しているだけじゃないか」


 むう、と愛海は唸る。確かにこれはどちらかというと、自分の願望に近い話だ。

 ただあの二人はどうやら長くて深い縁があるようだし、お互いに憎からず想う雰囲気は度々たびたびあったと思っている。決してありえないことではないはずだ。


「そういうの、うちの猟団パーティは厳禁ですか?」

「いいや、本人たちが望むなら好きにすればいい。ただ、厳しい世の中だからね。離別を恐れて、あえて深い繋がりを持たないという考え方もある」


 聖二の言っていることも十分に理解はできる。けれど、なんとも寂しい話だった。

 そもそもそこまで深く世を憂う必要があるのだろうかと思うが――仕方がない。彼らは重要なことを知らないのだから。残念ながらまだ、教えてあげるわけにもいかない。


「わたし、この猟団のみんなが好きなんです。本当の家族みたいに、ずっと一緒に居られたらって思ってます」


 代わりに、今の気持ちをまっすぐに伝えようと思った。これからひっそりと成し遂げねばならないことへの、決意を固めるために。


「僕も同じ気持ちだよ。君たちのことが好きだ」


 そう言って聖二が微笑む――ちょっとどきりとした。そんなこと、考えていても口にしないような人だと思っていたから。


 よく考えると、若い男女が二人きり。ロマンスの気配は陽彦と深雪あちらがわだけでなく、愛海と聖二こちらがわにも発生しているのでは?


「実は、僕が陽彦に頼んだんだ。愛海と話したいことがあるから、ちょっと協力して二人きりにしてくれないかって」

「!? ええっと、それって……!?」


 またたく消えるはずだったほんの空想を、裏付けるようなまさかの言葉だった。心の準備ができておらず慌てふためく愛海に、落ち着く間も与えず。


「狩人たちの憎悪を煽っているのはきみか? 愛海」

 聖二は唐突に、その問いを投げかけた。

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