5話

「ここを離れよう」

 聖二がそう提案して、私と愛海も頷いた。青い月が、とばりの落ちきった夜を冷たく照らす――冬獣ニフルスたちの時間が始まっていた。


「■■■■■■■———————」

「■■■■■■■■■——」


 頭上では猛禽たちが旋回し、甲高い声を上げている。昨晩の狩りでは見なかった動き。獲物がここにいるぞと、伝えているかのようだった。


 聖二が雪上車が発進させる。上空を、鳥たちが離れずについてくる。それどころか、どこからか飛んできた影が合流して、いまや何十もの翼が空を埋め尽くそうとしている。


「□□□□□□□□————————…………」


 異質なこえが響いた。鳥たちが飛ぶのをやめてそこらの雪面に降り立ち、羽を休めるのが見える。


「□□□□□□□□————————…………」


 その聲はどこか子守唄のような柔らかさを含んで、一定の旋律を繰り返し続ける。

 雪上車が徐々に減速し、やがてその場に停まった。


「どうしたの?」

 私の問いかけに、

「駄目だ……すごく……眠い」

 冗談の含みは一切なく、真剣だけど力の抜けた声で、聖二はそう答えた。


「どっちか……運転を替わってくれ……」

「わたしも……だめです、眠くて……」

 愛海も同じ様に、うめくような声をあげた。二人の身に何かが起きているのは明白で、怪しいのはあの歌うような聲だった。


「私が代わる」

 聴こえてくるこの歌は、おそらく人を眠らせる力を持つのだろう。しかしどういうわけか、私だけはなんの変調も起こさずにいる。

 私はみんなと、脳の構造つくりが違うからだろうか――もっとも、今は原理なんてどうでもいい。


 運転席から聖二を担ぎ出すと、彼はすでに陽彦と同様の深い眠りに落ちていた。

 私の元いた席に聖二を座らせ、代わりに運転席についてハンドルを握る。


 発進させようと、変速シフトレバーに手をかけたとき。ふと横に目をやって――それを見てしまった。

 助手席となりの席についた陽彦の、これまでに見たことがないほど安らかな寝顔を。


 私たちはいま、明らかに攻撃されている。

 生き残りたくば、今すぐこの場を離れるか。

 あるいは、望みは薄いけれど――この歌を歌うものを見つけ出して、私がたおすしかない。


 けれど、ふと、全く別の考えがよぎった。


 脳に反響こだまする、いつかの誓い——


 このとはいったい、どういうことを指すだろう。どれほどつらい目にあっても、長いあいだ生き延びられることだろうか。

 いずれはどこかで失敗して冬獣に食べられるか、あるいは心が限界を迎えて発狂する。そんな悲惨な終わり方しか、この世界では与えられていないというのに?


 今この瞬間に限って――私は、それとは違った答えを用意することができる。

 神経線維を繋げて肉体を掌握し、生存を止める信号を送る。揺さぶられても起きないほどの深い眠りについた彼らは、無意識にすらそれに抗えないだろう。きっと安楽な心地に浸ったまま、すべてを終わらせてあげられる。


 もしかするとこれこそが、本当の意味で魂を守ってあげられる、唯一の正解なのでは?

 とても魅力的な選択のように思えた。そう決断すれば、私の生まれの罪すら洗い流されるような気がして。


 眠っている間の人格の死によって、砂川いさかわ深雪みゆきは世界の過酷さに傷つく前に救われた。陽彦を、皆を、同じ様に救うため、私は今ここにいる。今日この瞬間を迎えるために、私はあの日、生まれたのだ。

 そう信じてしまえば――これまでに抱いてきた苦悩が、意味のある物語として報われる。


 眠る三人の首筋に、私はゆっくりと髪の先端を伸ばした。



※※※



 黄金色こがねいろの羽毛をきらめめかせ、他より倍ほども体長があろうかという一羽の鳥が、停止した雪上車の前にゆっくりと降り立つ。


 彼女は群れを統べる王でありながら、その大きさゆえに配下たちよりも鈍重で、飛ぶことがとても苦手だった。

 冬獣の生存競争において、王が強い群れほど強く、逆もまた然りといえる。より大きく、美しく、目を惹く個体が王となる性質と、体を重くすることが不利となる生態は噛み合わせが悪く、鳥型が繁栄することは滅多にない。


 切欠きっかけは、気まぐれに唄った旋律だった。不甲斐のない自分を守る配下たちを癒したいという、冬獣の王が本来抱くことのない慈しみの心が偶々たまたま芽生え、それが彼女に最悪の異能を与えた。


 通常、王の聲は他種に影響を与えない。何を伝えたいのか理解することができないからだ。

 けれど彼女の「□□□□□□□□やすらかにねむれ」という聲に込められた意図は、その表現力でもって種の壁すら超えて


 敵対種を眠らせることができるようになった彼女の率いる群れは、卵や雛のうちに食われることも格段に減り、いまや多数の成熟しきった猛禽たちによって構成されていた。


 彼女は世界を慈しむ――弱者の苦痛も、強者の傲慢も。

 見えない力で配下を撃ち落とした得体の知れないつるつると、その仲間と思しき連中の罪は、今から群れの血肉となって償われる。


 つまみ出してそのはらわたついばむ前に、窓ごしに寝顔を拝んでやろうと近づいて。


 急発進した雪上車が、その美しい身体を無限軌道キャタピラで轢いた。



※※※



 目の前に降り立った、一目でそうと分かる鳥の王。油断しきったそれ目掛けて、加速のペダルを踏んで突っ込む。

 何かが足元を通り、そして抜けていく感触がした。


 荒い呼吸が止まらない。身体の震えが止まらない――こんな機会はきっともう、二度とないのに。

 自分がとても恐ろしいことをしていると、分かっていても止められなかった。


「みんなに――死んでほしく、ない」


 くちびるが勝手に言葉ねがいをつむぐ。

 まなこが勝手なわがままをこぼす。

 からだあたまさからい続ける。


 殺したくない。まだ終わりにしたくない。

 たとえいつの日か、悲惨な終わりを迎えるのだとしても。

 今この瞬間にしか、それを逃れるすべがなくとも。

 愛海や、聖二や、陽彦と、もっと一緒に生きていたい。


 消えてしまった彼女ではなく、他ならぬ私の魂がそう叫び――幕引きではなく、戦うことを選んでいた。


「□□□□□□□□!!」

 異質なる聲が響いた。どこか優しさを感じさせる子守唄ではない。金属を打ち鳴らしたかのような甲高さ。

 雪に埋もれないよう、無限軌道キャタピラは重量を分散する仕組みになっている。そのせいでうまくつぶせず、たおすまでには至らなかったらしい。


 その聲に従うように、猛禽たちが飛来してくる。頭上の鋼板をがんがんとつつたたく、音と衝撃が響く。


 収納箱トランクボックスから武器を引っ張り出して、聖二と陽彦の手にそれぞれ握らせた。

 三人の首筋に改めて髪を伸ばし、神経繊維を接続する。彼らの生命を奪うのではなく、ともに戦うために。迫りくる脅威を、払いのけるために。


 ドアを開いて飛び出た。未だ眠る三人の両足を私が制御コントロールして、しっかりと雪面を踏み締めさせる。


 雪上車から少し離れた後方――翼が折れたのか、鳥の王は雪上を這いずっていた。その周りに猛禽たちが集い、みなこちらを睨んでいる。


 愛海の体内の攻撃機構が、キチキチと音を立てた。

 聖二の針撃ち長銃に、毒液が静かに満ちる。

 陽彦の握る丸鋸剣がブルルル、と唸った。

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