3話

 暗闇の海で感覚を探る――赤ん坊が最初の呼吸をするように。

 たくさんの何かが私の中に押し寄せてくる。


 初めてのいろ――まぶたの裏に薄っすらと滲む、天井の照明灯。

 初めてのにおい――ベッドに染み付いた、汗と皮脂の臭気。

 初めてのおと――薄明かりの向こうで、もぞもぞと動く誰か。

 初めてのここち――ひんやりとした空気と、身を包む布の質感。


 初めて味わうはずのそれらを、私は言葉にすることができた。

 ごうごうと渦巻く記憶の潮流。九年間の人生。喜びや悲しみ。

 私の名前――砂川深雪いさかわみゆき


 違う、ちがう――全部、私のものじゃない。



※※※



 目が覚める。昨日と同じ天井。同じベッドの柔らかさ。

 昨日と同じぐらいの気温。共同病室に六つ並んだベッド。それらを埋める子どもたち。

 頭に巻かれた包帯のざらざらした手ざわり。その下で、綺麗さっぱりと塞がって消えた手術痕。


 昨日と同じ体、同じ状況——なのにだけが、昨日までのと違っている。


 眠っているあいだにすべてが終わり、始まっていた。



※※※



「つまり今の君は――自分は砂川いさかわ深雪みゆきさんではなく、全く別の自我だというんだね?」

「そう思う」

「うう~……む……」


 移植手術でメスを執り、術後も問診を担当するその男性医師に、ありのまま自分の身に起きている感覚を伝えた。

 昨日までの記憶はある――居住区画での暮らし。号泣する母との別れ。手術台に寝そべった。目が覚めて、男の子と出会った。

 けれどそれら全て、私のものではない。まるで、別の誰かの記憶を納めた写真本アルバムでもめくり見ているかのようだった。


「何をもって自我とするかは難しい話だ。今この瞬間と、一秒後の私は同じ人間か? とか。それは君に限った話ではなく、あらゆる人間に言えることで……」

「もっと直感的な話をしている」

「その……それまで連続していた『自分』がはっきり途切れて、新しい自分が始まったと、そう思っているわけだね?」


 そうだと頷く。手術前の記憶では、その医師はもう少しおおらかそうだったけれど。今は明らかに困惑し、子どもへと向けるべき仮面かおつくろえていない様子だった。


「同じ手術を受けて、私と同じ状態になった人はいないの?」

「実を言うと、君とまるきり同じ手術を受けた人自体がこれまでにいない。脳に細胞を直接注入して腫瘍をやっつけようという試みはこの都市において初めてのことであり、賭けでもあった」

「賭け?」


 命が関わる場において、あまり相応ふさわしくないように思える響き。


「ああ。今の君は自分が人間ではなく、冬獣ニフルスの細胞に由来する存在だと思っているんだったね? 実際、何も起きなければ御の字で、あっという間に脳が侵食されて凶暴化するんじゃないかという懸念はあった。いざという時は大人の狩人が君を制圧できるように今も近くで控えているし、すぐに著明な変化が見られなかったとしても、念のため長期の経過観察と問診を組むことが予定されていた」


 それは、彼女の記憶にもないこと――けれど、伏せておくのも仕方ないと思えた。

 放っておいては助からない病に対する、前例のない治療。

 幼い心を守るため、施術者たちを守るために、仕方なく設けられた黙秘と安全措置なのだろう。


「そしてそれは、完全に正しい懸念だった?」

「いいや、違う。君には冬獣やその細胞に侵されたものに発現するはずの凶暴性は見られず、理性が保たれている。むしろなんだか年齢のわりに大人びているみたいで、我々が危惧したのとは真逆のような振る舞い方だ」


 要するに。医師にとってすら今の状況は想定外ということ。


「元の私に、この身体を返してあげたい。どうすればいい?」

「戸惑う気持ちはよく分かるし、前例がない以上確実にこうだと言ってあげることはできないが。君は急激な思考の変化に晒されたことで、自分がまるで別人のようになったと思い込んでいる、砂川いさかわ深雪みゆきさん本人だろう――というのが、私の学んだ医学の範疇で付けられる説明だ」

「私には、どうしてもそう思えそうにない」


 医師は少し、額に手をやって考えた。


「そうだね。医者としてでなく、一人の人間としては――君の言葉にはもしかしたらその通りなんじゃないかと思わせるぐらいの真剣さと、昨日までとはまるで違った雰囲気がある。それに我々は冬獣の細胞について多くのことを解明できていないまま医術に取り込んでしまっているから、未知の領域はたくさんある」


 途方に暮れるような気持ちだった。彼はきっと自分の常識のなかで、できる限り私の考えに寄り添おうとしてくれている。それでも、埋めがたい断絶が私たちの間にはあった。

 きっとこれから先——私の感覚は、誰にも分かってもらえないのだろう。


「私はこれからどうなる?」

「予後を観察するために、当初の予定よりも更に長めにここにいてもらうだろう。同じ手術を今後、他の子に施してよいか判断するためにもね。その後は訓練を受けて、外で冬獣ニフルスと戦ってもらうことになるはずだ」

「できれば同じ手術を、他の子に受けてほしいとは思わない」

「それも重要な反応フィードバックだ。なぜそう思うのかをよければ聞かせてほしい」

「きっと私が、あの子を食べてしまったから」


 はっとしたような顔をして、医師が一瞬固まる。


「君は――君が、罪の意識を抱いているのかい? それは違うぞ。仮に言うとおり、今の君が昨日までとは別人なのだとして。それをやったのは君ではなく我々だし、それ以外に手段は残されていなかった。我々は命を救うためにベストを尽くした。結果がどうあれ、ここに罪のある人はいない!」


 その言葉には、それまでにはない熱量があった。私を慰めようというだけでなく、その一線は譲れないのだという信念が込められていた。

 きっとそれは彼や彼の生きる世界では正しいことなのだろうけれど、私のなかの直観とは大きく反していた。


「あの子に謝りたい。食べてしまってごめんなさいって。あの子の体も、記憶もあるのに、心だけがどこにもいないの」



※※※



 固まってしまった私を大人の係員スタッフが抱えて、診察室から共同病室へと連れ出した。

 次の子の問診の開始予定を、大幅に過ぎてしまっていたらしい。


 ベッドの上に戻され、ただただ呆然として過ごす。

 広くて寒々しいこの世界に、一人だけ放り出されてしまったような気分だった。


 居住区画で暮らすふつうの人たち。冬獣の細胞を移植された子どもたち。雪原に巣食う怪物たちですら――みな自分とよく似た存在に囲まれて生きている。

 私は違う。人の群れのなかに、ただ一匹まぎれた冬獣のようなものだ。


 生まれてきたことの罪だけが、すぐそばで私とともにある。

 どうすればこれをそそげるの? ――問いかけに答えるものはない。私がそれを殺してしまったのだから。


「どうした、深雪みゆき。また暗い顔してる」

 ふいに声——隣のベッドの少年が、怪訝そうに私を見ていた。


新藤しんどう陽彦はるひこ——」

「悲しいっていうのもあるけど、昨日よりもずっとさみしいって感じの匂いだ。医者せんせいとなんか話したのか?」


 少年は無遠慮にも、私の内心を明かしてしまった――感情を読み取るという優れた嗅覚で、人とそうでないものとの断絶なんておかまいなしに。


「ここに長くいないといけないらしい。だから多分、みんなとは当分お別れ」

 そんな辻褄合わせの理由を答える――ありのままを語って、それを拒絶されるのが怖かった。


「ふうん。それでさみしがってたのか。じゃあさ、深雪がいつか外にでてきたら、おれが組んでやってもいいよ」


 陽彦が何気なく言ったのであろうその言葉に、鮮烈に想起されるものがあった。

 幼い自我が最期に遺した決心——寄り添ってくれた彼に、恩返しができるように。


 記憶に刻まれた語句フレーズを、私の口がなぞる。

「そしたら――


 それを果たせば、いつか彼女の魂を取り戻せるだろうか。あるいはそうでなくとも、罪滅ぼしとなるだろうか。

 いずれにせよ――私がすべきことはこれしかないという、すがり付くような想いがあった。



※※※



「話してくれてありがとう、深雪ちゃん」

 そう言って愛海が私の手を握る――その表情に、拒絶や嫌悪の色がないことにひとまず安堵した。


「怖くないの? 私はみんなとは根本的にちがう。人の姿をした、冬獣ニフルスのようなものなのに」

「深雪ちゃんのことを知っている人なら、誰も怖がったりしませんよ。それに――私はお医者さまじゃないからはっきりしたことは言えないけど、こういう考えです。今の深雪ちゃんは、冬獣ニフルスなんじゃないかって」


 少し意外な答え――もしも愛海が私を受け入れてくれるとして、てっきり人間として肯定するのではないかと思っていた。


「周りの誰かを本能のままに襲いたいと、思ったことはないんでしょう?」

「うん。たぶん、生まれる時にそれをやってしまったから、もう同じことをしたくないんだと思う」

「だとしたらきっと、食べてしまったというその子が、深雪ちゃんをそうしてくれたんです。冬獣の細胞が脳と同化していながら、凶暴になることのない特別な存在に」


 なんだかひどく買いかぶりすぎだし、根拠のないことのように思えた。移植された細胞が脳に影響を与える機序メカニズムは未解明であり、ある日突然私が人を襲いだしても不思議ではないと医師も言っていた。


 けれど――それは私の感覚とも矛盾せず、それでいてなんとなく素敵な考えのように思えた。

 ただ殺してしまったのではなく、彼女のおかげで私はここにいる。今までそんな風に考えたことはなかった。


「話せて少し、楽になりましたか?」

「うん、ありがとう愛海。なにかお礼にできることはある?」

「ふふ。じゃあいつか、わたしの秘密を聞いてください。深雪ちゃんならきっと、受け入れてくれる気がします」


 また意外な言葉――愛海はいつだって素直で、隠しごとなんて一つもないのだと思っていた。

 頷く私ににっこりと微笑んで、愛海は立ち上がった。明日からはまた街の外に出て冬獣と戦う。そろそろ二人とも休むべき頃合いだった。


「おやすみなさい、深雪ちゃん」

「おやすみ、愛海」


 愛海が出ていき、一人になった個室コンパートメントが少し広く感じる。明日は陽彦に謝ろうと心に決めて、薄っぺらい毛布にくるまり瞼を閉じた。

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