8話

 ようやく陽彦も、たのしくなってきた――はじめの方に殴ったあたりが再生しはじめ、またそいつを砕いて遊べるのが嬉しくてたまらない。


「□□……ッ、□□□□□□□———ッ!!」

 潰れた鼻から噴き出す血に、猿の王が溺れかける。灼熱の痛みが鈍く、あるいは鋭く走り、死の実感が迫る。

 なにもかもが噛み合わず、つるつるたちのやることなすことに虚を突かれ、いつの間にか決定的な破滅へと向かっている。

 そこまできて彼はようやく、自分が世界の王でもなんでもない、ただの一匹の獣であったことを思い出した。打ち付けられた右拳に屈強な顎で食らいつき、獣らしくみ千切る。


 手首から先を食われて露出した橈骨と尺骨を、陽彦はこれ幸いと猿の両眼窩に捻じ込み、柔らかな眼球を潰してわらった。痛みを上回る快楽の汁が、脳でしゅわしゅわと弾けて揺れる。


 それから――噛みつきというのはとてもいい攻撃やりかただなと思った。

 ぶち殺す愉しさと滴る血の旨みを、一度に味わうことができる。

 自分にはこの猿なんかよりも、よっぽど鋭くて尖った牙が生え揃っているわけだし。

 どうして今まで拳とか、丸鋸とか、やたらと遠回しな方法ばかりを選んでいたのだろう。


 白銀の毛に覆われた喉元に、牙を突き立てる。じたばたと藻掻もがくさまを、しばらく楽しんだ。

 やがて動きが鈍くなったころ、ひと思いに喰い破ってごくんと飲み込んだ。生温かい血肉は、どこか甘くれたような味がした。


 そうしてぴくりとも動かず、再生もしなくなった猿の顔面を、そういえばこれはかたき討ちでもあったっけと思い出して、残った左の拳でまたガンガン殴りつける。

 砕いて砕いて砕いて砕いて、噴き出した脳みそを、混ぜて混ぜて混ぜて混ぜて――


「陽彦!!」

 聖二の声に、はっとして手を止めた。


 手下の猿たちはとうにその場から逃げ去り、いまだに陽彦だけが、雪にのばされた血と肉のあとみたいな何かと戦っていた。


「少し喋ってみろ。気はしっかりしているか?」

「なにワケのわかんねえことを言ってんだ」

 ぶっきらぼうに返しただけの陽彦の言葉に、聖二は目に見えて安堵したような溜め息をつく。


「それ、もうとっくに死んでいますよ」

 愛海がまた涙ぐんでいた。弄ばれた連中の仇を、自分の手で討ちたかったのだろうか。

 そうではなく、陽彦を見て泣いているのだと、気づくまでに少し時間がかかった。

 息を吸って、脳にこもった熱を冷ますように大きく吐き、それから少しずつ、容貌すがたを人のそれへと戻す。


「あとは僕らがやる。きみは少し、休んでいろ」

 聖二はそう言って、馬乗りしたままだったそれから陽彦を引き剥がし、作業の邪魔にならない場所——今まで戦場となっていた空間の、隅のほうの地べたに座らせた。

 陽彦はされるがままそれに従い、しばし呆然として、三人が獣を解体するのを眺めた。


 普段は陽彦がになっている、そこら中に転がった獣を集めるという力仕事を、神経線維を突き刺してそれ自体に歩かせるやり方で深雪が代行していた。

 じつは彼女にとって、他の生き物の身体を操るのはとても気力を消耗することなので、戦いの最中以外はなるべくやりたがらないはずなのに。


 いつもはもうしばらく作業が進んでからかまを組むのに、聖二と愛海は協力して早々に火をおこし、陽彦にだんを取らせた。

 失われた右手首の断面が緩やかに再生し、肉芽にくがが新たな指を編むのを火にかざして眺めながら、なんかすげえ気を遣われてるな、と陽彦は思った。左手だけでも、手伝える作業はいくらでもあるのに。


 そうしているうちに少しずつ、自分がさっきまでしていたことを思い出してきた。

 冬獣に嬲られて死んだ、狩人たちの仇討ち――違う。いや違いはしないけど、明らかにそれだけじゃなかっただろう。


 いつもよりも少しだけ、理性と獣性の天秤を向こうがわへと傾けた。そうすることで、心の奥に膿んだままの痛みが和らぐような気がして。

 そして、何をした? 拳で顔を殴りまくった、だけじゃない。

 もっとおぞましいことをして、苦痛を与えるのを愉しんでいたんじゃないか?

 あげく獣のように直接喉を喰い破って、口に含むそれをどう感じた?


 

 自分自身の発した言葉が、唐突に跳ね返ってくる。


「おえっ」

 胸のあたりがムカムカして、はらの奥から喉元に、っぱいものが込みあげた。

 目の前の雪に手をついて、血と胃液にまみれた塊を吐き出す。

 溶けかけてちぢれた白銀の毛。ついさっき口に入れたときは甘美にすら思えたはずの、火も通していない皮と肉らしきもの。


 逆流した胃酸に喉や鼻を灼かれつつ、嘔吐しきったことで少しすっきりしたが、今度は涙と鼻水があふれ出し、流れて止まらなくなった。


 狩人のありふれた末路の一つ——冬獣ニフルスのように振る舞うそれに、陽彦は足を踏み入れかけていたのだろう。

 変化はもっと緩やかで、猶予が与えられるものだとばかり思っていたのに。もう一度同じ深さまで堕ちたとしたら、そのまま戻れないかもしれないという実感があった。


 完全に狂うよりも前に、消えなくてはならない――かつて憧れた人はそうしたように。

 仲間たちを引き裂いて、その肉を喰らおうとする前に。仲間たちに、自分を手に掛けさせる前に。


 今までどこか根拠もなく、同じことができると信じていた。けれどいざそのことが現実に迫るとたまらなく身がすくみ、幼い子どもみたいに震えてくる自分がどこまでも情けなかった。


 濡れた顔面を左手でぬぐう。冷え切ったそれを、にわかに柔らかさが包みこんだ。深雪が陽彦の目線に合わせて屈み、手をぎゅっと握って、己の体温を分け与えようとしていた。


「おれから離れろ」

 そう絞り出した言葉を深雪は聞き入れず、曇りのない双眸でじっと見つめてくる。


 自分自身の正気すら、信じられなくなった陽彦に代わって。あなたはまだ大丈夫、私があなたを信じていると、その手の温もりが何よりも確かに語っていた。

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