第二章

1話

 目が覚めると知らない天井があって、そこはベッドの上でした。

 どこか肌寒く、同じようなベッドがわたしのものと合わせて六つ並ぶ部屋です。寝息を立てる同じ年ごろの男の子や女の子たちが、その全てを埋めていました。


 頭に巻かれた包帯のざらざらした手ざわりに触れて、それでわたしは、眠っているあいだに手術が終わり、もう二度と元のところに戻れないんだ、ということを実感しました。


 最後のお別れをするあいだ、おかあさんはずっとわたしを抱きしめながら、謝り続けていました。健康に産んであげられなくてごめんね、と。


 わたしの脳には悪いできものがあって、かつての医学では無事に取り除くことができなかったそうです。けれど今この時代には、昔あった多くの豊かさが失われたかわりに、あらゆる傷を治すことのできる魔法みたいな技術があります。


 記録に残っているかぎりにおいて、今はまさに最悪の世だと言われているようですが、わたしに限っては、この時代に生まれてきたことが幸運でした。おとうさんがわたしを慰めて、勇気づけるためによく言っていたことです。


 大好きなおかあさんに泣いてほしくなくて、わたしはその言葉を借りました。

 大丈夫だよ。この時代に産んでくれてありがとう、って。


 そのときは見ないふりをしていた『これから』のことがいま、ふいに浮かんできました。冬獣ニフルスの細胞を入れられた子は、外に出て戦わなくてはいけないのです。それでも脳の中のできものを放っておくよりは、ずっと長生きできるだろうという話でしたが。


 涙が出そうになって、それをなんとかこらえました。ここにいる他の子たちはおそらくみんな、体に悪い部分もないのに同じような手術を受けた、本当にただただ不幸な子たちです。

 その子たちを差しおいて、幸運なわたしが泣くわけにはいきません。


 そんなことを考えていると。

「なあ、泣かないの?」

 となりのベッドからそう声がかかって、そちらへと振り向きました。


 短い髪をつんと逆立てた男の子が、目を覚ましていました。

 年はわたしと同じか、少し下ぐらいでしょうか。


 しぐさや顔に弱気がでていたのだろうかと、顔をんだり、首をふるふる振ったりして気持ちをすこし落ちつけ、つくり笑顔を見せようとしました。けれど。


「おれ、匂いで気持ちがちょっとわかるんだ。オオカミの細胞を入れたんだってさ」

 と、男の子はわたしの無理を見透かして言いました。


 それでわたしは――本当はこんなふうに思うのも良くないことだと分かっているけれど、少しだけ――むっとしてしまいました。どうしてこの子はわたしが隠そうとしていることを、わざわざ明かしてしまうんだろうと。


「泣いたらちょっとだけ、すっきりするんだよ。おれはそうだった。だからおまえもそうしたらいいのに」


 口調からいじわるとかではなく、気づかいのつもりでそう言っていることはなんとなく伝わってきました。ただ、その子はやっぱりわたしより――たぶん年というよりも、心がすこし幼くて、言い方がちょっと乱暴です。


「おまえって呼ぶのをやめて。わたし、砂川いさかわ深雪みゆきっていいます。九才です。あなたは?」

新藤しんどう陽彦はるひこ。八才。としが上だからガマンしてんの? あっちのやつは、十一ジューイチだけど泣いてたよ」


 と、向かいのベッドで寝ている子のきっとあまり知られたくないであろうことまで、勝手に喋ってしまいました。

 このままでは他人ひとの秘密をばらす会の参加者にされてしまいそうで、わたしは仕方なく、正直に話すことにしました。


「わたしね、病気を治すために手術を受けたの。陽彦くんやここにいる子たちはたぶん、違うでしょ?」

「うん。おれはくじで選ばれたらしいし、みんなもそうだと思う」

「みんなは不幸だからここにいるけど、わたしは治らないはずの病気が治って、幸運だからここにいるの。だから、わたしは周りのみんなよりも悲しんじゃいけないの」

「ふうん、変なの。くじに当たったのが不幸ていうんなら、病気になったのだって不幸じゃんか」

「それは……」


 そうだけれど。でも突然選ばれてしまった子たちよりも、わたしはもっと早くから手術を予告されて、気持ちをととのえることができていました。だからやっぱり、わたしは悲しんじゃいけません。

 そのことをどう話せばうまく伝わるだろうかと、考えこむわたしに。


「みんないっしょだよ」

 と、陽彦くんは言いました。


「化けモンと戦わされるなんてこわいし、もう二度と、父さんや母さんに会えないなんてさみしいよ」

 わたしの心の、なにかをせき止めている部分を、先のまるい棒でつつかれているみたいでした。

 もうそれ以上はやめてほしいという気持ちと、聞かせてほしいという真逆の気持ちがからみあって、言葉が返せません。


「ちょっと違ってても、深雪の悲しい気持ち、ここにいるみんなは分かってるよ」

 その言葉でとうとう、わたしはこらえきれなくなって、目から涙があふれ出しました。

 けれどそれは悲しさだけでなく、胸の奥からじんわりと、脈打って広がるなにかと混ざって流れ出たものです。


 わたしは幸運だから。その言葉はわたしをつなぎ止めてくれた代わりに、いつの間にか心をかたく強くしばっていたのでしょう。

 自分の弱い部分を、さらけ出してはいけないと。


 陽彦くんはそれをほどいて、けれどそのまま吹き飛んでしまわないように、いつのまにか近くにいて、泣きじゃくるわたしの手を握ってくれていました。

 壊れやすい硝子がらす細工さいくにでもれるみたいなやさしさで。周りの子たちが起きだして、わたしたちを見ているのも気にせずに。


 ごはんを食べて、検診を受けて、ほかの子たちとも自己紹介をして。その日の終わり、となりのベッドで寝息を立てはじめた陽彦くんの横顔をうす明かりの下で見つめながら。

 つくり笑いでなく、自然に笑みがこぼれるのを自覚して、ひとつの決心をしました。


 寄り添ってくれた彼に、恩返しができるように。

 強い狩人になって、きっとわたしが陽彦くんのことを守ってあげるのです。


 これからの運命と、わたしの中に入りこんだ細胞をはじめて本当に受け入れて――まぶたを閉じ、わたしはまた眠りへと落ちていきました。



※※※



 個室コンパートメントの見慣れた天井。ベッド上で仰向あおむく体。

 もうずっと、繰り返し見てきた夢からの覚醒めざめ


 姿見すがたみの鏡を見る――他に欲しい物のなかった私にとって唯一ゆいいつ必要で、大枚をはたいて交換した貴重なもの。

 起きてすぐ、そこに映るものに祈りを捧げられるように。


 黒曜石めいた瞳。つややかな黒髪。面影を残しつつ、あの頃と比べてずいぶん大人びた顔立ち。

 失われてしまったもの――自然な笑み。涙。それらを司る、彼女本来の魂。

 私が食い殺し、そのまますべてを奪ってしまった女の子。砂川深雪の、不自然に歪んだ十七歳の姿。


 その最後に残った願いを反復する。私は今、陽彦のことをちゃんと守れている?

 返事はない。曇りのない瞳は私にめもゆるしも与えはせず、ただただ疑問を跳ね返すばかりだった。

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