5話

 硝子ガラスのない窓枠からそっと顔を出して、中の様子を覗く——いきなり猿と目が合って、陽彦は顔を引っ込めた。

 一瞬前まで頭があった場所を、凶悪な鈎爪が通り抜ける。その左腕を陽彦は掴んで、勢いよく振り回スウィングした。

 壁に頭を衝突させて猿がうめく。そのまま窓の外へと引っ張り出し、雪面に背中から叩きつけ、とどめを刺すべく丸鋸剣を回転させた。


「■■■■■■■———————ッ!!」

 瀬戸際に大きな叫びをあげつつ、猿が首を切断された。恐怖や怒りの色も含まれていたが、感情の発散のためだけでなくどこか意図を感じさせる声だった。


「敵が来たら知らせろって命令されていたんだろう。きっと王がいるぞ」

 聖二が皆に注意を呼びかける。

「命令がなくたって、それぐらいするんじゃねえのか?」

「多分しない。冬獣やつらは王のためという場合を除いて、利他とか協調とかいったことを理解できないんだ。生まれたばかりの自分の赤子すら食い殺すんだぞ」

「ほんと、クソみてえな生物だな」


 ぼやきつつ再度窓枠の向こうに顔を出し、今度こそ敵がいないのを確認した陽彦がさんを跨いで、三人もそれに続いた。

 凍った窓がり硝子のように外からの光をぼやけさせており、長い廊下の端から端までを薄暗さが満たしている。ぼろぼろに劣化した壁や床は崩れかけ、あちこちに冬獣の爪跡や、乾いた血の跡が残っていた。


 超聴力に頼るまでもなく、天井から何かが動く音と振動が響く。

「上の階だね」

 聖二が目ざとく階段を見つけて指さす。深雪が昇りの段差に足をかけた。

 その瞬間、上階で待ち構えていた猿が、落下しながら襲い掛かってくる。


「■■■■■■————ッ!?」

 先読みして張られていた髪のネットがそれを受け止め、速やかに絞め殺す。深雪は一瞥すらくれずに、絞死体を髪に取り込んだ。


 階段を昇りきった先——下階と同様に伸びる廊下の薄暗闇うすくらやみに何匹かの猿が潜み、四人の方をじっと睨んでいるのが見える。

 奥で開いたままの扉から、それは姿を現した。


 他の猿の灰色とは明らかに違う、白銀の毛並み。鈎爪はなく、異様に長い手足。群れの王であると、皆が一目ひとめで直感する。長い掛けひものついたポーチが、肩から袈裟懸けに吊られている。

 その猿の王はニタリと醜悪に笑い、両腕を突き出した。その先には、二挺の巨大な拳銃が握られていた。


「伏せろ!」

 聖二が叫ぶ。猿の長い指が引き金を引き、がおんっ、と吠えるような破裂音が二つ重なって響いた。硝煙がまるで煙幕のように広がる。

 放たれた二発の弾丸のうち一発は、とっさに屈んだ陽彦の頭上を通り、少し後ろで壁を粉砕した。

 もう一発の弾丸は、深雪が盾として突き出した猿の死骸とそれに絡まる毛髪を爆ぜ飛ばし、その場の血の霧を漂わせた。


「□□□□□□□□————」

 同時射撃の強すぎる反動に背中から転げつつ、猿の王は愉快そうにケタケタと笑う。

「くそったれが」

 陽彦が悪態づいた。急所に喰らえば再生する間もなく即死するであろう大威力。あれは間違いなく冬獣ニフルス狩りのための、狩人の武器だ。


 手下の猿たちが襲い掛かってくる。分離させた双子の丸鋸を陽彦が振り回し、一体、二体と斬り裂いた。そうしている間に起き上がった猿の王は二挺の巨大拳銃を再び構える。狭い廊下で乱射されれば、回避もままならない。


 それよりも早く、聖二の長銃が八連発の毒針を射出した。回避が容易でないのは双方にとって同じことであり、猿の王は身をよじるが避けきれず、胸部を庇った右腕に針が突き刺さった。


 超視力で命中を見届けた聖二が勝利を確信するのとほぼ同時に、吠えるような銃声が再び響いた。

 猿の王の右腕が拳銃を握ったまま付け根から吹き飛び、ぎゃくの手の銃口から硝煙が上がっていた。全身に毒が回る前に自ら撃ち、傷部を切り離したのだ。


 銃口が横を向き、放たれた弾丸が近くの窓を粉砕する。

「□□□□□□□□□□□!!」

 猿の王はそこから飛び出す。去り際のこえによって何らかの指示——おそらく足止めの命令を受けた、残り三匹の猿たちが突進してくる。

 愛海が前に出て、突き出された鈎爪を全てその身に受けた。


「■■■■■■!! ———————■■■……?」

 肉を貫く確かな手ごたえに、猿たちはぬか喜びする。しかしすぐに、串刺しにされたはずの愛海が平然としていること、刺し込んだ鈎爪が抜けないことに気づいて狼狽えた。

 より深く鈎爪が刺さっていくことも厭わず愛海は三匹をまとめて抱きしめ、お返しとばかりに全身から生やした杭で穿ち、そのまま血を吸い尽くして絶命させた。


 干からびた死骸を愛海が杭から抜き、床に転がったそれを深雪の髪がさらうように取り込んだ。ひとまずの脅威が去ったことに、聖二がふう、と安堵のため息をついた。


「頭のいいやつだ。毒を察してすぐ自分を撃つなんて」

「あっさり逃げられた。怒って向かってくればいいのに」

「あの銃、どこから手に入れたんでしょう?」

 聖二、深雪、愛海がそれぞれの所感を述べる中、

「なんかいるぜ」

 陽彦はまだ、感覚を研ぎ澄ませていた。


 はじめに猿の王が出てきた扉の奥から、何かが這いずる音がかすかに聴こえてくる。

 遅れてそれは廊下へと出てきた。みなが警戒し、やがてその正体に気づいて、愛海がひっ、と声を上げた。


 狼と人を混ぜたような姿から、陽彦と同種か近縁種の細胞を移植された者であることが察せられた。停められていた雪上車の、乗員のうちの一人だろう。瘦せ細った体は傷だらけで、一部が腐り出している。栄養状態が悪く、傷の再生が追い付いていないのだ。

 奇跡的に生きていたそれはしかし、もう手遅れであることが明白に見て取れた。


「ぁ……オ、れ……■■■■■■■■■……」

 荷箱コンテナに積んだ肉をたらふく食わせてやれば、体の傷は今からでも癒えるかもしれない。しかしその精神をかたど脳神経ニューロンが、冬獣ニフルスの細胞によって既に不可逆なほど侵食されている。


 たとえ、戦いを生き延びたとしても。細胞に頼りすぎた者、過酷な状況の負荷ストレスに晒され続けた者は人の心を保てず、冬獣そのもののようになってしまう。敵味方の区別すらつかず、本能のままに食らい合う怪物に。


「おまえ、仲間はどうした?」

 陽彦が尋ねる。それの眼にほんのひととき、人としての正気が戻ったような気がした。

「なか……ま、オれが、食ッ、ぁぁぁぁああ■■■■■■■!!」

 残された最後の力を振り絞って、それは飛び掛かってきた。ほぼ万全の四人からすれば、あまりにも緩慢に。

 しくじりなく一撃で終わりを与えてやれるよう、陽彦は両手の丸鋸を繋げなおし、破壊力のある連結形態として構える。他の者にさせるわけにはいかないことだった。


「ごめんな、嫌なこと思い出させちまって」

 胸に突っかえる最悪の心地に反して、自分でも驚くほど穏やかな声が発せられた。唸りをあげる殺戮機構がわにの口のようにそれを呑み込み、あたりに盛大な血を撒き散らしながら、両断して吐き出す。

 四人を残して、その場から生の気配が消え失せた。


 猿の王の開けた窓の穴から、冷たい風が吹き込んでくる。陽彦はそこまで歩み、外を見た。吹き飛んだ右腕の傷から流れたのであろう血液によって雪に一筋の線が描かれ、再生が始まったのかすぐに途切れている。

 陽彦の嗅覚ならば、そこから先も問題なく追える。しかし今すぐに飛び出したい衝動を抑え、三人の方を振り向いた。


「いまの人、なんであんな……」

 呆然とした様子で愛海が呟く。ほか二人も神妙な面持ちをしているが、彼女ほどのショックは受けていないようだった。


「珍しくもねえだろ、狂っちまうやつなんて」

「そうじゃ、なくって……なんであんなふうになって、まだ生きていたんです?」

「ああ、そっちか」

 言わんとすることが陽彦にも伝わった。単なる戦いの中では普通、あのようにボロボロにならない。そうなる前に食われて死ぬはずだ。


なぶられたんだろうな、あえてとどめを刺されずに」

 聖二が推測する。陽彦も同意見だった。


「そんなこと、なんのために……?」

「きっと、ただの遊び」

 今度は深雪が答えた。冬獣の王たちは賢く、それゆえにただ獲物を食い殺すだけの手下たちよりもよほど残虐なことがある。

 三人は経験則でなんとなくそれを分かっているが、愛海はまだ知らなかったのだろう。


「仲間を食ったみたく言ってたけど、のかもな」

「そんなの……あんまりですよ」

 陽彦のその言葉に、いよいよ愛海は涙をこぼしてしまった。普段から冬獣ニフルスたちと殺し合って血肉を喰らっているのだから、この手の話にも免疫があると思っていたのだが。心の柔らかい部分を、思いがけず抉られたようだった。


「悪い、泣かせちまう気はなかった」

「いえ、あの、びっくりしちゃって……」

「仇を取ってやろう。僕らにしてやれるのはそれぐらいだ」

 そこに正義があるという、確信を込めて聖二が言った。

 愛海がこくりと頷く。その肩を抱く深雪は無表情のままだったが、悲しみに寄り添おうとする感情が匂いにあらわれていた。


手長猿テナガザルが。ぶっ殺してやる」

 陽彦を駆り立てるそれは正義でも悲しみでもなく、怒りだった。


 調子に乗った猿の王。言いなりになって戦う手下たち。

 狩人を戦いへと送り出し、安全圏でのうのうと暮らす円蓋ドームの一般市民たち。

 もう少し早く来ていれば、助けられたかもしれない自分自身。

 あらゆるものに対して、陽彦は怒っていた。

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