2話

 登り出した朝日に目がくらむ。停まった雪上車の側面に背を預け、手でひさしを作りながら、陽彦は咥え煙草を吸い込んだ。

 重ったるい煙が肺を満たし、体中に酸素を巡らせるはずの赤血球と結びついて、心地のよい欠乏感にさいなまれる。


 ふーっ、と深く吐き出すと、脳みそに詰めこんでいた気だるさが氷点下マイナス15℃の晴れ渡った空にほどけていった。

 空っぽになった頭に、代わりとばかりに淡くて依存的な多幸感ニコチンが流れこむ。


 かつては煙草これに大げさな憧れを抱いていたことを、陽彦はふと思い出した。年上たちがいかにもうまそうに吸うのを見ていると、それだけで世の中のかったるいことがすべて帳消しになるんじゃないかと思えて。


 十三ぐらいで初めて自分で吸ってみたとき、そんな幻想は柔らかに打ち砕かれた。『まあこんなもんか』と色褪せた感情を胸にそれきりにすれば良かったのに、なぜか未だにやめられず隙あらばスパスパと吹かしており、おかげで珍しくほかに喫煙者がいない今の猟団パーティでは、少し肩身の狭い思いをしている。

 ポケットから細長い筒——携帯灰皿を取り出す。蓋を開け、押し付けて消火し、そのまま吸い殻を納めた。


 少し離れたところでは、聖二が雪の上に煉瓦レンガを敷いて焚火たきびおこし、何やら神妙な面持ちで小さな鍋をかき混ぜている。料理とかいう旧世代の真似事が、真面目くさって酒も煙草も嗜まない聖二の数少ない生きがいのようだった。


「味見をしてみないか」

 陽彦からの視線に気づいた聖二が、深めのわんに鍋の中身をよそい、さじとともに差し出してくる。

 受け取って覗くと、黄色みがかったスープに肉を丸めたと思しき団子が沈んでいた。

 汁をすすると、かんばしいとはいえない獣くささが口いっぱいに広がる。


「嫌な匂いのついたお湯、って感じだ」

「肉団子の出来はどうだ?」

「うーん……もっさもさする。餓死寸前とかなら食いたいかもな」

 陽彦が忌憚なく述べると、聖二は肩を落としてみせた。


「言い方がいちいち手厳しくないか? 結構時間をかけて叩いたり丸めたりしたんだけどな、それ」

「肉なんて、焼いて齧りつきゃあ十分だろ」

「それはそれで楽しいけどね。手によりをかけて作った、温かくておいしい食事、みたいなのに憧れるじゃないか」

「ふうん」


 聖二が求めているのはうまい飯そのものでなく、工夫を凝らすとか気持ちを込めるとかいった過程であろうことは、陽彦にも理解できた。

 気持ちは分かるけど、難儀なやつだなとも思う。自分のように、配給や物々交換で手に入る手軽インスタントな刺激で満足できればいいのに。


『——安楽死制度の利用申請数が、過去最大を記録しており――』

 聖二が傍らに置いたラジオからは、ノイズ交じりのニュースが流れていた。何となく意識が向いて、電波の発信源の方向を見やる。


 直径五〇〇メートルにも及ぶ巨大な硝子ガラス張りの円蓋ドームが雪原のど真ん中に鎮座し、その周囲には陽彦たちが乗るのと同じような荷箱コンテナ付きの雪上車が、十数台も停まっている。


 かつて札幌サッポロと呼ばれていた場所に建つ、あれが陽彦たちの拠点都市だった。とはいえ、あのやたら目につく円蓋ドーム部分はあくまで象徴シンボル的な意味合いと、住民たちがビタミン欠乏症を防ぐために訪れる日光浴場としての役割しか担っていない。

 五万人の一般市民が暮らす居住区画や、食糧を生産する自動工場、五百名ほどの狩人が出入りして休憩や物資のやりとりをする区画などは、地下に掘られたより広大な空間に収まっている。


 一九八〇年代から始まり、およそ百年が経った今なお続く寒冷化現象『厳冬フィンブルヴェト』の影響によって、かつて五十億にも及んだという地球総人口は大きく減少し、文明はひどく衰退していた。残された居住可能地は、ここを含めておそらくもう数えるほどだろう。

 あるいはこの場所こそが既に、人類に残された最後の砦なのかもしれなかった。海の向こうとの交流は途絶えて久しく、まだ滅びていないかどうかさえも定かでない。


「お、動いたぞ」

 と、聖二が円蓋ドーム近くを指さす。雪上車のうちの一台が発進し、そのまますっと姿を消した。夜から朝にかけて冬獣の侵入を防ぐために封鎖されていた、地下へと続く出入り口が開放されたのだ。


「早いとこシャワーを浴びてえな」

「僕ももう、一刻も早くベッドで寝たいよ」

 そんな愚痴をこぼし合いながら、聖二は自分の椀によそったスープを急いで飲み干す。料理なんかを試みるくせに、彼自身は味にも熱さにも無頓着だった。分泌され続ける毒液のせいで、口の中の神経がめちゃくちゃに狂っているらしい。


 小鍋やら煉瓦やらをせっせと片付けて、二人は雪上車へと乗り込んだ。

 後部の座席では深雪と愛海が、揃って浅い寝息を立てている。


「うう~……ん。お母さんは……ご飯じゃありませんよぉ……」

 素っ頓狂な寝言をあげる愛海に、起きている二人は思わず笑った。

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