第2話


 スクランブル交差点には相変わらず阿保のように人が群がっていた。庭の石を持ち上げたときに虫がむわっと沸いた、あの感覚に似た不快感を覚える。人間とは愚かな生き物である。人混みは人間を苛立たせるが、しかし同時に安寧を与える。元来人は孤独である。ただそれを感じることができるのでは、周りに多くの人間がいるときだけである。そしてその孤独は、安らぎをもたらす。


 目当ての人間を探すのにさほど苦労はしなかった。伊原陽一郎はそれほどの群衆の中にいても燦然と、存在をアピールするだけの人物であった。黒のスラックスに、カーキのシャツ。シンプルな服装であったが、そのシンプルさがかえって素材を際立たせている。


「別に、そんなに恥ずかしい夢ってわけでもないだろう、医者ってやつは」


 開口一番、陽一郎は不敵な笑みを浮かべた。それは、高校の学園祭の開会式で、生徒会長であった陽一郎が体育館に登壇したときとまったく同じ表情であった。


「当時やってた医療ドラマの影響だ。夢だなんて言えた代物じゃあない。それに、お前の方が大概だろう。世界を変える人間になる。小学生ってのはもっとかわいいもんだ、普通はな」


 陽一郎はそれには答えず、隣に目をやった。僕は陽一郎の左右にいる女たちの存在に気が付いていながら、あえて目線をやらなかった。


「相変わらずシケた面ね、あんたは。昔とこれっぽっちも変わってないじゃない。まあ、予想はついてたけど」


 花村凛は僕たちの会話が小学校の卒業文集についてのことだと知っている。彼女は特別記憶力の良い人間であった。彼女はこれまでに僕が晒してきた醜態の数々を、おそらく僕以上に把握している。それは僕にとって不都合な想像であった。


「まぁ~こんなところで立ち話もなんだしさ、お店行こうよ。予約してあるんでしょ?」


 身長は陽一郎より三十センチは低いと思われる、椿結が変声期前の中学生のごとく甘ったるい声を出す。三人の中で、椿の見た目だけはまるで当時の印象そのままであった。こいつ、一人で居酒屋に入れるのだろうか。


 会長が陽一郎、副会長の花村、書記の椿、そして名ばかりの役職の議長、僕。この場に、田舎の出来の悪い中学の生徒会のメンバーが揃ったことになる。ただ一人、この場に、正確にはこの世にいない人間を除いて。


 陽一郎はついてこい、という風に手をやると、ポケットに手をやって歩き出した。109を少し過ぎ、道玄坂を右折したところにあるスペインバルに迷うことなく入っていった。店内はそれなりに盛況で、並んでいる人間もいたが、僕たちは上の階の個室へ通された。陽一郎の同級生がかつてアルバイトをしていた店ということであった。

 

 完全に密室というわけではないが、腰から上は仕切りで隠され、周囲とは独立した空間になった。スペインバルといえば仕切りどころか肘と肘が衝突する立ち飲みのイメージであったが、どうやら違ったようだ。僕は自分の知見の範囲が一般の二十代と比較して著しく狭いことを改めて自覚した。


 陽一郎の隣に花村が座り、僕の隣に椿が座った。注文を取りに来た店員に、陽一郎がビールを四つ頼んだ。女性陣二人に対して、ビールが飲めるか否か陽一郎が確認しないはずがなかった。二人がビールを飲めることを知っている、つまり僕以外の三人は少なくとも幾度かは会っているということになる。


 数秒の沈黙を破ったの陽一郎であった。


「十年ぶりだな、この四人で会うのは」

「十年前? なんかあったか、そんな集まり」

「あんた、本当に物覚えが悪いわね、卒業式の日の夜。陽一郎の家で集まったじゃない」

「ああ、あったかもな。そんなことも」


 陽一郎の実家のことは覚えている。二百平米はあろうかという立地に屹立した三階建ての白塗りの家であった。土日に行けば、三台駐車可能なガレージには黒のベンツのセダンとフォルクスワーゲン青いSUVがショーウィンドウのように整然と並べられていた。花村の言う通り物覚えの悪い僕であるが、陽一郎の実家が開業医で、世間一般では金持ちの部類に該当するということくらいわかっていたし、覚えてもいた。


「遥、お前が言い出したんだあの日は。普段自分からは一切誘わない癖に、最後くらい皆で集まらないかって。まー珍しいこともあるもんだと思っていたら、どうだ。それっきり、会うどころか連絡さえよこさない。挙句の果てに連絡先は削除、SNSも辞めた。まあ、お前らしいといえばお前らしいけどな」


 それから、以外にも昔話に花が咲いた。三人は昔の僕の素性を知る数少ない人物であった。それゆえに、久し振りの再開にもかかわらず遠慮というものが一切ない。


 花村はそのおしとやかな見た目とは裏腹に、高圧的な態度で僕のことを道端の虫程度の扱いをしてくる。花村の話の中の僕は、既に人を二、三人は殺めている大悪党である。椿は中学時代の僕の物真似をすると言い出し、声を低くした。声こそまるで似ていないが、口調は僕のそれに似ている気がした。ただ、それは今の僕の口調をまねただけで、昔の僕の物真似だとすると正しくないような気がした。


 そう指摘すると、

「つまり、あんたは昔からおんなじ口調なのよ。ずっと斜に構えて、すかしてんの。馬鹿みたいにね。かっこなんかつけたって、何にもいいことなんてありゃしないのよ」


 突然花村が首を突っ込んできて必死でそう主張するので、僕は思わず吹き出してしまった。そうそう、こいつはこういう奴であった。見た目もよく器量もいいが、へらへらとしている人間を見ると何か言わないと気が済まない。花村は非効率的な人間が嫌いであった。それが能力に起因する非効率であれば特に興味も示さない。ただ、


「あんたはさ。本当に昔から愚かなの。いくら嫌いな教師だからって、わざと白紙で提出してゼロ点をとるだなんて、本当に頭がおかしい。だったら堂々と満点とって、胸をはっておけばいいのよ」


 二杯目を飲み終えるころになると花村はさらにヒートアップした。丸十年、僕らの間には空白の期間があるという事実がにわかには信じられないほどに。とは言っても、花村の話の七、八割は僕の忘れている出来事であった。そして決まって、それは僕の格好いいかつての姿ではなく、愚かで斜に構え、中二病をこじらせた醜い少年の姿であった。もはや、彼女の口から聞く僕の人間像は、僕本人が聞いてもとうてい自分だとは思えないような誰かになっていた。


 そして僕は思い出していた。そう、昔もこうだった。僕と花村は致命的に相性が悪かった。僕に対する花村のヒステリックも大概ではあるが、原因はほとんど僕の方にあった。なにかにつけて僕が花村を煽り、煽り耐性の低いお嬢様・花村が激高する、それを椿がなだめながら同時に僕を咎める。陽一郎はそんな周囲の喧騒などどこ吹く風で、図書館で誰も借りていない三島由紀夫全集を読んでいる。


 それが、十年前の僕たちの生徒会室の日常であった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

それが、 厭世 夏坂 @Umur

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る