第11話 彼女の本心

 エニグマとシグマが帰った後のこと、ソファに座る百合の隣で難しい表情をした玲が「はあ」と小さく溜息を吐いた。


「お嬢、よろしかったのですか? あんなことを言って」


「あんなこと、とは?」


「惚けないでください」


 笑顔で振り切ろうとした百合に、ぴしゃりと厳しい口調で一言浴びせて逃がさない。長年付き合いのある玲には、百合が嘘を吐いていることくらいお見通しだったのだ。


「お嬢、あの男のことが好きだと言う話……。どう見ても、表情がドス黒い嘘一色に染まっていましたよ」


「何を言っているのか……。私は確かに、あの人のことを好きになりました。私が夢の為に暴走したことを肯定し、受け止めてくださったのですから」


「……まあ、百嘘ではないにしてもです。そっちは建前で、本当の理由は違うのでしょう? 早く言ってしまわれた方が楽になれますよ?」


 ずっと鉄壁の笑顔を崩すことなく話を続けていた百合だったが、ここにきて笑顔に若干のヒビが入ったかのような不自然さが表に現れた。しかし、それでも笑顔を絶やすようなことはせず、悲しそうに微笑みながら呟くように声を発した。


「……敵いませんね、フジには。確かに、これ以上は隠しても無駄のようですし……。正直に話しましょう」


 百合は溜息か、あるいは嘆息だったか、あるいはどちらでもないような曖昧な呼吸を何度か置き、俯きながら本当のことを白状した。


「私がエニグマさん……いえ、翔さんを好きだと言った本当の理由は……。取って代わるものが欲しかったんです」


 今、さり気なくエニグマの本名を下の名で呼んだことは玲の中で少し引っかかったが、表情に出すことはせずに聞き返す。


「取って、代わるもの?」


「ええ。人は弱い生き物です。それは、人が持つ力の強い、弱いなどではなく、人の心は皆等しく弱いという意味です。例えば、私やフジ、翔さんや澪さんのような異能力者であってもです」


「そうですか? 私はそうは思いませんけどね。私たちはこれから、強大な敵に立ち向かおうというのです。心が強く無くて、どう立ち向かうと言うのでしょう?」


「ふふ、それは力の使い道がはっきりしているからでしょう? 強大な敵を一掃できるような力を持とうと、使うべき場面、使いたい場面、使わなければならない場面が存在しなければ意味を為さない。私たちは生き残るために、異能力を振るおうとしています。だからこそ、強く逞しくいられるのです」


「では、それと先ほどの話に何の関係が?」


「大ありですよ。あくまでも異能力は生き延びるための手段でしかなく、生きていくための手段ではありません。少なくとも、私にとってはですが……。ですから、私から異能力を取り払ったら何も残らないのでしょう。理不尽に与えられた欲しくもない力……。これが無ければ今頃は、女優になるために日々努力を惜しむことはなかったでしょう。私が女優を目指したいと思ったのは、この世界で生きていくためです。魚は水に住み、鳥は空に場所を求め、そして人は自身が望む環境に身を置くことで生きることを実感できる。その居場所が、私にとってはあの世界だった……」


「お嬢……。やっぱり、諦めてなどいないのですね?」


「当たり前です!」


 初めて彼女の本心が感情として現れたのか、部屋中に大きな怒鳴り声を響かせる。だが、まだ体の調子が万全でないらしく「ごほっ、ごほっ!」とせき込んでしまう。


「お嬢、無茶しないでください。まだ、万全ではないのですから」


「……ごめんなさい、ありがとう。ですが、私は女優の夢をまだ諦めきれていません。どうしても、またなりたいと渇望してしまう……。だって、昔からの夢なんですから」


「それなら猶更、あのような嘘を吐くなど……」


「そうでもしないと! 私は、正気を保てそうになかったんです。顔がバレ、追われる身となった今、私が女優を目指すのは難しいでしょう。言うなれば、翼を失った鳥のようなものです。だからこそ、私には元の翼を取り戻すまでの間、替えの翼が必要でした」


「それが、彼だと?」


「ええ。だって、手の届かない御仁を射止める努力をしていれば、その間だけは生きているような実感を得られるでしょうし」


「そういうことですか……」


(全く、お嬢は本当に面倒なお方だ。自分の身だけでなく、私のことも守ろうとしている。私に遠慮しているからこそ、自分の夢を捨てようとした……)


 ただ、今の状況はまだマシな方だとも玲は思った。もしもこのような機会がなければ、百合が本気で命を絶つということをしていたかもしれなかったからだ。


(お嬢に限って、自分の命を捨てるような真似は……。いや、するかもしれない。私や、その周囲の人間を守れるのなら、躊躇わずに)


 玲は、今度は大きな溜息を心の中で吐いて、ついでに「面倒なお方だ」という言葉も押し殺しておいた。彼女は既に、百合のためなら命も捧げる覚悟をとっくの昔に済ませていたからだ。


 追われる身になると知りながらも、研究所から彼女を逃がしたそのときから。


「……お嬢、もしも連れ去られたときのことを気に病んでおられるのでしたら……」


「気に病んでなどいません。あれは、私のせいです。フジ、あなたには最初から止められていました。テレビで顔出しなどすれば、絶対に彼らに居場所を探知されると。ですから、今までは声だけ、あるいは顔を隠した出演のみをお受けしてきた」


「それこそ、私のせいでしょう。あのとき、無理にでもお嬢を止めていれば良かったのです。まさか、あんなにも早く追ってが現れるとは思っていませんでしたから」


 玲が思い出していたのは、去年のテレビ出演後のスタジオでの出来事だ。テレビの生放送を終えて玲と百合は控室に戻ってきて、お互いに喜びを分かち合っていた。


『フジ、やりました! とうとう、テレビの生放送に出演してしまいました!』


 百合は両手を胸の前に持ってきて小さくガッツポーズを取りつつも、念願の夢に大きな一歩を踏み出せたことに対する喜びのあまり子供のようにぴょんぴょんと飛び跳ねた。今まで見たことないくらいの大輪の花を咲かせた彼女に、釣られて玲も小さく微笑んでしまう。


『……ええ、そうですね。もしも、運よくバレることがなければ……ですけど。きっと、これからもっと大きな役を貰える機会が増えると思います』


 しかし、今はただでさえも追われる身、ここでバレてしまっては全てが台無しになってしまうので浮かれてばかりもいられない。玲は表情を引き締め直し、姿勢をピシャリと正した。


『言わば、ここが正念場です。私が、責任をもってお守りします』


『お願いね、フジ。ああ、私ちょっとトイレに行ってくる』


『では、私も一緒に……』


『すぐそこだから、大丈夫。帰ったら、祝杯をあげましょう!』


 そう言って彼女が出て行ったきり、いつまで経っても戻って来ることはなかった。玲は慌てて百合を追ってトイレに向かったが、そこは既にもぬけの殻……。


 後になって、百合を攫ったのは影を媒介にした敵異能力者であることが分かり、その人物とは三ヶ月後に殺し合いをして勝つことになるが……。彼はただの運び屋で、依頼主のことも、百合の行方についても知らなかった。


 結局、百合の行方については分からず終いとなって、そこからの手掛かりはないままだった。それでも、情報収集を辞めずに敵を探しては屠り続け、ようやくあの如月組へとたどり着いたというわけだ。


「……あのとき、私が一緒にいれば……。私は、あのときのことを時折夢に見ては、悔やんでも悔やみきれない後悔が押し寄せてくるのです」


 玲は悲痛に表情を歪め、奥歯を噛みしめる。忌まわしい記憶を砕くように、強く、とても強く。


「今は、お嬢の居場所は割れていないはずですから安全でしょうが……。学校に通うとなると、そう遠くないうちに追っ手が現れるでしょう。彼らは強いですが、確実に守れるという保証は……。ないですよ」


 そのとき、同時に爪が食い込むほどに強く握りしめていた玲の手の上から、百合がそっと手を重ねた。温かい感触が徐々に玲の緊張を解きほぐし、次第に表情も緩んでいった。


「ですが、いつまでもここにいるわけにもいかないです。私は、危険を冒してでも自分のやりたいことに精一杯の人生を注ぎ込んで生きたい。そうでなければ、死んでいるのと大差ないじゃないですか。それに、いつかは向き合わなければ……。私の、この力と……」


 百合が大きな覚悟を持って今回の決断をしたことを悟った玲は、自分に置かれた手の感触を確かめながら彼女の方を真っすぐと見た。百合が彼女に目を合わせた時、その黒目に宿った強い決意が電撃のように体中を迸っているように見えた。


「お嬢……。今度こそ、必ずお守りいたします。ですからどうか……。自分にとって、後悔のない選択をなされるようお願いします」


「……ええ、絶対に」


 百合と玲、二人はそれぞれの強い覚悟を胸に抱き、翔と澪の通う学校へと百合を通わせる準備を整えるべく動き出したのだった。

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