第9話 早めの再会

 さて、何とか藤崎先生を見つけることができたけど……。まさか、僕たちよりも先にお客様が来ているとは思わなかった。


 住宅街の周囲にいた怪しい黒服たちに話を聞こうと思ったら、急に「別の異能組織か!?」とか言って襲ってきたし。取り敢えずは殺さないで気絶させておいたけど、かと思えば今度は藤崎先生が電撃を体に纏いながら敵を灰も残さず消しちゃったし。


 てっきり、この国では殺人は御法度なんだとばかり思ってたけど……。あれか、バレなきゃ犯罪じゃないんですよってやつか。


 というか、今も前を歩いてきてる藤崎先生は普段と性格とか喋り方が全然違うな。強い、強いとは思っていたけれど、そっちに関しては逆に期待外れだったし……。


 隣を歩いてる澪の雰囲気からしても、藤崎先生の強さにはあまり満足していない様子だ。むしろ、まだまだ戦い足りないと言っているかのような面構えだし。


(ねえ、翔)


 考え事をしていたら、隣を歩いていた澪が口パクで話しかけてきた。これは一種の会話術で、他者に会話の内容を聞かれないようにするための手段である。


(……何? 今の僕はエニグマで、そっちはシグマだろ?)


(いいじゃん、別に。どうせ聴こえないんだし、後で正体を明かすんでしょ?)


(それは分からない。まだまだ、彼女を信用するかどうかは上野百合に会ってから決めることだろう。それに、必ず仲間になるとも限らない)


(敵対するって言うの? まさか、やっちゃうわけじゃないよね?)


(それこそ、まさかだと思いたいけど……。まあ、必要ならね。けど、彼女には利用価値がほんの少しだけどある)


(例の組織のこと? わーず、だっけ?)


(たぶん英語のスペルでWARSだと思うけど、そのことで間違いはないよ。彼女と上野百合を追えば、組織に自然と近づける。僕たちの目的達成にも、恐らくは)


(それなら、ここから先はもう少し上手くやらないとね。向こうも、こっちを警戒してるのは変わらないし。まずは、お互いに協力していくっていう方向性でいいよね?)


(問題はない。あとは、向こうがどう動くかだね)


 まあ、今もこうして話し合いをしているときにチラチラと視線をこっちに寄越してるのはバレバレなんだけどね。僕たちの口元はフードで見えないはずだし、話の内容までは分からないだろうけれど……警戒度は上がったか。


 向こうがもしも「そのつもり」なら、こっちも全力で迎え撃つだけの話だし……。今は何もしてこないから、こちらも特には何もせずに警戒している風を装っておくとしようか。


 そうして、暫く歩いた末にやってきたのは何の変哲もない一軒家だった。大豪邸というわけでもないし、かと言ってボロイアパートみたいな感じでもなくて、新築というわけでもない。


 基本的に一軒家を持っていること自体が凄いとは思うけれど、それを除けば本当に平凡極まりない赤い屋根の家だった。


「ここが、私たちの拠点だ」


「こんなところに住んでいるのか?」


 相変わらず、僕はエニグマとしての自分を演じながら周囲の様子を観察する。防犯カメラに、赤外線センサー、これだけでもかなり警備は厳重な方だと思う。政府にも狙われているとなると、更に強固な罠や防犯システムを用意しているのだろうか?


「こんなところで、悪かったな。だが、あまり舐めない方が良い。ここの警備はそこらの家どころか、政府ハウスと同等かそれ以上に強固だ。簡単に外部の人間を中に入れるような真似はしない」


「それは見れば分かる。だが、政府の人間なら多少は手荒な真似をしてでも例の人物を連れ戻したいとは思わないのか?」


「っ!? 何故、そのことを……。いや、彼女のことを知っていたのなら、今更か」


「まあ、そういうことだ。概ね、事情は把握している」


 まあ、半分はブラフだけどね。


「こんな人が密集した住宅街に政府の人間が押しかければ、嫌でも騒ぎは大きくなる。向こうも秘密裏に問題を処理するべく、あまり大胆な真似はできない。それに、私という最強の防犯設備があるから問題ないのだ」


「ふうん? フジさんが一番の戦力ってことなんだ。あなたがいる限り、彼女には手を出せない……。それだけ、あなたの異能を敵も警戒してるわけだ。でも、どうして今日は襲われたの?」


「……あれは、政府とは無関係の組織だからな。欧州の異能力集団ともあれば、私の知らない未知の力を用いてもおかしくないだろう。奴らは確か、人払いの結界がどうとか言っていたし、恐らくは何らかの異能力を用いたのだろう。その程度で私を倒せるなどと思われていたのは心外だがな」


 藤崎先生は話しながらポケットから取り出したリモコンらしきものを操作する。恐らく、防犯設備を一時的に解除するものなのだろう。


 彼女は操作を終えると、リモコンをポケットにしまって周囲に警戒心を散らしながら僕たちにこっちへ来いと手招きをしてきた。僕たちは黙って頷いて彼女の後ろにピッタリとついて歩き、そのまま家の中へと入った。


 家の中も、特に何の変哲もない玄関先で長方形の赤い絨毯が靴を脱いですぐの床に敷かれていた。


 玄関に入って最初にやることは靴を脱ぐこと……。だけど、藤崎先生は靴を抜かずに玄関の隅っこにあったタイルを思いっきり踏みつけた。


 すると、目の前の絨毯ごと床が切り取られたかのように床下へと移動し、代わりに階段が出現した。


「隠し通路か……。こんな洒落たものを用意するとはな」


「この家はあくまでも二階建ての一軒家だが、実は地下に一階の広さがある生活空間が広がっている。普段はこちらで生活をしているが、私がいないときは地下に行ってもらってるんだ。どうだ、驚いたか?」


「……ふん。単に洒落ているというだけの話だろう」


 と、冷静ぶって言ってみたけれど、内心ではかなり興奮もしている!


 最強を目指す上で、やっぱり住居とかにもいずれは拘れるようになりたい。そんなとき、真っ先に思いついたのが隠し通路からの隠し部屋!


 まさに、現代の忍者屋敷とも言い換えられるそれは、ただ純粋に男のロマンとも言えるもの! ラスボスの部屋で待っていたのが実はラスボスではなく、裏ボスなる存在が隠し通路の奥にいた……! 的な展開を狙ってみたいのだ。


 因みに、住居に関しては西洋風のお城をどこか広大な空き地にでも建てたいと妄想しているのだが、その手段はまだ検討中だ。今は仲間もいなければお金もないけど、今後活動を続けていく上で確保する方法を探し出さないと……。


「何をぼさっとしている? 行くぞ」


「……ああ、すまない。少し、考え事をしていた」


「WARSのことか?」


「ああ」


「なら、奥に行ってからにしたらどうだ。お嬢も待っているからな」


 彼女は僕たちを案内するために先行して歩き出し、止まっている僕の横を通り抜けようとシグマが隣に並んだ時、すれ違いざまに小さな声で呟いた。


「本当は、隠し通路に興奮してるんでしょ?」


 澪は「にひひ」と笑いながら藤崎先生の後ろをついて行く。


 どうやら、徹底的に教育をし過ぎたせいで心の奥底まで見透かされてしまったらしい。上手く隠したつもりだったけれど、まさかこうも正確に読み当てられるとは思ってもみなかった。


 ……まだまだ、僕も修行が足りないようだね。



 階段を降りて下まで行くと、そこには第二の玄関とも呼ぶべき靴を脱ぐためのスペースが用意されていて、僕たちはそこでスリッパに履き替えて中に入った。玄関からの一本道の途中にはトイレ、脱衣所などの部屋があり、奥が生活スペースのリビングになっていた。


 大きな液晶テレビにひざ丈くらいの大きめなテーブル、リラックスするためのソファ、キッチン、割とシンプルな部屋設計ではあったけれど、部屋の広さに対して物が少ないせいか無駄に広く見えてしまう。


 そして、例のソファの中央には退屈そうな目で真っ暗なテレビの画面を見つめる栗色髪で、白い肌をした控えめに言って美少女が座っていた。


 彼女が恐らく上野百合なのだろうけど、前に見た時よりもかなり顔色は良くなってるし、筋肉もある程度は取り戻しているみたいだ。でも、まだまだちゃんと歩くのは難しそうな感じはする。


 上野百合はこちらに気が付くと、さっきまで生気をどこかに置いてきていたらしい人間とは思えないくらい光を宿した目をして、ふらつき、足を引きずるように歩いて近づいて来た。


「おかえり……! フジに……。それから……。えっと……。この間、助けてくれたお二方……。きゃあ!?」


 彼女が転んで躓きそうになった拍子にこっちに突っ込んできたので、思わず左手首を掴んで起こしてしまった。きっと、藤崎先生なら僕なんかよりも先に駆けつけて彼女を起こすことくらいできただろうに……。


 そうは分かっていても、体に対する防御反応で庇ってしまった。もしも転んだりして傷を増やしてしまったら、僕たちが助けた意味が無くなりそうだったし。


「あ、あの……。ありがとうございます……。また、助けられてしまいましたね」


 彼女は朗らかな笑顔を向けてきて、まるで太陽みたいだとでも表現したら一番相応しいのだろうと思う。フード越しの僕には、少しだけ眩しすぎるかもしれないくらいの視線を向けにくい笑顔で……。


 たぶん、僕の苦手なタイプな人種なのだと直感的に分かった。


「……助けた覚えはない。早く自分の力で立て」


「私、まだ少しだけ歩くのに不自由ですから……。支えてくださると嬉しいのですが……。駄目でしょうか?」


「……ふん」


 かなり面倒そうだったので、いっそのことソファまで運んでしまおうと思った。僕は彼女をひょいとお姫様抱っこして抱きかかえると、そのままそこのソファまで運んで座らせた。


 彼女は少し頬を熱っぽく赤くしながらも、変わらない笑顔を浮かべて無邪気なオーラを乗せた視線を向けてくる。


「ありがとうございます。随分と、しっかりとした肉付きの方なんですね」


 僕は何て答えて良いのか分からずに無言を貫き、その場を離れようと一歩引いたわけだけど、どうしてか後ろの方と、横の方からも強い敵意や殺意を含んだ鋭い視線を感じた。


「ずるい、ずるい……。私、エニグマにお姫様抱っこなんて、してもらったことないのに……」


「貴様、よくもお嬢に気安く触れたな……? もしもお前が私より弱ければ、この場で即刻首を斬り落としているところだ……」


 二人とも、心の声を隠しきれてないし。澪は一応、僕の彼女だから嫉妬? しているのかもと思うけれど、どうして彼女を手助けしたはずの僕が殺意を向けられねばならないのか……。そんなに大切な人なら、いっそ手の内に留めるために鳥籠の中にでも閉じ込めておけばいいのに。


 僕は呆れ九割の小さく溜息を吐くと、残りの一割を何とか今後についての話し合いに対するモチベーションへと変換して話を前に進めるべく口を動かした。


「そんなことより、今後の話し合いを……」


「そんなこととは何だ!?」


「そんなことって何!?」


「……」


 僕にとってはかなりどうでも良いことだったのだけど、二人にとっては一大事だったらしい。できれば気持ちを推し量ってあげても……やっぱり面倒だし、強引だけど話を進めていこう。


「それで、お前たち二人の敵というのは政府組織とさっきのWARSと名乗った欧州からやってきた異能組織で間違いないのか?」


「……ああ、今のところはな」


 藤崎先生がぶっきらぼうに答えて、上野百合のとなりにどさっと腰かけて足を組んだ。その豪胆な座り方は彼女を守護する番人を思わせる迫力くらいはあったけれど、少し頼りない感じがするのは僕たちが強すぎるからだろう。


「だが、政府組織の方は……。警戒するに越したことはないが、暫くは大丈夫だろうと見ている」


「それは何故だ?」


「政府は現在、お嬢を追うことよりも重要な案件に囚われているからだ」


「その重要な案件って、何なの?」


 澪……シグマがいつになく真剣な声のトーンで質問を返す。恐らく、真剣みのある彼女の声を聞いたのは初めてだろうから少し驚いた様子の藤崎先生だったけれど、すぐに本題を進めていく。


「……例の異能組織、WARSからの侵略に対抗することだ。いいか? 政府組織が受け持つ異能力集団の仕事は主に二つだ。一つ、国内に存在する希少な異能力者の確保と研究、二つ目が国内外からの侵略行為を阻止することだ」


「確か、国内の異能力者の確保と研究は今後の技術発展や軍事兵器開発に利用されるんだったな?」


「もうそこまで知ってるなら、それ以上の説明は要らないだろう。お嬢もそうだが、世界中にはもちろんのこと、ここ日本国内でも発見されていない異能力者は多いし、研究を一歩でも前に進めるためにサンプルを多く用意したいというのが政府の意向だ。お嬢も、そのために連れ戻されようとしている。……が、しかし。政府にとって研究を進めることより重要なことが、侵略行為に関することだ。如月組の一件については、既に知っているだろう? お前たちも、あの現場にいたんだからな」


「ああ。あの組織が政府か、もしくはどこかの組織に手を貸している無法者たちの集まりだということは分かっていた。だが、今の話を聞いている限りだと……。襲ってきたのは、WARSの方か」


「ご明察だ、エニグマ。奴らは如月組とパイプを繋ぎ、どうやってか入手した政府の極秘情報を盗み出して国内の異能力者を狩っていたらしい。まあ、今回のことで如月組は壊滅し、その手段となっていた手足の一本を斬り落とすことに成功したわけだ。国内には、まだまだWARSに協力している組織はあるだろうが、あれほど大きな組織はそうそうないだろう。暫くは安心しても良いとは思っていたが……。あの様子を見るにお嬢を取り返すのを諦めてはいないらしい」


 さっきの襲撃はWARSのもの、つまりは手足を失ったことで大打撃を受けたから汚名返上しようと取り返しに来たわけだ。組織の構成員となっている人物たちを引きずり出したということは、まだまだこっちでの勢力はあまり大きくないはず。


「……なるほど。政府はこれ以上、WARSの侵略を許すような失態を侵さないよう全力でWARSのメンバーを探して捕まえるか、あるいは抹殺して回っているのか。国内にいる異能力者はそうそう逃げることはない上、マーキングさえしておけば動向は追える。それよりも、国外へと密輸出されて貴重な資源を奪取されることを政府は恐れているんだな?」


「ああ、そういうことだ。国内の事情よりも、まずは国外の事情を何とかしないといけない。体内のウィルスを殺しても、体外に存在する病原体がいる限り病気が治ることはないからな。WARSを排除してからでも、異能力者の確保はできる」


「……ってことは、今はWARSに注力してれば問題ないってことだ。私たちは、強いやつと戦えるなら何でもいいんだけれど……。まあ、問題点は明らかになったわけだ」


「……というと?」


「私たちが二人をWARSの手から守る。代わりに、あなたたち二人は私たちのことは秘密厳守ってことで。どう?」


 シグマの提案を僕は否定することはしなかった。この手の交渉事は彼女の方が適任だし、たぶん彼女に任せておく方が上手くいくと思っていたからだ。


 しかし、僕の予想を大きく外れてここまで口を噤んでいた上野百合が口を開いた。


「そんなことをして、ご迷惑をおかけするわけにはいきません」


 しかも、意外なことにこちらの提案をお断りしてくる始末。どちらに対しても特にデメリットはない話だと思っていたのに、それで断られたのが驚きに拍車をかけた。


「どうして、断るの?」


 シグマの単刀直入な質問に、上野百合は一度目を閉じて深呼吸をしてから再び目と口を開いた。


「私は既に、一度命を助けられています。それも、とても身勝手な理由で犯した罪の清算に巻き込む形で」


「罪の、清算? そう言えば、あなた……。確か、女優をしてたって……」


「ふふ、そこまでご存じなら隠す必要はありませんね」


 上野百合は小さく微笑んでから、遠い景色を眺めるように虚空を見上げて自分の身に何が起こったのかを語り始めた。


「私は、生まれた頃から政府の施設で育てられていました。異能力を研究するという目的で、私の異能力「異能力探知」は非常に有益なものでした。だって、一目見れば誰が異能力者か分かってしまうんですから」


 それから、隣に座る藤崎先生の膝にそっと手を置くと懐かしむような、いつくしむような手つきでそっと撫でる。


「ここにいるフジとは研究対象と観察者という仲で、元々は何の関係性も無かったんです。定時に観察して状況をレポートにまとめ、報告する。私は、その時に幾つか質問を受けるだけで余計な会話は一切なかった。けれど、ある日の私は無性に誰かと話をしたくて、フジに声をかけたんです。最初は口数も少なかったんですが、徐々に話すようになっていって……。終いには、政府の管理する施設から脱走を図る共犯者にまで進展しました」


 やっていることはかなりマズいことのはずなのに、彼女は心底笑顔で楽しそうに話していた。弾む声からも後悔といった感情は微塵も感じられず、今の生活を手に入れたことに満足していることが手に取るように分かった。


「それから、私は初めて地上の景色を見て、地上の常識を知っていきました。フジの助けもあって、何とか政府の追ってから見つからずに生活をしていましたが……。ある日、私は女優という存在に憧れを抱くようになりました。理由は……どうだったでしょうか。ちゃんと思い出せば説明できますが、たぶん単純なもので……。何となく、恰好良いと思ったんです。だから、なってみたかった」


 そのとき、僕の心に何か共感できる響きを感じた。


 何となく、惹かれたから。なってみてくて、努力をした……。


「私は、ただなってみたかったんです。私が、初めて憧れたものに。私はフジにお願いして、実名を隠して事務所に入れてもらいました。顔出しも極力控えて、下半身だけとか、首くらいまでの出演とかもありました。それでも、やっぱりテレビにはちゃんと出てみたくて……。それで、夢を叶えるために顔出して一度だけ出演したテレビ番組で身バレして……。組織に、捕まりました」


 上野百合は自分の罪を懺悔するかのように、喉に詰まったものを吐き出すようなぎこちない感じで言葉を紡いだ。彼女のためにしてくれた藤崎先生の努力を棒に振って、危険な目に遭って、それで助け出されて……。きっと、自分のことを情けない、どうしようもない人間だと思っているのだろうと察せられた。


「私は、とても……。我儘で、自分の夢の為に私自身と……。フジも危険に晒しました。おまけに、あなたたちにまでご迷惑をおかけして……。だから、これ以上の協力を仰ぐことなどできはしません。自分の犯した罪は、自分で清算しないと意味がないのですから……」


「お嬢……。そもそも、出演の許可を出したのは私です。お嬢が気にされることは……」


「それでも、言い出したのは私です。フジには、これから一生をかけて恩を返すから。お二人にも、何か必ずお返しをいたします。なので、これ以上に私を困らせないでください」


 彼女は決意に満ち満ちた、覚悟を決めた表情のまま頭を深く下げた。上野百合、ずっと怖い目にあってきたはずなのに今でも一人で戦おうとしている。


 とても強い人間なんだと僕は思ったが、それは心だけだ。心を守るはずの器の方は脆くて壊れやすく、その華奢な体ではあの下っ端戦闘員を張り倒すことすら難しいだろう。


 けれど、それ以前に……。彼女は盛大な勘違いをしていたので、僕はそれがどうしようもなく許せなかった。


 僕はゆっくりと彼女の傍まで歩み寄り、そして彼女の顎に手を添えてクイッと持ち上げた。彼女の涙に潤んだ瞳が、とても儚くて印象的だった。


「お前は、大きな過ちを重ねようとしている。だから、言わせてもらおう」


「な、何でしょうか?」


「夢のために自分の命を賭けることの、何が悪いと言うんだ?」


「……え?」


 よほど予想外の言葉だったのか、彼女が瞬きをすると溜まっていた涙の雫が横顔から流れ落ちた。それでも、僕は構わずに続けた。


「自分の夢を叶えたい。その気持ちに嘘を吐くなら、人は夢を見ることを許されないことにはならないか? 僕は少なくとも、夢を叶えるために覚悟を決めて行ったことなら決して罪ではないと思う。それくらいのことをしてでも叶えたいからこそ、人は夢と呼ぶのだろう?」


「それは……。でも……」


「もしも、お前が藤崎玲や僕たちに対して罪の意識を感じているのなら、今すぐにそれは辞めてくれ。そうではなく、自分を救ったことや、自分を応援してくれたことに対する感謝を伝えるために行動するべきだ。違うか?」


「それは、そうかもですけど……。あなたは、一体……?」


「僕はただ、最強を目指すために全てを捨てた。それだけだ。今残っているのは、捨てても捨てきれなかったものだけだが残っている。きっと、自分にとって本当に大切なものに違いない。それさえ大切にできれば、他は何も要らないだろう。僕は、そういう存在だ」


 最強になるため。僕はそのためだけに家族を捨て、遊びを捨て、仕事を捨て、恋することを捨て、長生きすることを捨て、挙句の果てには自分の住んでいた星すらも消し飛ばした。


 今の生活では、前の人生よりも大切な物は増えたと思う。家族がいて、澪という恋人がいて、普通の学生生活を送っていて……。それでも、僕は最強を目指していることに関してだけは前世と変わらない。


 僕にとって本当に大切なものは最強になることだけだけど。けれど、大切なものは増えたんだ。


 だから、僕は彼女にも……上野百合にも今自分の手の中にある大事なものを大切にしてほしいだけなんだ。手放そうとしたり、自暴自棄になったりするのではなく、罪の意識で贖罪のための道具にするのでもなく、ただ感謝を伝えて、恩を返して、これからもよろしくと言えばそれで良いんだと伝えたかった。


「あの、その……。お名前を……。聞かせてください」


「僕の名は、エニグマ。ただの、最強だ」


「……私は上野百合です。聞いてください、エニグマさん。私、あなたに恋をしてしまいました」


 上野百合、その一言だけでこの場の空気が凍り付いた。


「「「は?」」」


 思わず素っ頓狂な声を、三人揃ってあげるくらいには唐突過ぎる発言だったのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る