第3話 知りたくなかった『感情』
減っていくドロップと同じだけ、わたしとラビィはたくさんの思い出を積んでいった。
映画も10本以上見たし、いろいろな遊園地に行った。たくさん観覧車に乗った。時には遠くに行って日の出をみたり、花畑を見たり、海ではしゃいだり、きっと彼がいなかったら経験できないたくさんの『感情』が集まっていった。
けれどそのぶん、減っていくドロップに不安になっている自分もいた。彼のもつガラス瓶がからっぽになってしまったら、わたしたちはどうなるんだろう。
考えると胸がきゅっとして、泣きそうになるから、そっとまくらの下に隠した。甘い、甘い『感情』―――――。
そうしているうちに、わたしは中学生になった。
***
窓の外桜のつぼみがゆれる、休日の昼下がりのこと。
ラビィは錆びかけた小さな勉強机に腰かけて、にこっと笑った。くたびれた肩掛け鞄からのぞくガラス瓶は綺麗に向こうの世界を映している。
「あと、ふたつだねぇ」
間延びした声でラビィが笑う。机の隣のベッドに座ったまま、わたしは黙ってうつむいた。
「…ねーぇ、ユウカ?」
「…ん」
彼はくるんっと首をひねって、わたしをのぞきこんだ。さらさらと髪の毛が視界に流れ込む。
「ためらってる?」
どくんっ
「……ボクが、いなくなるから?」
どくんっ どくんっ
ラビィは困った顔のまま笑った。目元にきゅっとしわが寄っている。
「……ユウカ」
いつもの優しい声にうっすら切なさが混じり、ぽたっとなみだがこぼれた。こらえきれないまま、奥歯を噛み締めた。
「っ…ラビィは、いいの…?」
彼はすぅっと息を吸って、机から降りる。そして私の目の前に立った。
そっと手を差し出してくる。払おうかと思ったけれど、そんな勇気も、弱さもなかった。
ラビィの小さな細い腕に支えられながら立ち上がり、涙を人差し指ではらった。彼は、いつもの優しい微笑みをうっすらと
「よくは…ない、かな」
窓からさぁっと風が流れてくる。蒼い楓の葉がやわらかくゆれていた。
「でもさ」
風で彼の髪が流され、顔が見えない。どんな顔してるの?いったいどんな顔でそんなに明るい声をだしてるの――――
「君はいずれ、ボクが見えなくなる」
心臓が鳴る。蓋をした瓶をこじ開けられた気がした。
「……もう、わかってるんじゃないの?ボクの声も、姿も、薄くなってるんでしょ?」
空気が少ない。気がする。なみだが私の周りの酸素を奪っていくみたい。
うすうす、わかっていた。風が吹くたび、太陽が輝くたび、薄くなっていく彼のこと。もともと薄かった色素が、透けるほど薄くなっていること。
「タイムリミットは、一年。来週の君の誕生日だよ」
どくん どくん どくん どくん――――
「ユウカ…―――」
彼がそっと手を伸ばす。小さな抵抗を飲み込んで、その手に身を合わす。
さらりと髪をなで、頬に触れる温かい手がたまらなく切ない。
たった一年。それでも一年間、ラビィは私の隣にいた。
「ラビィ、わたしは……」
「わかってる、わかってるよ」
顔をあげる。彼の蒼い眼から輝くなみだがこぼれおちている。
温かい手のひらから、彼の血が流れてくるみたい。同じ心臓で動く、ひとつのからだみたいだ。
「君が好きだよ。ユウカ」
声にならないまま、思いがなみだと一緒にあふれでる。
ラビィはぎゅっと私をだきしめた。ふわふわの金色の髪が、目の前をさらさらと流れる。
「どうしてだろうね。たった一年なのに……」
耳元で流れる声はいつまでも優しく、うそみたいに儚い。
「映画をたくさん見て、遊園地に行って、海に行って、歌も歌って……君とじゃなきゃ、意味がなかったと思うんだ」
彼がさらりと私の髪を指先でいじった。
「どうしようもなく、大好きだよ」
目を閉じる。ラビィとわたしの心臓が、同じだけの時を刻んだ。
きらきら パチパチ きらきらきら
覚悟を…―――決めた。
そっと彼から離れて、手のひらを彼に向けた。
「ラビィ、ちょうだい」
彼は黙ってうなずき、ころんとひとつわたしの手のひらに転がした。―――これで、瓶の中にはあとひとつ。
右手の親指と人差し指でつまんで、わたしとラビィのあいだに掲げる。
すぐにまばゆい光があたりに満ちて、きらきらとわたしたちを包み込んだ。
ころん
手のひらに転がる、水色がかった薄桃色のドロップ。うっすらと淡い光を放っていた。
そっと口に入れる。目の前が甘く弾けた。
きらきらきら パチパチパチ
ねっとりと濃厚で、また甘酸っぱい、爽やかな味。ゆっくりとかたどるように、甘く甘くほどけていく。
ぽたっ ぽたぽたっ
なみだが流れ落ちて、ずっとずっと隠していた『感情』があふれだす。
ドロップとラビィの顔がゆらゆらゆれて、頭がおかしくなりそうなほど『感情』が、叫び出す。―――やめて、と言っても、聞いてくれないほど、強く。
「ラビィ」
口に馴染んだ名前。この世で一番きれいな音。
「私も大好きだよ」
なみだといっしょにこぼれ落ちたその言葉は、彼の手ににぎりしめられた瓶のふたをもこじ開けた。
今までで一番、とびきり強い光が、わたしたちを照らす。目の奥を刺激するような眩しさに、おもわず目を閉じた。
カラン ―――
軽い音と一緒に瓶の中に収縮していった光は、透明なドロップになっていた。
「え、…―――?」
ラビィがころん、と手のひらに出す。『それ』はあきらかに『ドロップのもと』とは別物だった。
まったくの透明に見えたが、ふとすれば薄い空色で、または濃い藍色、もしくは輝く黄色、時にはまっすぐな赤色に映った。見る向きできょろきょろと表情を変える、不思議なドロップだった。
「これ、『なみだ味』だ…――」
ラビィは小さくつぶやいた。そのキレイな顔にあざやかさが戻ってきている気がした。
しばらくじっと手元のドロップを見つめた彼は、そっと顔をあげた。
優しく、笑う。いつもの、とびきりキレイな笑顔でわたしを見た。
彼のかたちの整った細い指は、そっとドロップを持ち上げ、わたしの口にねじ込んだ。
「え…―――!」
きらきら パチパチ きらきら パチパチパチ―――
頭の奥で光が弾ける。なみだが出てしまうほど、まぶしく、強く。
光に満ちた世界で彼はにこっとほほ笑み、
「これはホントは言っちゃいけない話なんだけど」
と前置いて、小さな声で話し始めた。
***
「ボクは元々妖精界っていう別の次元に生きていたんだけど、『上』からの御達しでね、"修行"に出されたんだ。
この"修行"は皆がみんなするわけじゃなくて、『上』が間違って人間を減らし過ぎちゃった時に臨時で駆り出されるんだ。基本妖精界から一歩も出ずに一生を過ごすんだけどね。
それで"修行"を任された妖精は瓶いっぱいの『感情ドロップのもと』を持って、自分と同い年の人間を探す。――パートナーって呼ばれるんだけどね――自分に一番合う波長の子供のところに行くんだ。
ボクの場合、それがユウカだった」
ラビィは蒼い大きな目でわたしを見た。優しい響きに心が高鳴る。
「そうして波長の合う人間を見つけたら、その人に『感情ドロップ』を集めてもらうんだ。
とは言っても、集めること自体はボクらだってできる。ただやっぱりボクらは人間に比べて『感情』が弱くてね。効果が薄いんだ。
それに、そのドロップを舐めて取り込んでもらうことは君らにしかできない。君ら人間が『感情ドロップ』を取り込むことで、君らを通してそのエネルギーをボクら妖精が受け取る。そしてそのエネルギーはボクの『中』に蓄積していくんだ。『感情ドロップ』なんてボクらが舐めたら全く無味のもので、効果もない」
彼はそっと視線を落とし、胸に手をあてた。
「――…そうしてエネルギーが、…つまりドロップの瓶が空っぽになったら、ボクらの"修行"は終わり。蓄積した感情エネルギーを持って、人間の
「っ…じゃあ――」
集めなければ、ずっと一緒に―――!
口の中で
彼はもう一度わたしの頬に手を添えた。その感触が、またすこし弱くなった気がする。
「……それでも、期限が一年間なのはボクらが弱すぎるからなんだ」
美しい少年は優しく哀しくほほ笑んだ。
「慣れない強すぎる『感情』の下にさらされて、それ以上いると壊れてしまうんだ。
もし、一年間で『感情ドロップ』を集めきれなければ"修行"は失格、妖精界に連れ戻される。そのとき、他の妖精に影響を及ぼさないために溜めたエネルギーは消されてしまう。……それは、それだけは、いやだったから」
海の色をした瞳に、うっすらと私が映っていた。みにくい、ぼろぼろの顔だった。
「ユウカからもらった感情は消したくない。このまま、手放したくない」
ラビィの目がきらりと光る。なみだ味のドロップがパチパチはじけた。
「でも……人間の胎に入ったときに、妖精であったときの記憶を失う。妖精界でのことも、ユウカと過ごしたことも…」
彼の哀しい声に、きゅっと胸がしめつけられ、なみだがつぎつぎとあふれる。
「だけど」
彼はくるんぱっと明るい表情を見せた。
「人間に生まれ変わったあと、ボクらは必ず、パートナーと出会うんだ。前世の恩返しのためにね」
ラビィは笑った。
「だから、ね?ユウカ」
優しい声が、優しい笑顔が、哀しく輝き、薄くほどけていく。
「おねがいだから、ボクを忘れないで」
切ない声がする。頬にあたる手のひらの熱が徐々に失われていく。
「おねがい、ボクを―――」
愛して―――――……
―――――
風が吹く。なみだを煽るように、金色の風が吹く。
「……っ」
頬の熱が、消えている。存在ごとかき消すみたいに、春風が吹き荒れた。
まだ、口の中にドロップの甘みが残っているのに。
まだ、海色の瞳がありありと浮かぶのに。
頬に、瞳に、こころに、強くあなたがいるのに。
「っ……ぅうっ」
彼の声が、何度も、何度も頭の中で流れる。頭が熱で痛むほどに、パチパチ弾け飛ぶ。
「っ、ラビィ――…」
まだ、目をつむったら金色の風が吹く。風の音さえ、彼の声を孕んでいるように聞こえた。
「うぅ、っふ…うわぁああぁぁああああん」
春風吹き込む部屋に、中身を失った空っぽの瓶がきらきらと光を放っていた。
*** *** ***
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます