六章 脳花垂体

脳花垂体 1

 体が濡れる感触に瞼が開く。起き抜けに見えたのは、淀んだ空と鈍色の雨粒だった。雨が降っている。天候サイクルでは早朝に降る小雨は三日おきと決まっている。地面に降り注いだ人工のシャワー。水滴は大地に吸い込まれず、野花や草木の露となって世界を反転させる。十分ほど散布された雨は、日の光に絆されて宙を舞う。さらに細かい粒子になって、朝靄が私たちの輪郭をにじませる。

 なにもかも夢だったかのようだ。宴の席の不慣れな酔いがみせた悪夢。しかし、いくら自分に言い聞かせようとしても、肌に染みた藤の香りが忘れることを許さない。私は誘惑された事実が情けなくて、一時でも桂花を忘れたことが苦しくて、朝焼けに涙を流した。愛の力はちっぽけで、脳を冒す毒に抗う術を持たなかった。所詮、その程度の愛だったなんて、信じたくもない。

 助けを求めるように、足は『温室』へと向く。まだ私のなかに恋があることを確かめたくて。良くなった桂花が目覚めて、私に答えてくれたなら、この胸の内を覆う不安も振り払えるのに。


 太陽が頂点に差し掛かる頃、『温室』へとやってきていた。ほんの二三日会わなかっただけなのに、ずいぶん長いこと桂花と顔を合わせていない気がした。

 個室の前までやってくると、病室内にひとの気配がする。大気中の匂いの変化には、神経質といわれるぐらい敏感な方だ。異常があれば感覚が教えてくれる。

 桂花が起きあがったのかもと期待したが、それにしては物音が不審だ。足を忍ばせて近づくと、病室の中から焦りのこもった声が漏れ出る。

「ない、ない・・・毛髪程度じゃ抽出は無理だ。騙された、騙されたッ、化け物の言葉なんて信じるべきじゃなかったんだッ」

 そこには感情が抑えられず悪態を吐く、ひとりの庭師の姿があった。病室のなかに桂花は見あたらない。痩せこけ枯れた体も、金木犀の残り香さえも感じられない。彼女は行方を眩ましていた。

 庭師は桂花が横たわっていった土を浚い、ちぎれた白い根毛や髪、樹化した皮膚の破片を拾い集めていた。先端の細い金属の箸で、桂花の欠片を摘んでは容器に入れる。焦りと動揺が彼の視界を狭めており、私の存在には気がついていない。

 防護服に覆われた庭師の背中はひどく無防備だった。腰のポーチには剪定用の刃物が納められている。目の前に機会をぶら下げられ、よからぬ考えが膨らんでいった。

 実のところ、私はまだなにも知らない。この数日間、桂花の復讐のためと走りまっわってみたけれど、断片的な情報ばかりで成果と呼べるものはなにも得られていない。『花園』でなにがあったか、なにが起きてたのか。さっぱりわからない。その上、桂花自身もどこかへ消えてしまった。

 普段なら現実味がなくて、却下する案だった。けれど、この瞬間ならば、真実へ近づくためにもっとも手っ取り早い手段になった。

 気配を押し殺し、ゆっくりと手を伸ばす。私の中に躊躇いはなかった。

「なんだ?」

 体に触れた途端、庭師に気づかれた。だが、もう遅い。狙いは防護服、頸部の脆い連結部。力加減なしで、刃先を振り抜いた。庭師はとっさに身をよじったが、刃渡りのすべてを避けきれる動きではなかった。防護服が耐性のある生地で刃物を通さないのは予想できた。しかし、頭部のガラス鉢との接続はそうではない。

 部品を割る手応えがあった。ほんの数ミリでも亀裂が入れば、防護服の気密性は破られる。私はすぐさま花を開き、香りを放った。

「や、やめろッ、け、警報を」

 喋れば香りの回りは早くなる。焦りは呼吸を荒くし、興奮した体は血流を激しく乱す。香気によって分泌された快楽成分を体の隅々まで運ぶ。抗いがたい快楽は痺れとなって自由を奪う。

 私は彼の腕を握った。私の力は予想以上に強く、彼の骨を軋ませた。

 か細い悲鳴と弱りゆく筋力。隙間から進入した香気が庭師から力を奪っていく。

 数十秒で抵抗が鈍り、一分も過ぎれば庭師は膝をふるわせた。

 人間は私たちの香りに弱い。花人よりも快楽に脆弱で、花人を相手にするよりも数十倍効きやすい。話には聞いていたが、これほど簡単に堕とせるとは。

「質問に答えて。桂花はどこに行ったの?」

「わ、わからない。私が知りたいぐらいだ」

 体の自由はある程度奪えた。庭師の無表情な硝子鉢の頭が私を仰ぐ。知性や自我はまだ健在だ。すべてを溶かすにはもう少し時間が必要か。

「ここでなにをしていたの? 桂花に一体何の用?」

「匂いが・・・匂いがする。あれだ、あの匂いだ。懐かしい、本当だ。あの化け物の言うことは本当だった」

「質問に答えて」

 庭師の容態が次第に緩み始める。私の少ない花でも効果は覿面だ。効き過ぎて廃人になられたら情報を聞き出すこともできない。理性のゆるみを感じて、庭師が喋ることに期待する。なんせ、彼ら庭師ニンゲンこそ、なにもかもを知っているはずなのだ。

「十年だ。私は十年探し求めた。やはり匿っていたんだ。『百香白劫ひゃっかびゃくごう』――樹里亜、お前のことを」

「誰? なんの話をしているの? 私は月華よ」

「いいや、間違いない。私がかぎ間違える訳がない。これは白劫の香り・・・十数年前に生成されたきり、失われた伝説の香水。人心を惑わし、愛着を植え付ける。愛欲の媚薬」

 香水と聞いて思い浮かぶのは、あの『蜜造酒』だ。『花園』で作られる『蜜造酒』が媚薬効果のある香水とされていても不思議じゃない。花人さえ狂わす『蜜造酒』だ。人間が使うには何百倍といわぬほど薄める必要があるだろう。

「香水と私・・・桂花の行方に何の関係があるっていうの? 悪いけど、その樹里亜というひとは知らない」

「あぁ、知らない。ご存じない。よろしいですとも、ぜひ説明させてください。あなたが知りたいと言うのならば。もっとも、太夫であったあなたには、周知のことばかでしょうが。いえ、きっと、この私を試すつもりでしょうねぇ」

 庭師の瞳孔は開ききり、大きな虚ろには私の貌が取り込まれて、どこまでもどこまでも深く墜落していく。

 それから庭師が舌をもつれさせながら語った話は信じがたい内容だった。いいや、信じたくもない話だった。


 十数年前、とある花人が太夫として『花園』に昇殿した。彼女の名は樹里亜。これまでに類をみない効果を持つ、変わった快楽物質を体内で精製できる花人だった。

 『花園』は花人から得られる体液を原料に、特殊な香水を精製することを目的とした施設であった。花人の香りに個性があるように、香水には花人ごとに異なる効果を持っていた。『紫睡香』は人間社会におけるもっとも有名な香水で、宵藤太夫の体液から精製された香水は高濃度の毒性を有した。気化させた微量の香を吸い込むと、眠るように死に至ることから名付けられた最高級品。上流階級の老人たちの安楽死に用いられるらしく、死の眠りの快楽、死の魅力に逆らえる者はいない。

 樹里亜の香水は人間を殺してしまうほどの毒性は有していなかった。むしろ、人間の行動を活性化させることも可能だった。銘を『百香白劫』、別名『愛の雫』。その香は嗅いだ人間に愛着を刷り込むことができた。用法は容易で嗅がせて自失状態に陥った対象へ、愛着を抱かせたいものを意識させる。それはまず媚薬として試され、すぐさま愛国のプロパガンダと併用された。要人の懐柔、多数派の形成、国民の煽動。百香白劫は支配者にとってあまりに都合のよい代物であった。

 花人の香水、その効能は、人間の科学技術を用いても再現不能な物だった。成分は模倣できても、効果は再現できない。体液の調香には、花人の記憶や感情が影響を与えていると考えられた。花人が『植物園』内で自由行動を許されているのは、体液の効能を高めるための必要な措置として。同様の理由で太夫が『花園』から『庭園』へ、一時帰郷をするのも、花人の香りを損なわないためだ。

 花人は閉ざされた空間で、長い時間をかけ、強毒化していった。

 愛に囚われたものは、愛着の対象にすべてを捧げる。全霊を以て愛に報いる。恋心を芽生えさせる程度にとどまっていた樹里亜の香りは、香水として濃縮されることで完成した。

 今からちょうど十年前、樹里亜は忽然と姿を消した。太夫が『花園』から『庭園』へと戻った祝祭の期間中のことだ。花人は『植物園』から出ることはできない。まして太夫は庭師により監視を受ける身。胚種に埋め込まれた装置により、位置は常に追跡されていた。しかし、ある夜を境に追跡が不可能になった。

 かくして、百香白劫はさらに貴重なものに変わった。この十年貯蔵分を使い回していたが、やがてそれも限界を迎えた。今、百香白劫を手に入れれば、社会を思いのままに操ることができる。もっとも、庭師の望みは、香を売り渡し富を得ることで、大それた考えは持っていなかった。いや、庭師が香を求めたのはひとえに、愛情が底をついた禁断症状からにほかならない。庭師は愛欲の中毒者だったのだ。

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