垂直落花 4
私は棲家へと帰らなかった。あなたを置き去りにしたままだったが、私は樹里亜への気持ちを優先させた。自分でも帰れるはずだろうし、奇しくも擬人花の嫌疑が彼女の身を守ってくれるだろう。噂が広まるほど花人たちは距離を取る。疑いが晴れるまでは恋愛から離れたほうがいい。酷かもしれないが、本物の擬人花が見つかるまでは現状維持があなたのためだ。
夜の街は騒がしく、擬人花の出現に尾ひれがついて、口から耳へと群れを成して泳ぎ回っていた。あの場で押し倒され怪我をした子らが新たな犠牲者として数え上げられ、巨大な化け物の影が噂として暴れる。一説には『植物園』の壁を破壊して侵入してきただの、もうじき外の病原菌が広まって花人はみな死んでしまうだの、悲観的な風説に狂乱が相乗りし、ひとびとの心を満たしつつあった。
恐怖は伝染する。太夫たちが対応を急ごうとした理由も、今となっては理解できる。
街を往く花人らの視線に歪んだ光が見え隠れする。友人を、恋人を、道行く誰かを。街には疑いが蔓延していた。自制心の弱い子などは、花から敵意の香りを漏らし、諍いの種を撒く。この狭い世界でどこに逃げればいいというのだろうか。
もし興奮の香りで力の制限が解かれることに気付けば、暴力の嵐が多くの花を手折ることになる。生死に疎い私たちだ。お互いの身体など簡単に壊してしまうに違いない。
人混みを避け、夜更けを待つ。
擬人花の正体も気になるが、私の頭を占めるのは樹里亜のこと。原因があるとすれば『花園』だ。あちらに居る間に心身を病んでしまったのだ。そして、渡された透明の小瓶。樹沙は香水だと言っていたが、花人には香水など作る技術も設備もない。そもそも香水を必要とするのは人間だ。『植物園』の
月のない夜。
夜空には厚い雲が垂れ込める。
謎と疑念は深まるばかりで、晴れる気配がない。
街灯りの範疇を出ると、途端に足元さえも濃い闇に溶けて見失う。
私も同じだ。じぶんが何処へ向かっているのか、なにを目指すべきなのかわからない。状況に押し流されて溺れかけている。標もなく、暗くて底がみえない。夜の海だ。私は海を知らないけれど、母胎樹から受け継いだ微かな記憶の断片に生臭い潮の香りを覚えている。潮の香は生物の腐りゆく、死の臭いだ。誰かが書物にそう記していた。
樹沙の用心深さも不可解だ。上位花人でもない私が、樹里亜の屋敷を尋ねたところで怪しまれることはおろか、気付く者がいるかも怪しい。それに街では擬人花の脅威に注目が集まっている。私のような木っ端の花人に構う余裕のある子はいない。
『温室』へと連れて行っていない所をみると、露見を恐れたというより、庭師を警戒したのかもしれない。どこかで私たちを監視している人間。樹里亜の病に、人間が直接的にかかわっている可能性は否めない。
出口のない疑問は脳内を回り続ける。遅々として進まない時間のなか、身を潜めた私は夜陰と息を重ねていた。
私は妄想する。例えば、自分が擬人花だったなら。
そう、狙うならこんな夜だ。
人目を気にせずに済む。誰にも見咎められず、食事をする、放埓気ままに花を荒らす。標的が通りかかるのを、暗がりで待ちわびる。最初の一撃で喉を食い破れば、誰にも助けを求められない。あとは好き放題にできる。
私は擬人花の思考を追い掛ける。私が花人を襲うならどうするか。
冷静で、狡猾に。気配を漏らさず、狩り場で待つ。
そこまで狩人になりきって、首を傾げた。違和感だ。私が行き遭った擬人花は到底正気を保っているようには思われなかった。露地に香りをまき散らし、血肉を食い散らかしていた。誰かに見つかることを恐れた行動ではなかった。ひとを寄せなかったのは雨が押し留めていたからに過ぎない。運が良かった、あるいは悪かっただけだ。雨がなければ、私のほかにも気付いた者があったかもしれない。狩人の思考と、目撃した現場の印象は合致しない。
「どういうことなの?」
私の呟きは暗がりに呑まれ、どこまでも落ちていった。
顔を上げれば街の明かりも随分と消えている。夜が十分に深まった合図。
樹沙と落ち合う時間だ。私は彼女に言われた通り、小瓶の蓋を開けた。香りを確かめようと、鼻を近づけ息を吸い込む。
「こ、これは……樹里亜のッ」
甘ったるくて、どこか素っ気ない。穢れを嫌った、潔癖な白々しさ。
心臓が握りつぶされる。透明の底に溜まっていたのは、紛れもなく樹里亜の花の香。濃縮された香りは、揮発した量だけでも気をやってしまうには十分すぎた。かつて感じたことのない高揚。樹里亜の腕に掻き抱かれ、胸の花に顔を埋めているような。全身を彼女の香りで包まれる。
なぜ、と考える隙間は残されていなかった。
身体の深奥が火照り、表皮が疼く。私の欲求が引きずり出され、感情が体内の維管束を駆け巡る。神経が奮起し、いくつもの毛細血管が破裂した。鼻からは血が滴り、股からは快楽が垂れる。意識が頭蓋骨のうちで拡散して、狭苦しい私の現実から解き放たれようと暴れ回る。
花が、芽が、私を憑り殺そうとする。
愛しさが溢れて、胸が張り裂ける。これは比喩なんかじゃない。胸骨を突き破って蕾が生える。
肺が絞られる痛みに咳込む。口を抑えていた手に血に染まった花びらが吐き出されていた。気管と肺胞にも花が咲いたに違いない。体内、体外問わず、無差別に花が咲き乱れる。このままじゃ恋に殺される。愛しさに頸を締められる。
樹里亜の香りを宿した香水は、私を立ったまま生花に変えようと発情を迫る。
駄目だ、こんなどことも知れない路地で自我を失くしたくない。
膝関節や足裏にも花が芽吹き、痛みと酩酊から路地を彷徨う。自分が何処に向かっているのかも判然としないまま、樹里亜に逢いたい、その一心で身体を引き摺った。
樹里亜、樹里亜に逢いたい。感情だけが身体を突き破って花を咲かす。
「こんばんは」
優しく背中を撫でる声がある。
それは長い間焦がれ続けた、私に向けられた情の籠った声。私に焦点の合った愛。
「樹里亜?」
歓喜を以て振り向いた私の、肩口が熱く弾けた。自分の肉が食い破られたと気が付くまでに呆けた間があった。
暗闇に浮かぶ、青白い微笑み。その口元は私の血で黒く染められていた。ずいぶん遅れて自分が擬人花に襲われたのだと理解した。裏路地に身を隠して、香水で前後不覚に陥った私は格好の獲物だった。血の臭いが満ちる。私の花から、痛みを緩和すべく興奮の香気が放たれる。
霞んだ視界では犯人の姿をはっきりと捉えることができない。それでも目を凝らし辛うじて姿形を見分ける。擬人花は花の咲いていない、ひとの姿をしていた。
「貴方のにく、美味しいね。恋をするとね、身体が弛緩して肉が柔らかくなるの」
私の肉を咀嚼した擬人花が、湿った吐息を吐き出す。
「忘れさせてくれるの。この味が忘れられないの。大好きよ、あなたのこと。あなたの味、とっても大好き」
彼女は味を反芻して、滾る想いを口にする。
「どうして……どうしてなの、私たちを襲うの?」
朦朧とする頭で疑問を繰り返すことしかできなかった。
「本能だよ。血肉を喰らい、花を咲かす。それが花人としてあるべき姿。ひとを食べてこその花人ですもの。一口で虜になるわ。私たちが求めていた、本物の愛はここにあったんだって、きっとわかるでしょう」
私の肉を咀嚼した彼女から、大輪の花が芽吹く。暗闇で発光する白い花。花を持たなかったはずの擬人花の身体から、次々に芽が肉を破り、花を開かせていく。
「あなた、花人なの?」
「もちろんよ。花人の他に、なにがいるっていうの?」
熱が走る。今度は左の二の腕。擬人花は私の周りを踊るように飛び回り、すれ違いざまに肉を噛みちぎって行く。追い払おうとした腕を掻い潜り、脇腹を一口。逃げようと向けた背を裂き、血を吸う。私と擬人花は路地で絡み合い、死の舞踏を繰り広げる。一方的に私が食い破られ、少しずつ、着実に肉が削り取られていく。
逃げなくては。どこへ?
死にたくない。樹里亜のもとへ。
擬人花は次第に調子を上げていく。対して私は徐々に抵抗する力も失っていく。血を流し過ぎた。辺りには私のものとも、擬人花のものともつかない臭気で息苦しい。不幸中の幸いだったのは、香りによる酩酊で痛みを感じないこと。このまま、私も食いつくされてしまうのだろうか。
そんなことは嫌だ、樹里亜に逢いたい。
興奮の香が満ちる。私の脳はとっくに焼き切れて、理性の枷は腐り落ちている。
これ以上食われたら、力を出す筋肉さえなくなってしまう。擬人花は私が抵抗する気力もないと油断しきっている。血肉に酔いしれて、蕩けてすらいる。今の私なら、自分の身体が壊れてしまうことも恐れていない。捨て身の一撃ならば、擬人花を壊すことができる。
この腕はくれてやる。
私を味わおうと無警戒に近づいてきた擬人花。青白い首筋が晒される。彼女は反撃などまるで警戒していない。いままで三人も襲っているのだから、此度も容易に食えると思い込でいる。
その無防備な首めがけて、右腕を振るった。自分の腕ごとへし折るつもりで、飛び込むように振り抜いた。小気味いい感触が痺れた神経を伝って、私の脳まで届いた。
勢いよく石畳に叩きつけられ、上から私の全体重がのしかかった彼女の頸椎はあっけなく折れた。私はそこで手を緩めず、膝を心臓の真上に突き落とす。肺が潰れて、折れた肋骨が皮を破って飛び出した。今度は逆に、私が彼女の頸に食らいついた。花を毟り、肉を食む。
擬人花が花人だとすれば、容易にくたばってくれない。徹底的に殺さなくては。
音が遠い。匂いも、手触りも。
ただ衝動に任せて拳を振るった。身体を貪った。
噛みつき、引き千切り、指先ひとつ動かなくなるまで。
ころせ、ころせ、たべろ、たべろ。
馬乗りになって、獣のように。激しく、情熱的に、愛し合うのだ。
そうか、これが本当の愛だ。
気持ちがいい。生まれて初めて、解き放たれた気がした。
私はずっと、こうしたかったんだとわかった。
耳元でだれかが恥じらいもなく喘いでいる。
目の前の真っ赤な霞が晴れていく。
私の前には皮膚を突き破って骨がはみ出た拳が。黒いヘドロが広がり、仕舞い忘れた腸が無邪気に体外にのたくっている。どうやら私の下敷きになっているらしい誰か。頭は小さくて、我を忘れた私では殴りにくかったようだ。顔だけは綺麗なまま残されていた。耳はねじられ、鼻は噛みつかれていたけれど。どうにも見覚えのある顔のようだった。
「はは……なんで、なんでなの?」
嗤っていた。泣いていた。気持ちが良かった。絶望だった。
「樹里亜?」
樹里亜だった。樹里亜が死にかけていた。
私が殺したのだろう。私が食ったのだろう。私が肉に変えてしまった。
樹里亜だった。
擬人花は樹里亜だった。
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