垂直落花 3
「こんなこと、あっていいはずがない」
あなたは太夫の誘惑を受けて、その頬を染めることさえしない。樹里亜の開いた瞳孔には、青白いあなたの姿が浮かんでいる。ありえるはずのない、ありえてはならない情景に、樹沙も観衆たちも声を出せなかった。
「教えて」
私の背を出て一歩、樹里亜に詰め寄るあなた。
あなたが指を伸ばす。樹里亜に咲き誇る花へ、陽光を目指して繁茂する蔓のように。静止した私たちのなかで唯一動く存在となって、太夫さえも呑み込もうとするように。得体のしれない恐ろしさが過った。果たしてこの子が擬人花でないと、本当に断言できるのだろうかと疑いさえした。物理的に犯行不能なことは理解できても、今のあなたには拭いきれない無機質さがあった。我々とは違う、と直感的に忌避させるものが。
指先が樹里亜の肌に触れかけた、そのとき、我々花人のもっとも深い恐れる出来事が起こった。
白い切片が舞い落ちた。それは花だ。
樹里亜の、純白の百合の花びらが散った。
糸が切れたように、額からぷっつりと離れる。一枚、また一枚と重たい百合の花弁が地に落ち、泥に汚れていく。生気を失った花びらは、見る間に萎れて乾いていく。
絶叫だ。
生ぬるい『植物園』には場違いな、誰も聞いたことがない慟哭。
それは誰のものだったか。樹里亜のものか、あるいは樹沙か、集まった花人のひとりか。
狂ったように、その悲鳴はめちゃくちゃな音程で、喉から噴き出して辺りにばら撒かれた。途切れることなく、震えたまま。自傷行為よりも醜く、痛く、悲しくて、聞くに堪えなかった。私は耳を塞ぎたかったけれど、どうしてか手は動いてくれなくて、その悲鳴を聞き続けるしかなかった。
あなたは鳴り続ける絶叫に驚いて振り返る。目を丸くして私を見返す。どうしてか私に抱き着いて、その薄べったい胸に私の頭を押し当てた。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」
いつかのお返しのように、あなたは私の耳元で繰り返した。
私は平気だから、と言おうとしたけど、形を保った言葉は出なかった。喉はやけにひりついて、肺は空気を求めてもがいていた。
ああ、そうか、と。叫んでいたのは私だったのか。
私の中で絶対だったもの。信じていたもの。それは樹里亜の美しさであり、失われることなんて考えたこともなかった。私がいくら傷付いたとしても、なくなってしまうものなんかないと。明日が来ることと同じぐらい絶対的で、永遠で、だから安心して憧れていられた。
「樹里亜、こんな子なんて捨て置いて帰ろう」
樹沙が素早く花びらを拾い集め、呆然とする樹里亜を抱きかかえる。花が散ったことに気が付いた人間を数えるように視線を巡らせる。けれど、もう遅い。最前列にいた子たちは、私が叫んで異常を知らせなくともその眼に捉えていた。花が散る瞬間は、彼女らの脳に焼き付いていた。
「う、嘘よね……まさか、擬人花は、私たちの花を枯らしてしまうの?」
群衆に恐怖が伝染する。
太夫が篭絡できない子が、あろうことか太夫の花を散らした。事実とは違ったとしても、花人らの眼にはそうに映った。思い込みの力は強烈で、あなたは彼女らには明確な災いと認められた。
死の恐怖だ。恋を失う、愛を奪われる恐れだ。
前列の子らが逃げ出そうと人垣を押し込む。異常事態が伝播していって、奥の方で状況を理解していない子たちにまで恐慌が波となって伝わる。香りが感情を媒介して、事情を知り得ない子たちにまで混乱を増幅させる。事態を理解していないのに、恐れだけを与えられた子たち。倒れ、踏みつけられ、叫びが廻る。痛みが充満する。群衆は瞬く間に阿鼻叫喚の坩堝と化した。
「樹里亜、樹里亜ぁ……」
私は彼女を求めて目を走らせる。
混乱のただ中、人垣を割って逃げ出す樹里亜たちの背中をみつける。樹沙ら数人の取り巻きたちが、ほかの花人らを強引に昏倒させて人垣を踏み越えていた。花人は怪我で死なないと了解しきった遠慮なない手つきだった。自ら興奮の香を発して、過ぎた力を振るう。
私が目の当たりにしたのは、花人の異常な膂力だ。通常では考えられない力を出す樹里亜の取り巻きたち。興奮の香で脳を活性させる。何かの本で読んだことがある。記憶の底から人間の筋力に関する噂を引っ張り上げた。曰く、人間は脳に制御され全力を出すことができないのだと。興奮の香気にはその枷を外し、暴力的にさせる力があるのではないか、と気付いた。
なぜ彼女たちがそのような匂いの効果を知り得たのか、そこまでのことを考える余裕はなかった。ただ、私にも力が振るえると理解した。
私はあなたの手を振りほどき、その背中に追いすがった。興奮に身を任せ、人垣を踏み越えた。血の上った頭では疲れも感じにくく、息苦しさも忘れさせた。逃げ出す彼女らは樹里亜を抱えていて、追いつくのにはさほど時間もかからなかった。
一行が混乱の中心から離れ、人気がなくなった路地に入り込んだところで樹沙の肩を掴む。興奮も少しは抜け、私も辛うじてひとの言葉を取り戻していた。
「樹里亜はどうなっているッ? 花、花が散るだなんて! お前はわかっていた、予め知っていたんだッ」
樹沙の反応が嫌に早かった。花が落ちて驚きよりも先に行動していた。これがはじめてじゃないのだ。以前から樹里亜の状態を知っていて隠していた。
「体調が悪かっただけ。いいから、放してくれる?」
「そんな説明で引き下がれるかッ……花が落ちた。この意味がわからない花人はいない」
花が落ちる。それは花人としての終わり。樹里亜は朽ちようとしている。
目撃した子らはあなたのせいだと勘違いしたようだが、そうではない。花園から帰還した樹里亜はなんらかの病変を抱えている。花を落してしまうほど深い苦痛。
「わかった……けど、あとにして」
私が引き下がらないのを知り、樹沙は観念して息を吐いた。
「まずは樹里亜を安静に寝かせてから。燦風路の樹里亜の屋敷、わかるでしょう。その裏口で待ち合わせ。夜更けにまた会いましょう。そこで事情を説明するから」
そういって彼女は私の手になにかを握り込ませた。
「なに?」
掌には細工の凝った透明な小瓶。螺旋にねじられた、涙型の丸底瓶。なかには同じく透明な液体が揺れ動く。
「くるときは誰にも見られないようにして。顔を隠して、匂いはこの香水で誤魔化して。いい? 絶対に誰にも悟られないで。知ろうとするなら、あなたにも樹里亜の秘密を守る義務がある」
樹沙はしつこいぐらい念押しする。
「わかってる。樹里亜の傷をひとに晒すわけない」
「誰にもよ? 藤香にも、あの子にも」
樹沙は私の後ろを見遣り、あなたが後を追ってきてないことを確認する。私は今さらになって、混乱のただ中にあなたを置き去りにしてきたことに気が付いた。背中に悪寒が滑り落ち、熱くなった頭が急速に冷えていく。
「あの子のこと、あなたは本当に擬人花だと疑っていないの?」
去り際に、樹沙は探るように私の瞳を覗き込んだ。
「当たり前だよ、私が母胎樹から取り上げたんだもの」
「そう……なら、いいの。安心した。樹里亜にも話して誤解を解いておくから」
「仲間内を疑うことほど、馬鹿なことはないよ」
「もちろん、そうだよね。愛し合ってこその花人だものね?」
樹沙は意味ありげに怪しく微笑んで、樹里亜のもとへと駆けて行った。太夫が秘密主義なのはもちろんのことだが、彼女は一体なにを知っているのだろうか。少なくとも樹沙は私よりも深みにいる。この『植物園』の影の一端に触れている。
私の心は不安の翳に覆い尽くされていく。
ほとんどの花人が知らない土の下に、想像も及ばない化け物が蠢いている気がしてならないのだ。
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