垂直落花 2
方々を探し回ったあげく、あなたは意外にも燦風路のただ中にぽつねんと立ち尽くしていた。楼閣をぼんやりと見上げる姿は――花の咲いていないその姿は、私たちから隔絶していながら寂しそうでも孤独でもなくて。荒野に咲く一輪の花に思えた。背中は曲がっておらず、顔をうつむかせることもなく。恥も隠し事もない。きれいなあなた。ただ、今夜はあなたにとっていい機会ではなかった。道行く花人らが、あなたを遠巻きに目配せを交わし、密かに耳打ちをする。うっすらと帯びる警戒と敵意、好奇心、興奮の香りが宵闇を仄かに色付けていく。
「ねぇ、あの子。もしかして――」
囁きがさざ波となって伝播していく。
私たちがあなたを棲家に落ち着けさせたことも悪い方へと作用した。誰も生まれたばかりのあなたの顔を知らない。擬人花の話題で持ち切りの街に、花を持たない姿は異様に映り、あらぬ疑いを呼び込んでしまう。
「早速、太夫様に伝えなくっちゃ」
彼女らが遠からず思い至ることだった。あちこちから、動き出す花人らの気配が感じられる。噂はひとを寄せ集め、ちょっとした騒ぎに発展していく。ひとが見る間に燦風路を埋め尽くしていく。
「ねぇ、ちょっと。あの子は違うの……!」
私の呼びかけは色めきだした群衆にかき消され、あなたを囲い始めた花人らの生垣で進路を塞がれる。事情を知らないあなたはぼんやりとしているものの、周囲の視線に気が付いて首を傾げる。まさに殺人犯と誤解されていることなどわかるはずもなく、花人らの尖った香りに戸惑いを浮かべる。
「あなた、ひと殺しなんでしょう? 花人の味ってどんなの、やっぱり甘美なのかしら?」
群衆から好奇心に圧し負けた子が問いかける。堰を切って、揶揄うような軽薄な野次が飛びはじめる。
「意味わからない、誰? 何の用?」
あなたもあなたでぶっきらぼうな返事しかできない。自分のことを説明して疑いを解くことはできそうにもない。ひとがひとを呼び集め、生け垣は深く厚みを増して行く手を塞ぐ。あなたが通ろうとする道を真正面から塞ぎ、逃がすまいと押し留める。
「通して、帰りたい」
手が伸びて、あなたの薄い胸を突き飛ばす。尻もちをついたあなたは驚いた顔で花人らを見上げる。
徐々に包囲の輪が狭まって行く。私はなんとか前に出ようともがくけれど、隙間すらなく、ひと垣を押しのけられない。
「その子は違う、違うってば!」
私の声もひといきれに呑まれ、放った沈静の香りさえも数に掻き消される。
「太夫がいらしたわ、道を開けて」
誰かが叫んだ途端、じりじりと進んでいた輪が止まり、さぁっと一斉に人垣が割れて道ができる。
事態が良くない方向へと流されていく。このような状況であなたが太夫と対面することは、間が悪すぎるとしか言いようがない。もし、この対面で初恋を実らせてしまったなら、相手への心証が悪すぎる。初恋を抱えたまま、思い人には疎んじられることになってしまう。その辛さは想像するに余りある。いまの私以上に身を切る痛みを伴うだろう。藤香は干渉すべきでないと言ったけれど、私はあなたの恋を呪いにしたくはない。
私がもがいている間に、太夫とその取り巻きがあなたの前に到達する。
「樹里亜っ」
よりにもよって、やってきた太夫は樹里亜だった。その傍らには樹沙も控えている。ふたりとも擬人花事件のことは了解している様子で、あなたを深い疑いの眼差しで睨めつける。
「あなたね、噂の擬人花さん?」
樹里亜があなたを見下ろしていう。樹沙は言葉こそ交わしていないが、あなたと一度会っているのに覚えていないらしい。一人目の犠牲者を発見したとき、私を呼びに来たのが樹沙だった。その場には藤香とあなたも一緒にいたのに、気が高ぶっていて目に入っていなかったのだろうか。
「なにも喋れなくなる前にひとつ聞かせて欲しいのだけど、殺人の動機はなにかしら。私の可愛い恋人たちを殺して、あなたにどんないいことがあったのか。ぜひ、教えてもらえない?」
樹里亜の全身に咲く白い百合から放たれる香り。私の憧れた、包み込むような優しさとは遠くかけ離れた、細く鋭利な緊張感に毛穴が引き締まる。吸い込んだ肺に突き刺さり血を流させる、研ぎ澄まされた敵意。取り囲んでいた花人らも、太夫の感情を嗅ぎ取って動揺する。それは私たちが味わってきた愛とは、まるで形の違う感情だったから。
最前列にいた子たちは敵意の香りで息を震わせる。このときほど花人の感受性の豊かさを呪ったことはない。香りの届く限り、全方位に凶器を突きつけられているようなものだ。香りはひとところに留まることができず、大気に拡散する。花人らは放たれた殺意に後退る。心の弱い子は膝をつき、涙さえ零した。まるで自分に向けられているかのように、畏れ慄いた。
殺されたのは樹里亜の恋人だったのか。擬人花事件に太夫が積極的だった理由は、樹里亜の気持ちを汲んでのことだったのだろう。恋人を殺されて平静でいられるはずがない。はじめてみる樹里亜の怒り。混じり合った少しの悲しみ。そして、嗅ぎ慣れた不安定な臭み。調和のなかに紛れ込んだそれを、私は罪悪感と呼んでいた。
なぜ樹里亜がそのような感情を抱く必要がある?
「さつじん、なに? 私、あんたなんか知らない。意味わからない」
鈍感なのか、気丈さ故か。あなたはひるむことなく、真正面から樹里亜を見つめ返した。香りに対して恐れがないのは、あなたが母胎樹から記憶を受け継いでいないせいだろうか。知らなければ、怖いと感じることもできないのか。
「おしゃべりは嫌いなのね」
「きらい、ちがう。たくさんしゃべる、考えること時間かかる。だから、そんなにしゃべらない」
あなたはわからないなりに一生懸命対応しようとしているのだが、それが樹里亜には伝わらない。
「そう、ならもういいわ」
不器用な態度が、挑みかかってくるように思われたのだろう。樹里亜が髪を掻き上げ、うなじに咲いた百合を晒した。樹沙でさえも息を呑んで、彼女から距離を取る。
香りが濃く垂れこめる。彼女の香気で、その殺意で、篭絡する気だ。
花人の、太夫のやり方で、殺人をやり返そうというのだ。その圧倒的な魅力で、心も意識も溶かして、息をするだけの木偶にしてしまおうとする。
「これ、なに?」
さすがのあなたも異変に気が付き、身体の痺れに膝を折った。
私も例にもれず、鼻から侵入する殺意に指を震わせた。それでも退くことはしない。人垣が崩れた今なら前に出ることができる。あなたを守らなくては、と自身を鼓舞して足を動かす。
「樹里亜ッ、この子は違います」
あなたを庇って、ふたりの間に身体を滑り込ませる。樹里亜が褒めてくれた――彼女は覚えてもいないだろうけど――私の香気で殺気を阻もうとする。私の花は香りが人一倍強い。咲いている数が少なくとも、数十秒耐えるぐらいは可能だ。
「あなた……どうか邪魔をしないでいて」
かすかに動揺が彼女の眼に走ったのを、私は見逃さなかった。
「この子は先日生まれたばかりで、初恋も知りません。事件のあった夜は街にはいませんでした。私の棲家にいたのです。だから、この子に愛を無理強いするのはやめてください」
「遠慮する必要がどこにあるの? 虜にして喋らせればいいんだよ。あなたの言葉はあてにならない。庇っているだけかもしれないし、あなたの眼を盗んで街へ出かけたのかも。あなただって、自分が擬態した化け物じゃないって証明できないでしょう?」
私の懇願に対して、反論をしたのは樹沙だった。
「樹沙ッ、あなたはこの子に会っているはずでしょう?」
「さぁ、見覚えないね。だいたいさ、生まれたばかりの子を自分たちの家に押し留めておくなんて怪しいよ。積極的に恋を覚えさせて、立派な花人にしてあげるべきじゃないの? あなたの行動は、匿っているというの」
樹沙は目を細めていう。私の痛いところを的確に突き刺す言葉を知っている。
「あなた、自分の初恋に逆らうつもり?」
ああ、なんてことだろう。
数年ぶりに交わした言葉が、触れ合いが、殺伐としたものだなんて。あなたのために立ちはだかれば、樹里亜は私を嫌いになってしまうかもしれない。それでも、こんな状況なのに。樹里亜の瞳に、私の存在が認識されたことが嬉しいだなんて。もういっそ、敵でもいいからあなたに強く想われたいよ。私の寂しさを埋める、悪い考えが過った。
「落としてしまえばいい話よ」
樹里亜は冷たく言い放った。
間近で見つめたあなたは、怒気を孕んでもなお惚れ惚れする美しさを保っていた。
香りが充満する。もとより私は樹里亜に抵抗できない。こんな強引なやり方、彼女らしくもないけれど、いっそ全部を奪われてしまいたい。私の一部の欲求は素直に喜んでいた。
観衆となっていた花人らの数人が、頬を紅潮させて胸を抑える。私も例に漏れず、身体が疼く。こんなに接近して誘惑されたのは生まれて初めてだ。
爪が内側からの圧力で浮き上がる。ぱきり、と乾いた音がして、小指の爪が根元から割れた。膝の関節が軋んで痛む。毛穴がほじくられるようにこじ開けられる。肉の内から、感情が湧きあがってくる。理性では留めようもない、花人らのもっとも根本的な欲求が突き上げる。
花が咲く。
欲求を引き摺り出される。
恋に身体が突き落とされる。
「どうして」
しかし、息を呑んだのは樹里亜の方だった。
彼女の視線を追って、背後へと目を向ける。そこにはあなたが変わらぬ姿で立っていた。恋に眼を濁らせることなく、ありのままのあなたで、変わらぬあなたでそこに在った。太夫の誘惑を以てしても、恋に落ちることのない少女。
「こい、なに? それ」
あなたは率直な疑問を口にした。
恋の味を知らないあなた。本来は母胎樹から記憶として引き継ぐものだった。記憶が欠けている未熟なあなたは、発せられる香りの意味も、美しい相貌も、なにひとつ理解できずにいる。あなたのなかで、それは未だ魅力的な価値を持っていないのだ。
今度は樹里亜が身を凍らせる番だった。
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