脳花垂体 2

「私は桂花と取引をした。桂花は知っていた。『花園』で管理をしていたとき、彼女は『百香白劫』を私に嗅がせたのです。どこに隠し持っていたのか、十年間待ち望んでいた香りを、彼女はなぜか持ち歩いていた。香りを失い、愛に飢え、枯れ果てた人間は無数にいる。

 あれはすべての国民を従わせるために散布された。逃れられたものはいない。労働の現場では生産力向上のために常用され、通勤列車の閉鎖空間、映像番組でプロパガンダが流れるタイミングで、愛の香りが街に溢れた。樹里亜から絞れるだけ絞った。数十倍に希釈しても効力は落ちない代物だ。与党が支持率を維持するぐらいなんでもない」

「人間の事情なんかどうでもいい。桂花とのやりとりを話せ」

 命令する口調は、自分の唇から発せられたものとは思えぬ冷酷さを帯びていた。桂花が持っていたという『百香白劫』の香水。私の危惧は十中八九外れていない。あの透明な小瓶の中身。あれこそ『百香白劫』だったのだ。あの香りを嗅いだ花陀はそれに気がついたのだ。気がついた上で激高した。なぜか。

 あのとき花陀は、私が造ったものと誤解した。なぜか。

 庭師は私の香りを嗅いで『百香白劫』だと断言した。なぜか。

 よく考えろ。少しも考えるな。

 よく思い出せ。もう記憶を探るな。

 扉の鍵は私の掌に握られている。ドアノブに指が掛かっている。

 開けてはいけない。

 知ってはいけない。

「『百香白劫』の在処を教える代わりに、誤魔化すよう持ちかけられたのです。桂花の食事を偽って報告し、本来得られるはずの体液を別の花人のものと混ぜて虚偽の収穫を計上した。幸い桂花の香水は重用されていないものだったから、誤魔化したところで露見する危険は小さかった」

「食事を偽ったとは? 桂花自身がそれを望んだというの?」

 桂花が枯れた原因が栄養失調だったことを思い起こす。自ら餓死したというのか。どうして自死するような真似を。しかし、彼女は生きながらえ戻ってきた。その意図はなんだ。

「食べたくないと我が侭をいうもので。あいつは舌が肥えていたんですよ。なんでも人間と花人では味の深み、複雑さが比にならないそうで」

「なにを言っているんだ、お前は……それじゃあ、まるで花人が共食いするみたいな」

 いいや、私はその感覚を知っているはずだ。頭の中でもうひとりの私が囁いた。

 体温で溶けた脂肪が、血と絡み合って喉を滑り落ちる旨さ。宴で肉をむさぼった記憶が神経に焼き付いている。庭師の言葉を裏付けるような肉の喜びだ。

 いいや、いいや。そうじゃないよ。お前は食べていたはずだ。もっと、深く、たくさん楽しんでいたはずさ。

 うるさい、勝手にしゃべるな。誰だ、それは私のことじゃない。

「アはは、なにを今更。花人は人間を食う食人植物の生物兵器だろう。人に紛れ、人を喰い、人の精で繁殖する。フラワーチャイルドのなれの果て。戦地の男を貪る、悪い娼婦の化け物。妖艶さで男を誘い、美貌で思考力を、香りで体の自由を奪い、肉をむさぼり欲望を満たす。浅ましい、これほど利己的な兵器も他にない。人を食うことで絶頂に達する生き物なんてッ、す、素晴らしいよッ」

「……擬人花」

 花人を食らう化け物の噂。

 あれは私たち花人自身のことを暗に指していたことだったのか。

 考えるな。これ以上知ろうとするな。

 扉を開けてはいけない。

 宵藤太夫は言った。桂花は『花園』でなにもしなかったと。なにもしなかったから枯れてしまったのだと。花人は食らう。『花園』で人間を食らう。

「おわかりでしょう? 香水の原料は花人の体液。行為によって滴る愛液。欲を満たされることで、脳内で精製される快楽物質が維管束を通って、体外にまで染み出してくる。とんだ麻薬だよ」

 食べる快楽を知ってしまった。

 満たされない飢えと乾きを知ってしまった。

 どうしようもなく、庭師の言葉が本当のことだと解ってしまった。

 私が囁く――生まれながらに背負った罪の味、思い出したかい?

「で、でも私たちは、人間なんか食べない。共食いなんかしていない。それでも平気じゃない」

 口にして、その言葉の弱さにひるんだ。私たちが肉を食べなくて平気なのは、十分な栄養が与えられているからだ。水路を通じて、水に溶けた養分が、絶えることなく流れ続けている。いつでも好きなときに。空腹の感覚など知らぬ子の方が多い。『庭園』では養分が飽和している。花人同士で愛を交換し合う。飢える隙間もない。

「太夫たちは、肉の味を知ってしまうともう戻れないと言います。養分の溶けた水では味気ないと。同族同士のマンネリ化した恋愛では刺激が足りないと」

 『蜜造酒』の製造方法。ひとを食らうこと。

 本物の興奮と快楽に反応して、花人の内側から溢れる快楽物質。花の香りなんか比較にならない快楽の毒を吐き出す。

 桂花の持っていた小瓶の中身。あれはきっと原液だ。香水になる前の、薄められる前の、生の愛液。垂れ落ちた、搾りたての、ありのままの快楽。

 花陀が過剰にも思える反応を示した理由も解る。誤解させたのだ。仲間を喰殺して、『蜜造酒』を得たのではないかと。

「桂花はなにを考えているの」

 私はまだ恐ろしくて、その考えに及ばないでいる。直感はある、手がかりはもう全て揃っている。指を伸ばせば届く。

「さぁ、もう私はすっかり話しました。桂花のことなど、もうどうでもよいことだ。私はあなたが欲しいんだ、樹里亜。あなたの愛があれば、すべてがうまくいく。怯えながら化け物の世話をする必要もない。金の苦労もない。それどころか、私を侮蔑した連中を意のままにすることさえ。肥え太った政治家を廃して、私と同等の苦しみと愛を――」

 庭師の言葉は最後まで続かなかった。いいや、私が続けさせなかった。防護服の亀裂に口を付け、私の吐息を吹き込んだ。肺胞いっぱいにため込んだ、私の香りを一息に注ぎ入れた。

「あなたが欲しがっていたものよ」

 知りたくもなかったことをたくさん教えてくれて、ありがとう。庭師は脆く崩れ落ちた。目も虚ろに体を快感に震わせるだけの木偶になり果てた。

 宵藤太夫が外を目指して、人間に反旗を翻そうとするわけだ。花人は所詮人間に飼われて、利用されているだけの家畜だった。彼らは我々を恐れながらも、その甘い蜜を吸い上げ続けてきた。宵藤太夫の言葉通り、病原菌など閉じこめておくための方便に過ぎない。

 我々は徹底的に管理され、逃げ出すこともできない。今まではそうだった。

 樹里亜。

 彼女の分泌する快楽が現れるまでは。

 人間はすでに使ってしまった。愛着の指向性を定められる便利な催眠薬として。しかし、彼女の愛はそんなに生優しくはない。私の足元で果てた庭師のように。第二、第三の中毒者が『百香白劫』を求め、檻を綻ばせる。壁に穴をあける。彼らは愛のために全てを差し出す。愛に従順に、愛に捧げる。

 宵藤太夫は完成品の『百香白劫』を求めている。十年前に作り出された。刷り込みの余地がある不完全な愛を与えるものではなく。誤解も、解釈の余地もなく虜にする、愛の完成を望んでいる。私にも察しがつく。

「桂花、桂花はどこ?」

 そんなのどうだっていいことだ。宵藤太夫の企みも、閉じこめられた花人の悲哀も、人間どもの欲望も。

 桂花はどこにいるの?

 彼女の愛が確かめられたなら、他はすべてそよ風にも等しい些事だ。

 今まで信じてきた、彼女の愛の確かさが揺らいでいる。

 ねぇ、私のこと裏切ってなんか、いないよね?

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る