狂花酔月 4

 街の夜は孤独な私に辛くあたった。

 気候調整のための霧雨が、汗ばむように身体を濡らす。じっとりと肌にまとわりついて不快感が募る。萎れる私とは対照的に、花人たちは潤いに歓喜し、服を脱ぎ捨て街路に飛び出て夜雨を浴びる。緑の燐光を放つ生白い肌をくねらせて、肌を合わせて、踊る、躍る。踏々と。

 花は艶を増して、体温で蒸発する水分に花の香を紛れ込ませる。燦風路は甘ったるい靄で包み込まれ、ほの白く濁る。あやふやな視界に浮かび上がる灯籠と、艶めかしくうねる花人ら肢体。彼我の境界がにじんでぼやけ、身体が正体を失くし、狂喜と快楽に混ざり合う。色香に酔っぱらった花人たちの猥雑な喘ぎがあちこちからあがり、夜の街は狂騒に色めき立つ。

 花人の街の夜。祝祭の催しに相応しい色狂い。

 花びらはくるくる廻る。

 私はそれを呆うとして眺めていた。惨めな身体を引き摺って、とても家に帰れる気分ではなかった。今頃、樹里亜はこの街のどこかで、私以外の誰かと愛を語らっているのだろう。私は土から引っこ抜かれた哀れな花だった。思いこんでいた恋の根っこが引き抜かれて、宙に揺れている。路傍に打ち捨てられて、やがて乾いて枯れるだろう。そんな私を、誰が見つけてくれるというのか。誰が愛するというのだろうか。哀れな花は憐憫を誘うけれど、恋や愛の対象とは程遠い。

 もういっそ、目も当てられないほど美しさから落ちぶれて、哀れみを誘ったほうが構ってもらえるだろうか。あいはあいでも、もらえる哀がある方がいい。

 もういっそ、花なんて捨てようか。そんなことを、街の陰のうらぶれた路地にへたり込んで、ぐるぐると出口の見えない、下降する思考の螺旋階段を下り続ける。

 自棄になった私など、藤香さえ見放すだろう。同情にも限度がある。

 これからのことなんて考えられなかった。花人の寿命は限りなく永い。花人の肉体では自死することも難しい。壁を越えて誰もいないどこかへ逃げることもできない。愛されない花が生きていくには、この箱庭は狭すぎる。孤独と肩身の狭さを抱えて、悠久の時をぼんやりとして生きる。いつ終わるとも知れない、永い永い時間を、愛という栄養を与えてもらえずに飢えたまんまで、ただ指をくわえて過ごすのだ。

 それは想像を絶する苦しみだろう。

 人間の物語には地獄という場所があるという。それはきっと、こんなところだ。

 自分ひとりが恵みに与れず、さりとて逃げ出すことも叶わず。

 それをきっと、飢え、というのだ。

 もういっそ、意思も感情もない植物になれたなら。

「そうか……きちんと失えばいいのか」

 思いついたのは花人だけに許された自殺のやり方。失恋だ。

 私はきちんと、面と向かって樹里亜に拒絶されたらいいのだ。かすかな希望も残さないよう、わずかな誤解も許さないよう。きっぱりと、無慈悲に手折ってもらえばいい。ひとを恋に落としてそれきりなんて酷いじゃないか。だから、最後に恋を終わらせる手伝いをする責任ぐらい、あのひとに押し付けてもいい。

 恋はひとりでは終われない。せめて、終わりぐらいはあなたと一緒がいい。

 やることが決まったら、なんだか頭がすっきりとした。もうすぐ花人じゃなくなるとしても、枯れて死んでしまうとしても、このまま生き続けるよりはるかに素敵なことで。もういっそ、私の方から嫌いになった、と言ってやりたいぐらい。吹っ切れた、晴れやかな気分だった。

 そうと決まれば、樹里亜を探しに行かなきゃ。

 今すぐにでも振ってもらいたくて、なんだかとてもヘンなんだけど、水溜りを跳ね飛ばすぐらい陽気になって裏路地を駆けた。空元気を吹かし過ぎて、自分の失恋への期待のほかは、耳に入らなくなって、なにも考えられなくなっていた。

 だから、彼女らの行為の真っ最中に踏み込んでしまったのは、完全なる私の不注意だった。

 街の陰に沈殿した暗い喘ぎ。

 それは色恋の華やかさに隠れた汚濁の煮凝りのようでもあり、離れがたい中毒性のある快楽のようでもあった。

 隙間なく身体と身体が咬合し、かくして文字通り噛み合っているのであった。

 二人目。

 食事を目の当たりにしながら、脳の奥底で冷静な私が指折り数えた。

 図書館の本で、食べちゃいたいぐらい可愛い、という表現を読んだことがある。語感に反して、食べちゃってる姿は可愛さとかけ離れている。

 野生の獣をはじめて目のあたりにした。そう直感した。

 知識としては野生動物の存在を知っているが、直に目にしたことはない。『植物園』内には病気の媒介となる動物は締め切られ、一切生息していない。動くものは私たち花人のみ。だから、眼前には物語や記録のなかで息づいていた野生の本能――飢え、闘争、繁殖、生存――が解き放たれていた。

 生と死の稜線が、私たちからもっとも縁遠い生への渇望が、蝋燭の火先のように揺れていた。

 彼女たちはほんの十歩しか離れていない石畳で、抱き合って交互にターンする。首元に齧りつき、力任せに乳房を引き裂き、足を踏みつけて一寸失礼を。視線を崩しそうになると落葉のように身を翻す。どちらかが死んで地に臥すまで、絡み合うふたりは死の舞踏を演じきる。

 あたりに漂う吐き気を催す香気に咽る。喉に、肺にへばりつく粘っこさに嗚咽が涙を流させる。激しく咳込んだ。出してはいけない物音を立ててしまう。

 雨だ。雨が香りの拡散を防ぐ檻となって、誰にも気が付かれることなく行為に没頭させていた。私が迷い込むまでは。

 目が合った。

 彼女は口に咥えていた獲物を放す。ぼろきれになった子は一人目よりは身体が繋がっていたけれど、力なく突っ伏して微動だにしない。仰向けになった腹部には食い破られた穴があった。ちょうど臍のあたり。内臓が散々引っ張り出されて、赤い前掛けが垂れ下がっていた。

 胚種がない。

 花人にあるべき核が、被害者の彼女からすっかり抜け落ちていた。

 駄目だ。あの身体はもう死んでしまっている。

 まさか、彼女が食べてしまったのか?

 うん、きっと食われたんだ。

 全身肉と血と雨で濡れそぼった彼女。髪が張り付いて顔を覆い隠している。身体に咲いているはずの花がない。自らむしったのか、それとも本当に擬人花なのだろうか。

 わかっているのは、目の前の彼女が、明確な殺意を抱いて花人を殺したということだ。

 一人目のときは衝動に駆られた、ある種の情熱的な犯行現場だった。熱に浮かされ、理性を剥ぎ取られた、一夜の盛り上がりにも似た香りを嗅ぎ取った。けれど、二人目の彼女は違う。

 胚種を的確に狙われていた。殺す意志がそこにあった。冷静な思考が、最初に胚種を穿つことを求めさせた。

 花人にとって枯死よりも酷い死に様があるだろうか。

 食われて死ぬことは酷いだろうか。悲しいだろうか。哀れだろうか。

 彼女が足を踏み出した。私に向かって、擦り寄せるように一歩。

 彼女は肌の毛穴から蒸発するのがみえるぐらい、あからさまな殺意を発していた。その眼が私も食べる、と決めていた。他人から直接殺意を向けられるのははじめてだった。花人同士で殺し合うなんて、考えられないことだったから。

 死の直感は私の肌を突き刺し、心から感情を垂れ流させた。

 怖い。ゆっくり締めつける孤独の苦しみとは違う。もっと切実な、眼前に突きつけられた、切っ先の鋭い恐怖。

 喘ぐ。息が、短く、細く、喘ぐ。

 先ほどまで失恋自殺を考えていたはずなのに、食べて殺されることは怖いという。

 私は死にたくないという。

 嫌だ。樹里亜のほかに、私を殺していいひとがいるはずない。

 樹里亜じゃなきゃ、嫌だ。

 水溜りが跳ねたのが、合図だった。

 背を向けて、一目散に駆けだした。

 死にたくない夜、裸足で逃げ出した。

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