四章 御伽花死
御伽花死 1
「みない顔がいると思ったら、ひとところに拘るのはやめにしたんだ?」
突然、背後からしなだれかかられる。跳び上がった心臓を香りの薄膜が柔らかく包む。温かな陽だまりの匂いに首筋を包まれて、無条件の安心感を与えられる。自分がなにをしていたか、咄嗟に忘れるには十分だった。
「顔青いけど、どういう心境の変化なの」
淫靡な夜気を打ち払う蒲公英が、幼い顔をほころばせて無邪気に戯れる。彼女が現れると場が陽だまりに変わる。蒲公英の香気は眠気を誘う。自然とほおが緩み、敵愾心をとろかす沈静の香り。
「
「どうして? 私はあなたと出会ったわ」
「そう。よかったら、あまり外ではじゃれつかないでくれるといいのだけど」
私は姿を暗ましたあの子の視線を気にして、絡む風南を払おうとする。彼女は逆に私の手首を掴んで、わざと口付けをしてみせる。私の気がかりを見透かしたように悪戯をする。
「あら、どうして? 樹沙なんて嫉くだけ嫉かせとけばいいの。あの子の頭は焼け焦げて使い物になりゃしないんだから。楽しいことを我慢するなんておばかなんだよ。それを邪魔するなんてもってのほかなんだわ」
唇の両端、えくぼに咲いた二輪の蒲公英。頭頂部には黄色い花冠がほころぶ。
私は彼女の言葉にぎょっとして目を剥いた。
「どうして樹沙のこと引き合いに出すの?」
桂花ならともかく、樹沙とのことは誰にも知られないように隠していたつもりだ。咲いた花は適宜摘んで捨てていたし、棲家だって街からは離れたところにある。ふたりとも人前であからさまにべったりする方ではないし、気付かれていたことに驚いた。
「不思議なことはなにもないわ。樹沙はとぉっても一途だから……それに! あなたたちの性格からして、後ろ向きでじめじめしたお付き合いなんだわ。あなたよりも経験豊富なのよ、鈍感じゃやってらんないの!」
風南は小柄な胸を大きく張った。
風南は自分が咲くより他人を咲かせることの方が得意な花人で、私とほとんど同季でありながら、上位の花人と認められた愛らしさの才能がある子だ。私のように薄暗い日陰者にとっては存在が眩しくて眼が潰れそうになる。誰にでも明るく優しく、距離が近い。魅かれそうになるという意味で、私は彼女のことを苦手としていた。しかし、これはいい機会かもしれない。
樹沙のことも気がかりではあるが、ここは本来の目的を果たそう。『蜜造酒』のことを調べるのだ。
「ねぇ、風南。よかったらどこかの宴に連れて行ってくれない? そうね、できるだけ平和なやつがいい」
「なぁにその言い方。だぁれも捕って食ったりしないわ。でも、嬉しい。月華と宴に出られるなんて、とっても素敵。だって、私ずっと憧れていたんだもの。同季の子と一緒に遊べるのを。あなたってば、ずっと暗い顔でうつむいたり考え込んだり、ずいぶん忙しいみたいだったからね!」
彼女に悪気はないのだろうけど、明け透け過ぎる物言いに眉を上げた。言葉に毒気を感じないのは、生来の陽気さがなせる業だ。
「ちょうどいいわ、あたしがお誘いを受けていた宴に連れて行ってあげる。主催は桂花と懇意にされていた方だから、きっとよくしてくださるわ」
「桂花の知り合い……私、実は桂花の付き合いとか知らなくて。何の催しかわかる?」
「そう怯えなくていいよ。お酒を片手に、お花見するだけ。今夜あたりに見頃だから、集まろうって話になったの」
風南は私の手を引いて導く。過敏になっているだけとわかるが、お酒の言葉を聞いて気にせずにはいられない。
「風南、お酒はよく呑む?」
飲酒自体は珍しくない。それでも怪しまれないよう探りを入れてみる。
「宴に出ればね。それがどうかしたの?」
「私も湿らせる程度は呑んだことあるけど、あまり得意じゃなくて。でも、美味しいのがあるって話を聞いたから。苦手なひとでも呑みやすいものがあるって」
「うーん、作るひとによってピンキリだからね。植物に詳しい子なんかは、そこらに生えている雑草のなかから、ハーブ? 薬味? をみつけて入れるみたい。風味が違って美味しくなるの」
『蜜造酒』はなにか特別なものを入れることでできるのだろうか。花陀の口ぶりからして、製法に特殊な技術が使われていることは間違いなさそうだった。瓶に入った透明な液体からは、添加物によって変化を与えられた印象はなく、純度を増したことで研ぎ澄まされた印象が強く残った。あるいは花の蜜とはまるで別のものから作られた酒なのかもしれない。
風南は私が考え込んでいる間に、入り組んだ路を迷うことなく突き進んでいく。細くて見通しの効かない裏路地は、両端から壁が迫り、圧し潰そうとするような圧迫感で息がつかえた。
「大丈夫? 道合ってるの?」
灯籠の明りが遮られた裏路地の薄暗さ。急に不安に支配されて、訊かずにはいられなかった。
「平気だって。ちゃんとわかってるから」
花陀に騙し討ちされた恐怖から、風南の笑顔の裏を勘繰ってしまう。無邪気さや陽気さは、無自覚な悪意の裏返しではないか、と。
「とうちゃく!」
寄木細工で敷き詰められた家屋に挟まれるようにして、一枚の引き戸が現れた。どこまでが一軒の区切りか見当もつかない緻密さで入り組んだ屋敷。気付けは宴の参加者と思しき花人らが路地に列をなしている。みな、一様に香を焚きしめた黒い布で身体を覆っており、素性がわからない。顔も匂いも押し隠した秘密の宴。ただ酒を呑んで花見をするだけ、ではないのは明白だった。異様な雰囲気に脳内で警鐘が鳴り響く。
振り返って風南を探すが、そこには暗幕で素顔を隠した誰かがいるだけだった。
「さぁ、あなたも」
どこかから風南の声がする。
手渡される覆面。私にも同じ格好をしろということらしい。前にも背後にも覆面の花人に囲まれ、拒否する選択肢を奪われていた。
「大丈夫、捕って食ったりはしないから」
尚も手を動かせずにいると、花人たちによって覆面を被せられた。
視界に薄い斜幕がかかり、顔の周囲が煙たさで密閉される。
よぃよぃ。さぁ、よぃよぃ。
よぅ、よぃよぃ。
奇妙な節のついた掛け声に合わせて、私は両手をひかれ、押し出されるように戸のなかへ導かれる。
よぅ、よぅ、おいでや。よぃよぃ。
座敷の襖がひらく、ひらく、ひらく。蝋燭の明りが揺れ、覆面の花人たちが平伏して来客を迎え入れる。そして、ひらかれる。
花びらがひらひら散り落ちる。
顔をあげると、そこには花束が吊り下げられた豪奢な天井がある。目を疑った。作り物なんかじゃない。よく見ればそれらはすべて花人たちだった。
梁に掛けられた錦織の反物に足を取られて、真っ逆さまに吊るされている。何人も何人も。ぶら下がる。
まるで装飾の一部だ。椿、桔梗、雛菊、山吹――花々が柱となって咲き乱れ、柱から伸びる生白い腕が廊下を通る私の頬を撫でる。
異様な屋敷だった。
花人を家具や装飾として配置された空間。みな、一様に派手に花を咲かせており、顔が花で覆い隠されている。彼女らはときに蠢き、しとしと嗤い、けれども動かず。静物の役割を全うしていた。
花家具の間を抜け、奥へ奥へと入り込む。
通されたのは、回廊で囲まれた正方形の中庭。月明かりに照らされる深い緑の苔むした絨毯。小皿に乗せられた蝋燭が汗をかいている。上座には白い覆面をしたひとりの花人が坐していた。身に着けているのは白いレースで編まれたドレスのようで、身体に密着して洗練された線がなぞれる。彼女が主催なのは間違いなかった。しかし、顔を覆う幕のせいではっきり視えず、誰かまでは判別できない。
よぅ、よぃよぃ。
よぅ、よぃよぃ。
鈴の音来たりて、夜満ちる。
来客たちは口々に唱えながら、中庭に車座に胡坐をかく。私もその輪のなかに取り込まれ、末席に加わる。全員が着席したところで、上座から盃が行き渡るように、手から手へと渡し回される。夜空が映りこむほど白く磨かれた、白磁の盃だ。私はその美しさに息を呑んだ。こんなものを用意できるのは上位の、太夫に近い花人か、太夫そのひとに違いない。
さぁ、よぃよぃ。
掛け声に合わせて盃に酒が注ぎこまれる。縁から指を濡らすほど、たっぷりと膨らんだ水面に弓なりの月が捕らえられた。
さぁ、一献。
盃を乾かせ。
抗えない魔力に引き寄せられ、両手に受けた盃を口元に運ぶ。脳内では危険だとわかっているのに、私は身体を止められなかった。覆面の布の下から酒を吸い上げる。
一口、舌が痺れる。あつい血潮が喉から滑り落ちて、熱を行き渡らせる。
神経が蕩ける。溺れる。しかし、傾ける盃を止められない。
酒は私に思い出させた。蕾が開く、芽吹く感覚を。表皮が一枚ずつめくり上げられ、丸裸の身体が、肉を晒し、恥部を肉のその奥の秘密を、ひらいて、めくって。目覚めて大きく伸びをするように、心の範囲が肉体を追い越して広がっていく開放感。肉を越えた精神は、隣の心をむすんでひらいて、踊り輪を描き廻る。
くるくる、くるくる。繰る狂う。
さぁ、よぃ、よぃ。
むすんで、ひらいて、ひぃらいて。
花が咲く。
お酒を片手に、お花見するだけ。風南の台詞が聞こえてきた。
あられもない歓声があがる。
花が咲く。
輪になった花人のうち、私の隣に坐していた花人の覆面が外れる。
花が咲く。
黒い斜幕が内側から押し出され、浮き上がったところを風にさらわれた。
花が咲く。
私の頬に生暖かい雨が滴った。
内側から。圧し出されるように。大きく伸びをするように。心から芽が出てひらくように。
頭蓋骨が破裂した。
脳から芽がでて花束が。
琥珀色の血で濡れた、大輪の薔薇が乱れ咲く。首からうえ、頭のなかから現れたお花畑。
ぼとり、重さに耐えかねて、真っ赤な薔薇が咲き乱れ、地に落ちた。
さぁ、よぃよぃ。
よぅ、よぃよぃ。
お花が、咲いたよ。
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