二章 頭中花葬

頭中花葬 1

 翌未明、樹沙が目を覚ます前に棲家を後にした。一睡もできなかったうえ、自分の家から逃げ出すような真似をしなければならないとは。鈍重な頭では思考に靄がかかり、なにをすべきなのか考えることがひどく億劫だった。桂花のためにできることいくらでもあるというのに。

 まずは手掛かりである小瓶の正体を知ることからだ。

 『花園』でのことを知りたければ直接太夫に問うのがもっとも手っ取り早い。幸いにもほとんどの太夫が帰郷している祝祭の真っ只中。彼女たちが事情を知らないとは考え難い。問題があるとすれば、彼女たちが太夫であるということ。私のようなはぐれ者で、低級の花人がおいそれと会える相手ではない。取り巻きの子らにも阻まれるだろう。桂花のように親しい間柄ならば、向こうからやってくることもあるけれど、いかんせんほかの太夫と繋がりはない。

 それに彼女たちと不用意に接触するのは危険すぎる。私がかどわかされないとも限らない。触れ合って恋に落ちない保証はどこにもない。彼女たちの情愛は心身を溶かすほど強くて傲慢な側面をもっている。私のちっぽけな意志や抵抗など無意味かもしれない。

 でも、もし彼女たちのなかに桂花を傷付けた者がいるなら。

 例え、どんな非道な手段を使っても。誰であっても、決して許しはしない。

 私たちの、閉ざされた箱庭が朝を迎える。

 薄紫の靄が天蓋を撫でるように細くたなびいて、朝の風ともつれて遊ぶ。『庭柵』で遮られた『植物園』の内側に風は吹かない。外の空気は壁で濾過されて凪いでしまうからだ。人為的な揺らぎはあれど、それは本物の風ではない。

 『庭柵』の背丈が次第に高く伸びていくのを横目に、『裾野』に入ってからも黙々と歩みを進める。白んでいた空がはっきりと目を覚ました頃、私は灌木に囲まれた外苑図書館に辿り着いた。

 蔦に覆われた赤煉瓦の図書館。古ぼけた佇まいが一層威圧的に来訪者を見下ろす。近寄りがたいのは図書館の主も同じこと。花人たちは厄介者の主を警戒して滅多なことでは訪れない。新緑が繁茂する玄関までの径からは、よく手入れされた花壇に奇妙な色や形の植物が飼育されている様子が伺える。人体を模した実をつけた作物や、花弁だけが異様に肥大化した紫陽花が植わっている。

「あらぁ、月華じゃない?」

 鉛筆と写生帖をもった花人が、植えられた花の隙間から手を振っている。顔や服を土で汚しても気にした風もなく、満面の笑みで無邪気に駆けてくる。じょうろをつっかけ、写生帖を取り落とし、そそっかしいことこの上ない。

「深咲さん、お久ぶりです。あまり顔を見せられなくてごめんなさい」

「気にしなくていいのよ。私ったら、花陀様のお世話で忙しいから寂しくなる暇もないの。あれこれ我侭な方でしょう? あぁ、でもお客様なんていつぶりかしら!」

 深咲は膨らんだお腹を抱えながらも、喜びを全身で現す。私の手を両手で大事に包み込み、大きく上下に振る。見目にも派手な彼女の姿が、朝露をまとっていっそう輝きを増す。

 飾り気のない無地のワンピースを、数種類の紫陽花がドレスとして引き立てる。頭頂部の両側面にひとつずつ生えた、髪飾りのような赤紫と藍の半球形の花序。襟代わりに散らばる白い花星屑。四枚一対、菱形の額片が模様となって白地に彩を与える。そして、紫陽花の陰に隠れるように、ひっそりとカスミソウの小さな花が下地を作りあげていた。

「申し訳ないけど、今日は花陀に用があって」

 長居するつもりはないのだと伝えようとしたが、彼女は強引な笑顔で私を引っ張る。

「ごめんなさい、花陀様はいまお休みになっているの」

 だから、お話しする暇ぐらいあるでしょう? と、図書館のなかへと連れ込まれる。埃っぽい館内は無数の本たちで溢れ、乱雑に積まれた開きっ放しの書籍が随所で地滑りを起こしていた。採光のための天窓は蔦で覆われ、薄暗い館内を照らすのはランタンの灯りのみ。花びらを栞に使ったりと、館の主の性格が伺える。

「本当は整理してお掃除したいんだけどね? 花陀様が手を付けるなって。ご自分なりに意味のある配置だっておっしゃるから」

 深咲は辺鄙な場所に引き籠っている主を世話する気さくな花人で、なにかにつけて私のことを気にかけてくれる。彼女の欠点を挙げるとするならば、偏屈な主とべったりで、切っても切り離せないことだ。自然と深咲のことも避ける形となってしまい、申し訳ない気持ちもある。

 彼女は書き物机のうえの、埃と書きかけの用紙を床へといっぺんにどけ、綺麗になったとにこやかに椅子を勧める。

「桂花にはもう会った? 帰ってきているのでしょう。祝祭の間はあの子とべったりなのかと思っていたから驚いたわ」

「そう、できたらよかったのですけど。実は、そのことで花陀に聞きたいことがあって」

 花陀は園内でも最年長といわれるだけあって、皆から『物知り花陀』と称される。花人随一の賢人で、おまけに偏屈で変わり者でもある。図書館の記録を読みつくしているという噂もあるぐらい人間社会や歴史に詳しく、過去には太夫として『花園』に昇殿した経験もあるらしい。ただ、深咲とは正反対の極度の花人嫌いであり、美しさや色恋に微塵も興味がない。日夜植物や花人の研究を行っており、花壇に咲いていた珍奇な植物たちはその成果だろう。

 私は昨晩目の当たりにした桂花の状態を話して聞かせた。途中何度も言葉に詰まり、こみ上げる憎悪を、吐き気を、唇を噛み締めることで辛うじてこらえた。深咲は私の心痛を察して、どんなに長い沈黙だろうと口を挟まず、静かに手を重ねて話を聞いてくれた。

「そんなことがあったのね」

 聞き終えた深咲は、眦に涙を浮かべた。

 長い睫毛が頬に暗い翳を落し、紫陽花たちへ雨の季節をもたらした。

「深咲さんは思い当たることはありませんか。なんでも、どんな小さなことでもいいんです」

 私はすがる思いで頭を下げた。なんでもいいから糸口を掴みたい。

 深咲は思案に集中すべく瞼を閉じた。乱雑に散らばった記憶を巡らせているようだ。

「歯型……ちょっと前にあった擬人花ぎじんかの事件みたいだね」

 静まり返った館内に、一本の鍵が落ちる音がした。

「聞いたことありませんけど」

「ちょうどあなたが生まれた頃のことだよ。怪談っていうのかな。もともと花人の間で語られていた噂があったの。花人に擬態して、私たちに紛れている化け物のお話」

 深咲は誰かが聞き耳を立てていることを恐れるように、顔を近づけ声を潜めた。

 ここから先は内緒の話。

「擬人花はね、花人を食べるんだよ」

 花に紛れて花を食らう化け物。

 十数年前のこと。血まみれの花人の死体がみつかったことがあった。その死体は花人の核である胚種を傷付けられており、犯人は外傷に強い花人を確実に殺す方法を心得ていた。死体はひとつきりで終わらない。立て続けに二人、三人と被害者が増えていった。祝祭の夜、街の灯りが濃くした陰に紛れて犯行は行われた。その死体に共通していた特徴は、殺害に使われた凶器だった。

「お腹をね? 一番柔らかくて、おいしいところ。食い破られていたんだって」

 鋸型の、不規則な半円が肉体のあらゆるところに痕跡として残されていた。

「それって――」

 桂花の身体にあったものと状況が似ている。でも、桂花は腹を食い破られてはいなかった。庭師も胚種は無事だと言っていたではないか。

『君の仕事は話に花を咲かせることではないはずだが』

 不意に、くぐもった台詞が私たちの合間から聞こえてきた。ちょうど机に隠れたあたり。

「あら、お目覚めになったのですね、花陀様」

『経過観察と記録は当然終わっているのだろう』

「お客様ですよ、研究なんかしている暇ありませんよ」

『そうか。つまり口は多忙で、手空きなわけだな』

 深咲は声と軽快に会話を打ち返す。私はいつ自分の名前が出るだろうかと、緊張して身構えた。淡白で感情の起伏が感じられない彼女の声を聞くだけで、自分の行動を咎められ、叱られているような気分になってしまう。無意識に上からみられていると錯覚して、頭を下げそうになる。

「お小言より、御挨拶をしてください。月華がわざわざ来てくれたのですから」

 深咲が服に垂れ下がった紐を引く。前面にあった結び目が解けて、そのままカーテンのように左右にわかれる。普通なら、露わになった腹部の生肌がお目見えするはずだった。

「君は私のことが嫌いなのだと思っていたよ」

 そこにはあるべきものが収まっていなかった。

 中線から左右に開いたむき出しの赤い、赤い肋骨が舞台の枠を作り出す。胎に収まっているべき、胃や腸や肝臓や腎臓――内臓がすべて掻きだされて、少女の生首が収まっていた。伽藍洞の胎にはカスミソウの白い花が敷き詰められて咲く。

 花に囲まれた晒首の眼が開く。

「こんにちは、白百合の子」

 胎のなかの少女の生首は怪しく微笑みかけた。

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