花人薄命 白
『温室』を出て帰路に就くころには、宵もまわり夜も更けていた。祝祭の夜だけあって、少女たちは夜も徹して享楽に耽っている。紫の提灯が天蓋に反射して、淫猥な帳を街全体に降ろしていた。昼には昼の、そして夜には夜の楽しみ方をわきまえた彼女たちの嬌声は、私の苦さを加速させた。
『庭園』の東端、『庭柵』にもほど近い郊外にある花人らの傷病者収容施設――通称『温室』は、なだらかな丘の上に立つ、園内では珍しい石造りの建物だ。旧世代における人間の学び舎の遺構を、花人向けに改築したものらしい。年月を経て角の取れた外壁は、木と土に囲まれた内装と相まって温かみがあり、私たちを安心させる。『温室』には常時数人の庭師が詰めていて、病んでしまった花人らの面倒を見てくれている。
花人の病変は外見に惨い変化をもたらすことが多い。捻じれ、節くれ、枯れ、腐れ。歳月による老いの変化に乏しい少女たちが恐れ忌避するもの。『温室』で横たわる彼女たちを思えば、私たちの形ある美の儚さが痛いほど感じられる。とてもではないが、騒ぎに加わる気になれない。
街の灯りから身を隠して家路を往く。
喧騒から距離を置いた私は、頭の中で庭師とした会話の内容を反芻していた。
『桂花さんの立ち枯れの原因は極度の栄養失調です。長い間なにも摂取しなかったものと思われます。根を張ることができたので、時間をかければ恢復するはずですが……いかんせん長い絶食期間で身体が栄養を受け付けにくくなっているので、時期を正確に予測することはできません。現状では桂花さん次第、としか』
硝子の鉢を逆さに被った庭師は、つるっとした頭を掻いた。黒い斜光ガラスには私の顔が反射するばかりで、彼らがどんな人相なのか知っている花人はいない。身体も分厚い灰色の防護服に覆われて、判ることといえば、二足歩行で、手足は二本ずつ、手の指が五本で、言葉を喋るということぐらい。彼らが厳重な殻に身をくるんでいるのは、ひとえに病原菌を持ち込まないようにするためだとか。人間が宿主となって、病原菌を媒介してしまうことが過去にあったらしい。私たち花人が人間と姿がそっくりだと知り得たのは、昔の記録媒体――写真や本が園内に残されていたからだ。それでいうと、庭師の姿は、宇宙服というものによく似ている。
「元には戻る、そうですよね?」
『朽ちてしまった虚を、自分で埋めることは難しいので、完全に元通りとはいきませんが。花人は新しく器官を生成する能力はあっても肉体の復元力は乏しいですから、桂花さんの意向でなんらかの整形補修を加えることにはなるかと。幸い胚種は無事なので、なにかあっても大事には至らないかと』
甲高い反響を硝子鉢の内側に籠らせて、庭師は説明する。表情がない分、身振りで補おうとするかのように、申し訳なさそうに肩を落としている。
「栄養失調……絶食の原因というのは」
『心理的な変化でしょう。花人の精神は不安定で変化しやすいものですから。人間でいう思春期の少女と類似した状態だと考えられていまして……有体に言えば、年頃の女の子ですから、傷付きやすく柔らかい心を持っていると。他人にとっては些細なことでも、致命傷だった、ということもあり得ます』
「『花園』で一体なにがあったのでしょうか。教えて頂けませんか?」
『申し訳ありません。異なる管轄同士での情報の共有は行わない決まりでして、『花園』での出来事はなにも知らされていないのです。お力添えしたいのは山々なのですが、私共にも規則がありますから』
庭師はその丸い頭を下げてみせる。申し訳なさそうなのは態度だけだ。
わかっていたこと。知らない、話せない、は彼らの口癖のようなものだ。庭師は私たち花人に外の情報を一切伝えようとしない。『花園』のことだけじゃない。外の状況や人間たちの社会構造、生活様式、あらゆることが守秘義務に含まれる。病原菌の研究や除染作業は進んでいるというが、進捗状況については沈黙を貫く。どこまでが真実なのか、この目で確かめる術もない。
『あぁ、そうだ。これをあなたに』
庭師が私に手渡したのは、掌大の透明な硝子の小瓶だった。瓶のなかには無色の液体が入っている。細長い首と滑らかなくびれをもつ、どこか艶めかしい小瓶には不思議と惹きつけられた。
『桂花さんの持ち物です。あなたにお渡しした方がいいかと。なにかの手掛かりになればよいのですが』
掌で瓶を転がす。蓋を開けて匂いを嗅ぐと、清涼感のある甘い香りが鼻を抜けた。どこか覚えのある香りなのに、なぜか思い出せずにもどかしい。本で香水という化粧品があると読んだことがある。花人は自らの花の香りがあるから、わざわざ人工的に造られた香りを纏う必要がない。
思い切って飲んでみようかとも考えたが、私自身になにかあっては元も子もない。さすがに毒ではないと思うけれど。もし桂花の状態となにか関係があるなら、劇物である可能性も小さくない。数少ない手掛かりだ。下手に扱って失うわけにはいかない。
夜を透かした小瓶には、視えない秘密が蒸留されて、白々しく澄み切っていた。
街中に住むのが嫌いな私たちは、『庭園』と『裾野』の境界にある、街はずれの廃屋に居を構えていた。構える、とは大げさな言い方で、何十年か何百年か前に家主を失った家に棲みついている野生動物と大差ない。
唯一、内と外を隔てる役目をなさない扉を押し開けると、私たちの片割れが抱き着いてきた。
「先に帰ってたんだ。てっきり、街に行ったのかと」
「違うよ。待ってたの」
樹沙は私の手を引いて、廃屋の床に横にならせる。苔むした床は私の体重を沈み込んで受け止めた。
今晩はとても疲れていた。すぐにでも瞼を降ろして眠りに就きたい気分だ。だというのに、構われたがりの彼女は私の身体に背中から腕を回す。やけに甘ったるく肌に張り付く彼女の香りが、今だけは鬱陶しかった。服の裾から入り込んできた手首を、強めに掴んで私の気持ちを伝えた。
「樹沙は桂花と同季なんでしょ。助けたいよね?」
彼女の節操なしの態度を咎めたつもりだった。いつもは私の不機嫌を察すると遠慮するのに、今日に限って彼女は手を止めなかった。
湿っぽい緑の絨毯から染み出す夜の水分が、私のワンピースに染みこんでくる。
樹沙の指先が私の脇腹を撫で、さすり、爪を立てた。
「また。まただ……また私の花を捨てたでしょう?」
私の傷口を彼女の爪が抉ってくる。小器用にうねる食指が、肉を味見しながら深くほじって侵入してくる。背中に隠した後ろめたさを探り当てて、爪先で転がして、突き刺して、痛めつけることで味わう。
「ねぇ、新しい恋は悪いことなの?」
「樹沙の問題じゃなくって。これは私の問題だから」
「違うでしょ」
うめき声が漏れた。
暖かい血が肌の上を滑り落ちた。
「私は身代わりなんだ? 帰ってきたら、もういらないんだ?」
「痛い……樹沙、痛いよ」
「私が痛くなかったとでも?」
桂花が太夫になって『庭園』を離れた数年間、私にとってけして短いとは言えない時間が流れた。花ひとつの憧れのみで気持ちを維持することが難しかった。たったひとつきりの花を、枯らさないよう、散らさないよう。近くにいない桂花を想えば想うほど、ほかの花人からは孤立しなければならなかった。彼女たちは私の操の固さを嘲笑うように、色をひけらかして誘った。
私たちは花人だ。恋多き少女でいるのは悪ではない。むしろ、花人の正道ですらある。ほかの子たちには私の葛藤は理解の及ばないものだった。皆、私の痛みに鈍感だった。こめかみに咲いた一輪はあまりに頼りなかった。
桂花がいない間に樹沙と関係ができ、後ろめたさの副作用を得ながらも、孤独への対症療法が可能になった。すぐ傍にある花を愛でることで痛みは和らいだ。
「樹沙は、樹沙だよ。桂花とは違う」
本当に、口ではなんとでも言えるものだ。
花人は口で食事をしない。口は食物を摂取する器官にあらず、愛を紡ぎ、情を語るための器官だ。たとえそれが偽りの言葉であっても。自分でもよくわからない。樹沙のことをどう思っているのか。本心では、桂花の身代わりに好きになっただけなのか。それでも花は咲いた。咲いたのだ。
花人は開いた花にだけは嘘を吐けない。花が咲いたからには、それは紛れもなく情がある証。私は樹沙のことが好きだ。好きになってしまった。それは嘘でも偽りでもない。
「月華は私のこと可哀想だから、同情しているだけなんだ。私からの好意に共感して、仕方なく咲いた花でさ……それはさ、初恋の花とは価値が違うよ」
しみったれた言い草とは反対に、締め付ける腕は強さを増す。無遠慮に身体をまさぐる蔓は、文字通り私を責めなじる。彼女の恨み言は聞きなれているが、今は聞きたくない。今は隙間に入ってこないで、お願いだから。
私が知っている樹沙は、年を経て、花人として生活するうちに印象が変わっていった。優しい姉としての顔は、いつの間にか引きつり、愛のおこぼれを貰おうとする花売りになっていた。人一倍惚れやすい性質のくせ、ひとつの恋に溺れやすい。些細な切っ掛けに対して、生まれる感情が大き過ぎるのだ。そのせいで相手と気持ちが噛み合わなくて、勝手にすれ違って、傷付いて、空回って。そんな風だから、ほかの花人から煙たがられていた。「樹沙は重すぎる」と、よく言われていたものだ。新人だった私に構いたがったのも、初恋を射止められたら自分の気持ちの重さと見合う相手になるから、という目論見があったに違いない。
私が彼女に寄り添ったきっかけは、私の痛みと彼女の痛々しさで慰め合えると思ったからなのだろう。痛みと癒されたい気持ちがつりあったから。
「私をみて」
肩に鋭い痛みが走った。
反射的に、力加減など忘れて、樹沙を突き飛ばした。私の驚きはほとんど彼女を殴りつけていた。
噛みつかれた。
肩口に手を当てるとべっとりと血がついた。半円形の歪な鋸状の歯型。
いや、そんなはずはない。桂花が『花園』にいる間、樹沙は私と一緒に『庭園』にいた。過敏になっているだけだ。こんなのはいつものじゃれ合いの延長上の甘噛みだ。
「どうしたの、そんな怖い顔して」
樹沙は鼻から流した血で、青いそばかすを汚した。彼女の口元は緩く開いて笑みをつくる。ほんの瞬きの間だけ、その眼はちっとも笑っていなかった。
傷が脈動に合わせて血を吐き出す。傷が深くてなかなか痛みが引かない。甘噛みじゃない。本気で力を込めて噛まれた。傷をつける目的で。痛みを与える腹積もりで。
「さぁ、おいで」
樹沙が屈託ない笑み浮かべて手を広げる。
「愛してよ」
樹沙が桂花に危害を加えられるはずない。
そうだよね?
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