花人薄命 白
私はずっと待っていた。
愛情をもって抱擁してくれる姿や、あるいは以前にも増して美しく花を咲かせた姿を。私の憧れが帰ってくることを。
瞼の裏で想いを募らせた月日。自分などがおいそれと近づける存在ではなくなってしまうのではないかという畏れと期待に蕾を膨らませて、その時が訪れるのを待ちわびていた。
決して。そう、断じて、彼女の零落した姿を迎えるためなんかじゃない。
「桂花?」
『温室』に連れて来られた時点で、私の花は力なく萎んだ。
拭えない悪い予感が、寒気となって体を震わせた。
病床に通され、正体が露わになったとき、悪い病に蝕まれているのは自分の頭の方ではないかと疑った。なにか、遠い膜の向こう側で叫び声が聞こえたような気がする。自分のものだったか、それとも気が触れた患者のものだったか、定かでない。叫びは言葉ではなかった。心から抜き取られた鮮やかな血を流す慟哭が、空気を細く長く引き裂いていた。
「つ、きか……」
その溜息のような呼びかけに引き戻される。直面した現実は過去の栄華と程遠く、私が焦がれた花人の姿はそこにない。嫌いになりたかったあなたはもういない。
「ここにいるよ」
締め付けられた喉から、どうにか絞り出した。
震える指先を伸ばし、桂花のひなびた肌を撫でる。
干上がりひび割れた皮膚。肌を守る油分はなく、魚鱗のような細かい革質が反り返り、私の吐息に塵として巻き上げられ粉が舞う。握れば折れそうな脆い骨。かつて全身を覆っていた橙色の星は枯れ落ち、木乃伊のような体躯は見る影もない。花が散り去ったあとの身体には無残な花葉の痕――無数の孔が穿たれ、私にはそれが何人もの少女に刺し尽くされた痕にも思えたのだ。
桂花が大切にしていた花たちは散ってしまった。残るは右目に張り付いた生気のない一輪のみ。萎れ、縮れて、吹けば飛ぶ。最後に残った私への
まるで手向けの花だ。
皮肉なことに、こんな姿になってはじめて、桂花の全容を視ることができた。記憶のなかの彼女は花に埋もれ、芳醇な香りで分厚く身を包み込んでいた。豪華な服を着こむように、花で着飾り、匂いを侍らせ、常に少女たちの憧れで体を洗っていた。
辛うじて、か細い糸にすがって生きている。
本当に、辛うじて死んでいないだけだ。
花人は病気や環境の変化に虚弱なことに対し、外傷には強いとされる。不注意から腕をもいでしまった子を知っているが、翌日には元気に駆け回っていた。花人の血は粘度が高く、外気に触れるとすぐに固まる。流れ過ぎて失血死することなど無い。養分の豊富な水路に足を浸していれば、自然と活力を取り戻す。生命力という点でみれば花人は貧弱ではない。
そうだというのに、私は枯れて死んだ花人を何人も知っている。
花人にはよくあることだ。機微に敏く、繊細で、その身に激しい情緒を宿す。ときに自分すら壊してしまうほどの激情だ。花人を自壊させ得るほど強い感情の源はひとつしか考えられない。
しかし、桂花に限って、そんなこと在り得るだろうか。仮にも太夫まで上り詰めた彼女が、まさか失恋だなんてこと。
ふと、彼女の肌に残る奇妙な傷跡が目に付いた。
枯れて朽ち、崩れたものとは異なる、鋭利で不規則な傷口。どこか既視感のある半円形に連なる穴。
「誰かの、歯型?」
彼女の身体を検分すると、同様の傷跡が複数認められた。なかには身体を食いちぎられたようにさえ思えるものもあった。明らかに痛めつける目的で付けられた、悪意のある傷だ。
『花園』で一体なにがあったというのだろうか。
直感的に、これが神経衰弱やヒステリィに根差した枯死ではないと確信した。
誰かの思惑が桂花をこんな姿にしたのだ。
「ちょっと疲れちゃったね。ゆっくり休んで、桂花。私だけは傍にいるから」
自分のこめかみに生えた、瑞々しい美しさを保つ白百合を彼女の鼻元に寄せ、匂いを嗅がせる。彼女の死んでしまった嗅覚で感じ取れるかわからないけれど、ほんの少し最後の一輪が水気を取り戻したようにみえた。
それから私は桂花が眠りに落ちるまで付き添った。手をさすり続け、体温を伝えた。浅く悪夢を伴った居眠りから、数日間は目覚めない深い昏睡へと呼吸の深度が変わっていく。
私は桂花の身に何があったのか知らない。あれほどの権勢を誇っていた彼女の失墜は『庭園』では噂にも聞こえなかった。仕方のないことだ。すべては『花園』のうちで起こったこと。『花園』の秘密は外には漏れ出ない。私は桂花のことを何も知らない。
人肌に暖かい腐葉土の寝台に横たわる桂花。放っておけば土に帰ってしまいそうだ。彼女の腕を持ち上げてみようとしたが、すでに土と接した背中側のあらゆるところから根が張っている。毛穴から生白い繊毛の糸が、網目状に広がっている。互いに絡み合い、睦み合い、我先にと養分を奪い合う。しかし、吸い上げられたはずの養分は桂花の身体に活力を与えない。幾ら吸い上げても、体は死に、枯れ続けている。
虫が。
一匹の羽虫がトんでいる。
ぶンぶンと五月蠅く、五月蠅く。開きっぱなしの瞼から一匹、また一匹と、よじ登ってこびへつらうように手を擦り合わせる。私のために咲いた花の香にすがり、酔いしれ、はしたなく腹をうねらせる。金木犀の微香が虫どもの淫蕩を誘う。それらの腹に抱えた蛆どもが蠢く。耳障りな羽擦りを重ねがさね、身を折り重ね。
根元から。萎れた花の、額の生え際から、どっぷりと黄ばんだ乳白色の膿が圧し出されて溢れる。
吸い上げられた養分は何処に消えているのか?
虫どもが歓喜と共に一斉に飛び立ち、騒ぎ出す。腐臭に宴の合図を読み取り、集り、漁り。
目玉の奥はすっかり虚が広がっているんだ。
不意に桂花の身体が小刻みに揺れた。身じろぎとは違う。ぶぶん、ぶぶぅんと唸るような、痙攣が首をがくがくと転がした。
虚が広がっているんだ。
涙腺からも膿が溢れ、瞼に溜まって流れ落ちる。重たい膿は筋にはならず、方々に広がって顔を汚す。小さな子供の、下手くそな泣きじゃくりみたいに。
もぞり。私の見つめる前で、桂花のひび割れた唇が、内側から押し開けられる。顎がさがり、忙しなく蠢く触覚が覗く。しゃくりあげるように収縮を繰り返す太った胎が。光の加減で色味を変える極彩色の羽が。表情のない複眼が。桂花を蝕んでいる腐敗と悪臭が。肥大した虫がずるりと、粘液を引き摺りながら姿を現す。肥満化した体では幾ら羽を動かしても飛べるはずもなく、虫は醜く桂花の顔の上を這いずり回るのみ。ちゅるちゅると、管になった口吻で膿を旨そうに啜る。
虫が。虫が育っている。
美しい花を腐らせて、その虚の内側で膿を啜って肥えている。
紛れ込んだ虫は殺さなくては。
掌に暗緑色の血液が広がった。開いてみると緑色の粘液の上でも、微細な線虫が無数に、打ち上げられた魚のように身をくねらせて踊る。いけない、力が入り過ぎて虫を潰してしまった。羽の残骸を。潰れた胎の内容物を。飛び出て千切れた複眼を。へし折れた節足を。握り締めてお握りにしてしまう。集っていた羽虫らも握り締めて、三角に押し固める。
「いただきます」
虫は殺さなくては。
べたべたして、青臭い。苦みが染み出して、もったりとした臓物が舌の上で絡む。舌が痺れる。鼻が曲がる。きっと腐っているんだろう。歯の間に挟まった足が歯茎に障っていらいらとさせる。
桂花は美しい花だった。
喉を鳴らして嚥下した虫が、腹の底に下って行く様が肌越しにでもつぶさに感じ取れる。花人に口から食物を食べて消化する習慣はない。呑み込んだ
美しい花に集る虫どもが。
花を食い物にする虫どもが。
虫を殺さなくては。
瞬きをして眠る桂花を見返す。そこには緑の粘液も、蠢く線虫も、こぼれた膿もない。浅い呼吸を繰り返す、死人のような静かすぎる寝顔があった。
席を立つ。
鼓膜の奥で、ぶンぶンと虫どもが唸っている。
頭蓋骨の内側、脳みそのねぐらでダンスを踊っている。
殺さなくては。
虫を、殺さなくては。
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