花人薄命 黒
しばらく時間が経って、すっかり歩き回れるようになったあなたに、私のおさがりの服を着せる。綿の白シャツと腰元を組紐で締めたスラックス。私よりも一回り小柄なあなたには裾丈が余ってしまい、ずいぶんゆったりとしたシルエットになった。あなたは足の裏で直に感じる草の気配がおもしろくて仕方がないらしく、教会堂の外で足踏みをして回る。
生まれたばかりの子は、動き回れる身体というものにはしゃぐ。曰く、刺激と興奮を全身で感じ取り、頭のなかにある情報を体験によって裏付けしている最中なのだとか。感情的な盛り上がりは別として、機能的意味は母さんから受け継いだ知識の確認作業ということになる。
不慣れな肉体で派手に転んだあなたを立たせてやり、服の汚れを払う。肌に傷がつこうが一向にお構いなしだ。いい加減日も傾いてきた頃合い。あなたの手を握って、街のある『庭園』まで連れて行くことにした。
道中、あなたは物珍しそうにあれこれ指をさして、「なに、なに」と聞いてきた。私はその度に、逐一説明を返してあげる。未熟児だったことが関係しているのか、受け継いだ知識の劣化や欠損が著しく、大部分が断片的だったりおぼろげだったりで、私たち自身や生活についてなにもわからないようだった。
「あれは『庭柵』だよ。単に『壁』という子もいるけれど。この『植物園』を囲んでいるもの。私たち花人は病気や環境の変化に弱いから、
昔々のお話。あるとき流行り病が広まって、私たち花人は外の世界では生きられない環境になってしまったそう。特効薬はなくて、原因も解明もされていない。病原菌は変異がはやくて、対処が追いつかなくなった。苦肉の策として、隔壁を築いて閉じこもるしかなかった」
私たちの暮らす『植物園』をぐるりと囲む、赤茶けた石積みの壁。一定の間隔で塔が立ち、壁面の上部には歩廊がある。時折、庭師が連絡路として利用している。
「石積みの外見はみせかけの装飾で、頭上も隙間なく視えない壁に覆われているの。大気や鳥や虫を媒介にして拡散する病原菌の侵入を防いでいる、らしいって」
眼を細めれば、時折光の加減で虹色に反射する透明な膜がみてとれる。伝聞の形でしか語れないのは、ほとんどの話が『物知り花陀』の受け売りだから。
あなたが私の話を理解できているのかわからないけれど、懸命に耳を傾けているのは仕草から見て取れる。顎に皺を寄せたおかしな表情で鼻を鳴らしている。
「『植物園』は大きくみっつの区画に分けられているの。限られた花人――太夫しか立ち入れない『花園』があって、そこから扇状に私たち花人の街『庭園』がある。そして、街の外縁から『庭柵』まで『裾野』と呼ばれる郊外が広がっている。今いるのは『裾野』。森に野原、泉があって、母さんたちがいる」
私たちは水路に沿って、『植物園』の中心を目指して歩く。
「園内には葉脈のように水路と
手を繋いだまま、「なに、なに」という声に従って、目に映るものを色々と説明していった。好奇心旺盛な子供らしく、次から次に飽きることなく説明をせがまれた。口下手な私としては、自ら話題を振ることが難しいから大いに助かった。話の巧拙など気にせず、事務的な解説をしているだけだから気楽なものだ。
いよいよ『庭園』の街影がみえてきた辺りで、次にあなたが「なに」と指さしたモノに、私の毛穴から汗が噴き出した。
花散る郷。
差し掛かった燦風路。通りは祝祭の装いで派手に着飾る。鈴なりに吊り下げられた浅紫の提灯が通路に弧をかけ、満開の藤棚を思わせる。通りの両脇に人垣ができ、中央を進む行列に黄色い歓声、あるいは蕩けた悲鳴を上げている。集った花人たちは、自らに咲いた花びらをもいでは路へ投げる。楼閣の欄干から身を乗り出して花を散らすものまである。
朱塗りの木組みの楼から楼へ、黄昏のドレープが渡され、薄墨色の夜空に艶を架ける。
一行は喧騒を呑み込み、視線を纏う。高下駄の澄んだ唄が響き渡る。足跡から宵闇が広がり、花人らを夜に酔いどれ眩ませる。
基本的に素足で、履物を必要としない花人たちのなかで、下駄を履くものなどひとりしかいない。
「あなたは視ては駄目」
すぐさまあなたの視界を覆い隠し、私の身体ごと通りに背を向ける。幸い行列は遠ざかるところで、郊外からやってきた私たちの存在に気付いていない。
「できれば息もしないで」
よりによって、太夫の道中に出くわすとは。しかも、先頭に立っているのは太夫のなかでも最高位と噂される宵藤太夫の道中とは運がない。生まれたばかりの子には刺激が強すぎて、毒にしかならない。至近距離で直面すれば、私とて彼女の色香に耐えられる自信がない。十分に距離があるはずなのに、紫藤の深い残り香を嗅いだだけでも膝が震える。太夫ともなると、その美しさや色艶は暴力と相違ない。
風路に集まった少女らは宵藤太夫の色香に耽る。流し目を受けた者は昏倒し、涎を垂らして手足を痙攣させる。ある者は頭を垂れて陰に口付けを落す。そこに会話や触れ合いによる情の交換はない。一方的な眼差しがあるのみ。貢がれる
太夫は花びらを踏みしめて、風路を往く。
多様な色形の花びらは、太夫の足裏が土で汚れないよう、花人たちが自らに咲いた花を引き千切って路面に隙間なく散らしたものだ。数多くの羨望と憧れを集める宵藤太夫だからこそ成立する歓迎のもてなしだった。例え、彼女にとっての恋が、高みへあり続けるために踏みつけるものであったとしても。
情愛の暴風から身を隠し、息を潜め、何事もなく通り過ぎることを待つ。
太夫は序列の低い花人にとって、憧れの象徴であると同時に危険な災いでもあった。
「もういいよ」
後ろ姿が消えたところで、あなたを解放する。
風路を突き抜ける一陣の風が花びらを巻き上げ、夕去りの空に躍らせる。
「なに。だれ」
あなたが問う。
「おそろしいひと……おそろしく美しいひと」
飾られる提灯の色が薄いのは、宵藤太夫の藤紫を引き立てるためとも、彼女に並び立つ色はないことを示すためともいわれている。
私自身、宵藤太夫と接したことはない。言葉を交わしたことはおろか、触れ合える距離まで近づいたこともない。いつも遠くから影をなぞるだけ。そんな機会があったらどうなっていただろうか。きっと、私は彼女に焼き殺される。情緒を蕩けさせられて、正体を失くすだろう。花人にとって美しさはときに、快楽の過ぎた毒となる。毒も棘も備えているものだから。
遠くから眺めるのに適した花もある。私はそう思う。
彼女に狂って『温室』送りにされた子を何人も知っている。今夜も病床に伏せる子が増えるのだろう、きっと。
「あそこで失神している子のほとんどは、藤姫にはじめてを奪われたンだってさ」
その声は大層不満げであった。半壊した塀の陰からひとの気配が現れた。不貞腐れた行儀の悪い、半跏したうえに肘をたて頬杖をついた姿勢。私たちが通り掛かる前から彼女はそこにいたのだ。おそらく一度ならず声も掛けたはず。ただ私たちは宵藤太夫の存在感に圧倒されて、彼女のことが視えなくなっていた。
「大体、初恋ってヤツは重すぎンだ。吊り合いが取れてない。一方的に想いを捧げたって、見合った応えも期待できないんだ」
随分と身に覚えのある恨み節を吐き捨てる口調。ご機嫌斜めな癖して、こんなことろから隠れて覗いていたのだろう。いじらしい、といえば怒り出すのは目にみえている。
「不満ならいけばいいのよ。抱き締めてくれって、両手を広げてね」
「そんなことは無理だってわかンでしょ。私を寝たきりの観葉植物にでもしたいの?」
互いに言い合って、一拍の空白をおいて笑みを吹きこぼす。
彼女が立ち上がって陰から抜け出て姿をみせる。心臓の真上に咲いた白い大輪。細い糸を編み込んだ白いレースのドレスを身にまとう彼女。目を凝らせば、繊細なレースは胸の花びらの一部であることがみてとれる。縁が細かく裂けた烏瓜の花弁をいくつも繋げて、彼女が手ずから編み込んで纏っているのだ。そうすれば昼間でも花が閉じず、気持ちを萎えさせずにいられるから、と。
「だれ、だれ」
あなたが指をさして私の裾をひく。初対面でも物怖じしない性格らしく、彼女をまじまじと見つめている。
「こんにちは、名もないあなた。
藤香は雑な手つきであなたの髪をかき混ぜると、鼻をしかめる特徴的な笑みをみせた。
「結構大変だったみたいだね」
あなたの様子から難産を察してねぎらってくれる。
「ひとりでやるものじゃないね。いい経験にはなったけど」
「それで? 会いに行ってないんでしょう?」
触れられたくない話に唸りで返す。
「意固地もいいけど、後悔しないようにね。間に合ううちに……あたしはもう」
「わかってるよ」
言われるまでもないことだ。身に染みて理解している。お互いに、だ。
言葉に詰まった私たちふたりを、あなたが不思議そうに見上げている。あなたには縁のないことで、できればこの先一生、知らずにいて欲しい気持ちだった。私は曖昧に笑って、あなたの髪に手を載せた。
「こんな所にいたッ」
そのとき、街中の方から足音が駆けてくる。私をみつけて、汗と唾を飛ばして叫ぶ花人。あんまりに慌てているものだから、頬の青いそばかすが舞い落ちる。
「
肩で息をする樹沙は、私の手を掴んで引っ張る。
「大変なの、いいから早くきて!」
藤香に目配せするも、彼女は首を振る。
夜風に花が揺れる。
夜気が肌にまとわりつく、粘着質の嫌な夜だ。
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