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「……調子が悪いようだね。このままだと綿奈部くんに心配をかけてしまうよ」
いや、俺のことは気にしないでくれ。そう思うものの下手に声を出せず黙ったまま東雲と目を合わせる。ブルーグレイの瞳は千葉の沈黙に困っている。苦笑に変わった微笑みで一瞬視線を返されるが、すぐにその視線は再び千葉へと注がれる。続けて優しい声が千葉に語りかける。
「――体調が良さそうな時にでも店に来るよ。今日は一旦帰るとしよう」
お前はそれでいいのか、東雲。そんな心の声が口から飛び出しそうになるがまだまだ下手なことを言えない雰囲気で、東雲の顔を凝視するだけに留まる。
普段ならばこのふたりの関係性に対して心配になることなどないのに、俺のお節介心が顔を覗かせる。東雲はいけ好かない野郎だが、それでも千葉と同じく俺の数少ない友人のひとりだ。沈黙を貫く千葉の態度はあまり褒められたものではないし、どちらかといえば千葉贔屓なところがある俺でも今度ばかりは東雲の肩を持ちたくなってしまう。
――そして、お前はそれでいいのか、千葉。このままだと東雲を傷つけたままになるぞ。
俺からすれば東雲が何かに傷つくような男に見えないが、千葉がそう感じたのならそれを放置しておくのは得策ではない。
しかし、もう俺にできることはない。これはふたりの問題だ。
そんな風に内心を掻き乱されながら東雲と千葉を眺めていると、やがて東雲がゆっくりと立ち上がって帰り支度を始める。そのさなか。
「それと、千葉くん。僕はどうしても君に謝らなくてはならないことがあってね。顔をあげてくれないか……それを言い終えたら帰ると約束するから」
静謐とはまさにこの声色のことを言うのだろう。優しくて澄み渡った夜を照らす月を感じさせる声だ。しかし、穏やかな中に千葉の声とはまた違った強制力を感じさせる。東雲の声に流石の千葉でも抗うことは難しかったらしい。テーブルに顔を伏せていた男はのそのそと上体をあげると東雲から目を逸らしたまま自分の右手に握っていた電子タバコを見つめていた。テーブルに押し当てていた額は真っ赤に変色していた。
「……よければこちらを見てもらえると嬉しいな」
現実逃避をしたいのにさせてもらえない、子どもじみてむくれた表情の千葉は落ち着かない様子で視線をあちこちに彷徨わせたのち、決意を固めたように目をギュッと瞑ると、ややあって東雲を見上げた。
東雲は千葉と視線が合うと嬉しそうに、しかし今まで見たことがないほど切ない表情で愛おしげに目を細める。
「今朝、『何もなかった』と言ってしまったんだけど……何もなかったことにするのはやっぱり僕にはできない。君は忘れたいかもしれないけど、僕にとっては忘れたくないことなんだ。だから、昨日のことは忘れてあげられないよ――ごめんね」
答え合わせができてしまった。
ほぼほぼ確信していたがやはりそうだったらしい。千葉と東雲の間に肉体関係かそれに準ずる関係が生まれた。そして東雲はその事実をなかったことにしたくないらしい。千葉にとっては大切な友人でこれからもそうだと信じていたこの関係の変化に戸惑い、なかったことにしようとしている――やはりこの状況だと「記憶がない」という千葉の発言は嘘だと思えてきた。そもそもいくら気まずくても東雲の電話を無視しているあたりでボロが出ている。多少なりとも昨晩の記憶が残っているから無視してしまっているのだ。千葉のやっていることはただの思考停止のように見える。だが、千葉自身も今までにない事態で身の振り方に困っているだけなのかもしれない。
「それだけは伝えたかったんだ……綿奈部くん、邪魔をして悪かったね。次の機会に酒でもご馳走させてくれ」
東雲は椅子を定位置に戻すといつもの目が潰れるほどの眩しい笑顔で俺に手を挙げて挨拶をする。あまりにいつも通りの笑顔で俺は不安になってしまう。
「ん……いや、気にするな。お疲れさん」
言葉を発するまいと黙っていたせいで咄嗟に声が出てこなかったがなんとか返答をすると俺も手を挙げた。
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