第5話 鬼

 朝日が昇る。

 カーサが後宮に来て一日が経過していた。初日は仕事がなく、食堂で食事を済ませた後は湯浴みをして就寝していた。

 翌日は朝から仕事がある。長旅で疲れた身体を癒すため早めに寝る事にしていた。

 柔らかすぎるベッドは、包み込むように深く沈む。それが落ち着かなくてカーサは夜中に飛び起きると床に転がるバッグの中に潜っていた。

 朝、目が覚めて同居人が居ないことに気付いたアポロがしばらく辺りを見回す中、バッグがゆっくりとひとりでに立ち上がる。驚きの声は可愛らしく、不意をついたことは申し訳なく思う。

 軽い身支度の後は業務開始前に朝食を済ませなければならない。毎日三食、それぞれ違うものが出るのは主上の配慮があったからとの事だ。

 食い溜めする必要が無いのね、と今日の朝食、魚料理に舌鼓を打ちながらカーサは手を動かしていた。その気になればひと月は何も口にしなくても活動出来るが、今は不必要なことだった。

 朝食を終え、業務開始まで少し時間がある。入り乱れる人混みを抜けてカーサはアポロのいるところへと足を運んでいた。

 火の精霊であるサラマンダー種は食事が別になる。人と同じものを食べられない訳では無いが、それよりも必要なものがあるからだ。

 そこへ一歩踏み入れると、茹だるような熱気が充満していた。カーサは堪らず吹き出した汗を拭う。

 煉瓦造りのそこは外から見ると巨大な窯のような形をしていた。中は目を潰すように明るく、至る所で火が焚かれていた。


「あ、カーサ!」


 呼ぶ声にカーサは目を向ける。乾く眼球に瞬きを多くしながら見ると、そこには服を脱いだアポロがいた。

 足元から立ち上る炎の中で寝そべるアポロは笑みを浮かべている。罪人が火炙りされているかのような情景だがその表情は余裕そうだった。

 暑い、と愚痴にながら近寄る。アポロは時折舞い上がる炎を口に運ぶと、高級ディナーのように頬を綻ばせていた。

 サラマンダーにとって火炙りは他種族が行う水浴びと同じだった。老廃物を焼き払いながら、おやつも食べる。普段から火口などに居を構える彼女らにとって焚き木などぬるま湯程度にしかならないようだ。


「そろそろ戻りましょ」


「もうそんな時間?」


 カーサは頷く。滲んだ汗が飛んで、火に炙られて蒸発していた。

 はーいと気の抜けた返事がある。そばに置いてあった服に手を伸ばすアポロを尻目に、待っていられないとカーサは飛び出していた。





 勤め先は主上の住む館だった。

 専用の裏口から列を作る女達に混じり、カーサも並ぶ。

 流れは早く、そそくさと人の列が館に吸い込まれていく。

 お城のようだと、カーサは見上げて思う。

 白磁色の外壁はくすみを知らず、陽の光が眩しい。屋根は瓦、窓はガラス、内装はどうなっているのだろうと気になっていた。

 館の中を清掃する女衆を横目にカーサは歩く。後ろから着いてくるアポロは時折珍品を見つけては立ち止まっていた。

 目的地は二階にある部屋だ。夜伽番となった女性は個室が与えられ、そこで今後を過ごすことになる。

 外出に制限は無い。しかしいつ寵愛を受けるか分からないためあまり外には出たがらない。求められた時に居ないのは失礼にあたり、立場を降ろされるかもしれないからだ。

 分厚い絨毯の上を歩き、立ち止まる。見上げた先にある部屋番号を二度確認して、

 

「失礼します」


 トントンとノックをした後にドアノブを捻る。

 開放した先は煙が広がっていた。それは逃げ場を求めてカーサに襲い掛かっていた。


「うわっ!?」


「あら、どなた?」


 視界を塞ぐ濃霧の奥から声がする。

 見えない。カーサは仕方なく独特な渋い香りの中に入ると、部屋の主のほうへ挨拶をする。


「今日からこちらで働かせていただきます、小人族のカーサです」


「アポロロゥフレアです」


 カーサは頭を下げる。後ろからついてきたアポロも同じようにしていた。

 後宮内で明確に身分差はない。しかし夜伽番はどうしても一目置かれる立場だ。面倒に思いながらもカーサは礼儀正しくを心がけていた。


「あら、そうなの。私は紫鬼、鬼種三角鬼族よ。よろしく」


 姿が見えないが声は通る。

 凛とした、声は弦を鳴らしたように張りがある。

 しかし、

 鬼種か……

 粗暴にして退廃的。刹那を生きて思慮浅い。鬼種全般に当てはまる特徴は短く付き合うならいいが、長く友とするには面倒くさい。

 好きなものは酒と煙草と喧嘩。部屋が見えなくなるほどの煙の正体がすぐにわかった。

 にしても吸い過ぎだろうとため息をつくと、反動で勢いよく吸い込んでしまい喉を刺激する。軽く咳払いをしてごまかしながら、


「すみません、窓を開けさせてください」


「ん? あぁ、いいわよ。ごめんなさいね、気付かなくて」


 いえ、とカーサは短く答える。

 入り口を開けたことにより煙は気持ち晴れていた。部屋を横断すると曇った窓がそこにはあった。

 手を伸ばすが、あと少しが届かない。背伸びをしても、金具を爪先がひっかくだけで意味がない。


「カーサ。私がやるから」


 後ろから伸びた手が簡単に窓を開け放つ。風の通り道が出来たため、心地よい春の風が部屋の中を通りすぎていく。


「ありがと」


「うん」


 カーサは振り返り、礼を言う。相変わらずもぎたての果物のような笑顔がそこにあった。

 自分にはない愛くるしさが魅力を放っている。羨むことはあっても欲しいとは思わない。似合わないとわかっているからだ。

 煙は急速にその濃度を下げていく。ものの数秒で見えなかったものの輪郭を明確にしていた。


「あら、かわいらしい子ね」


 紫鬼がまた煙管をふかして言う。

 その声にカーサは目を向ける。

 ……でっか。

 まず目に入ったのは寝台に横たわる女性の姿だった。

 枕元には酒瓶が何本も立ち並び、意匠を凝らした箱型の煙草盆が置かれている。手には煙管と白磁の平盃を持ち、ゆっくりと味を確かめている。

 幾重にも重なる着物は全身を隠してなお余りが床に広がっていた。唯一大きく開かれた胸元だけが豊満な乳をのぞかせている。

 カーサが大きいと感じたのは服を含めた体積のことだ。決して肉体の局所的な話ではない。

 額から三方向に伸びる短い角を揺らしながら、紫鬼は二人を見つめていた。

 そして、

 

「これからどうしましょうか」


 一言告げる。煙管を咥えて、空になった平盃を置くと、ゆったりと上体を起こしていた。

 紫鬼の眉を寄せる姿に、


「いつもはどうしているんですか?」


 カーサが聞く。

 世話とだけ聞いていたので何をするかは現地で指示があると思っていた。しかし紫鬼は首を横に倒すと、


「いつも、ねえ。わからないの」


「……前の方は何をしていたんですか?」


「いないわよ」


「居ない?」


「そ。つい先日見初められて夜伽はしているのだけれど、世話番がつくのは初めてだから」


 紫鬼はそういってまた煙管をはむ。

 ゆったりとした時間が流れる。困ったなと、カーサは考えていた。やれることがないわけではない。部屋を片付けたり掃除をしたり。あとはいつ来るかわからない主上のために衣服の交換や禊の準備くらい。

 つまらない。いつまでそれが続くかは不明だが、くじけそうになる。

 しかしアポロは嬉々とした表情を浮かべ、


「凄いですね!」


「凄い、のかしら? 主上は女好きで色々な人を誘うから誰にでもチャンスはあるわよ?」


「私にも……お誘いはあるのでしょうか?」


「主上の気分次第だからなんとも言えないけれど……あなたなら大丈夫じゃないかしら?」


 その言葉にぱっと花が咲く。

 

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