8= 遠くて霞む希望
「お前がへこんでどうするんだ、王生」
「……」
結局その日は長塚中尉の事もあり、一旦体制を整え直そうと帰還する事になった。
僕はというと……長塚中尉のベッドの横で突っ伏していた。
僕の……僕の不注意で、兄さんは……。
「そう落ち込むなって。死んだ訳じゃ無いんだから……な?」
「そんな事言ったって……!」
呑気な言葉に、思わず僕はガタンと音を立てて立ち上がる。
目を丸くされるけど……目線を落とすと痛々しい程の白い包帯が太い腕に巻かれているのが目に入り、気が病みそうになる。
「……気にするなよ。兵長になって、結果を出さなきゃって焦ってたんだろ?……俺はお前を守れたなら、腕なんて惜しくないんだ。そう……言うなれば名誉の傷って言った所だな!」
「……」
……違う。
僕はそんな、たいそうな理由じゃなくて……ただ浮かれてただけなんだ。
兄さんだって居たんだから分かるハズだ。
僕が彼女と恋人になる所を。
あぁ、こいつは浮かれてやらかしたんだって、思ってもおかしくない……いや、実際思ってるハズなんだ。
……そんな人が、兵長だなんてダメだ。
「長塚中尉。僕……やっぱり兵長辞退します」
「……責任感か?」
「それもあるかもしれませんけど……僕には兵長だなんて、やっぱりとてもじゃないけど力不足で……」
「……」
これを大佐とかの前で言う事になると思うと気が遠くなりそうだけど……それよりも僕が無闇に大きな地位に就いてこんな風に人を傷つけると思うと、どんなにキツく当たられたって辞めたいくらいには、『兵長』は僕には荷が重かった。
それは前も思ったけど、今回は……実際に大切な人を傷つけてしまったから、余計に……だ。
「……王生」
僕の言葉にしばらく考え込んでいた長塚中尉は、何か覚悟を決めた様に真っ直ぐ僕に向き直った。
……止められるのか、合意されるのか。
そんなことを考えていた時、長塚中尉の口から出たのは意外な言葉だった。
「実際……空いた兵長の座に着くのは、誰でも良かったんだ。偶然お前が目に付いた活躍をしたってだけで……お前が責任を感じる必要なんて、本当は無いんだ」
「……えっ?」
「だから、気にしなくていい。……いや、むしろ悪い事をしたと思ってる。ごめんな」
よく分からなかったけど……空いたスペースに目に留まった駒を入れたってだけって事なら、そんなのゲームにすらならないじゃないか。
いや、もっと酷いかもしれない。
あくまでも戦争なのに、そんなのって……。
「そんなの……そんなの茶番じゃないですか」
思わず言ってしまって、ちょっとだけ後悔した。
だって……それはもうとっくに、気づいていた事だったから。
「あぁ……茶番だよ。この世界はもう……」
……あぁ、そっか。
たくさん死んで、たくさん穴が空いた。
僕らはいつだって負ける気なんてしなかったけど……いつまでもこれが続くのなら、いつかきっと切れる。
人だって資材だって、減ってくばかりだって事、皆分かってるのに、気づかないようにしてたって、分かってたのに。
「……それなら、僕が兵長になる意味なんて、」
「でも!……そんな茶番をやらなきゃ、俺たち人間は心を壊してしまうからな」
僕が言おうとすると、兄さんはそれを止めるように言った。
まぁ……やっぱりそうなんだ。
僕らはあがかなきゃいけなくて……もしそれがほとんど無茶ぶりで、ずさんで馬鹿らしい事だったとしても、なにもしないで狂って死んでいくよりはだいぶマシだからってだけで……。
じゃあ、僕は無駄な事をしてるのかな。
誰も守れない、このままで……。
「……知ってるか?お前がまだ生まれてないうんと昔、ここは観光地だったんだ」
……僕が深く考え込んでいると、兄さんは突然そんな事を言った。
「観光地?」
「そう。その頃にはあんなでっかいレーダー塔なんて無くて、ただの暑い島だったそうだ」
「……それは知ってる。もっともっと大きい島と、大陸ってのもあったんでしょ?」
「あった、じゃない。あるんだ、今だって」
これ以上考えてもキリが無いからか、話題を変えた兄さんの話に乗る。
けど……兄さんの言う事は、まるで信じられない。
夏でさえこんなに冷たい風が吹くのに、暑いだなんて……れいちゃんとくちづけした後の僕の頬より暑いのかな。
なんか、そんなに暑いのが続くと嫌だけど……。
「じゃあ、そのどこかには……僕ら以外の人も居るのかな」
「……居ると信じたいな」
学校で習ったから、昔に居たのは知ってる。
教科書って本にも載ってたし……昔は皆あんな本を持ってたみたいだけど、自分の本があるって羨ましいな。
たくさんの本が失われて、ほとんどのデータが飛んでしまったと言うけど……それまではきっと、聞くだけじゃ分かり切れない程たくさんのもので溢れてたんだと思うと……
「どこで間違ったんだろうな、この世界は。……平和な世界で、お前に広い大地を見せてやりたかった」
……ちょっとだけ、羨ましくも思ったけど。
だけど、いつだって過去が羨ましくなるものなんだから、過去ばっかり見てて今が過去になった時……まぁ、今より酷い将来なんて考えたくないけど……もし羨ましく思ったとしても、そしたら遅いから。
でも、それは僕の問題であって……。
「……それは、兄さんがどうにかできる事でもないでしょ」
「……まぁ、そうだな」
僕が言うと、兄さんはそう答えて立ち上がる。
「だが……こうなった以上、俺は俺の責任を果たさなくちゃだからな」
「責任って……まさか兄さん、その足で行くつもりじゃ……」
「あぁ。俺はなんたって、中尉だからな」
「……」
出来るなら止めたかった。
けど……止めた所でどうにもならない事、そして僕には兄さんを止める権利なんてない事が痛い程分かるから、僕は唇をグッと噛んで言いたいのを我慢する事しか出来なかった。
「……そんな顔をするな」
「だって……」
「俺は大丈夫だから。な?」
大丈夫だって?
どこが大丈夫なんだよ。
大丈夫な人なんてもう居ないのに、兄さんはその中でももっと大丈夫なんかじゃないのに……。
「それより、彼女の元へ行ってやりな。今回は三日は帰れないと思うから、ちゃんと待っててくれって言うんだぞ!」
兄さんはそう言って僕に笑いかける。
満面の笑みは、僕にとってはとても見ていられないものだった……けど。
「……久しぶりに兄さんって呼んでくれて、嬉しかったよ」
……その言葉に、僕は向き合わざるを得なかった。
その笑顔の奥にある、確かな決意。
兄さんは諦めたからこそ、こんなに真っ直ぐでいられるんだ。
「兄さ……!」
思わず手を伸ばしても、兄さんはもう振り返ってくれなかった。
もう、ダメなんだ。
たとえ僕が何回兄さんを呼んだって、『兄さん』はもう振り返ってくれない。
だって『僕』の兄さんは、もう居ないんだから。
「……長塚中尉」
これは決別だ。
兄さんと、僕の。
誰よりも僕の兄さんである事を望んだあの人は、もう僕にとっての『長塚中尉』でしかなくなる事を選んだんだ。
それはきっと……僕の為。
戦場で庇われて、長塚中尉を傷付けてしまった僕へ、『兄さん』を傷付けた罪悪感からの解放と、『長塚中尉』に傷を負わせた責任をとれと。
……立ち上がれ、と。
そうだ。
僕はまだ、王生兵長なんだから。
「しき」
僕が一人決意を固めると、長塚中尉の出て行った方から透き通った声が僕を呼んだ。
僕の名前をこう呼ぶ人は、ここには一人しかいない。
「……れいちゃん」
れいちゃんはこちらに歩いてくると、さっきまで長塚中尉が寝ていた布団の上に勢い良く座った。
……そういえば、もう三日経っていた。
どうして今まで忘れていたのに、こんな時に思い出してしまうんだろう。
結局、彼女のくちづけ……というか、唾液だろうけど、それの鎮痛効果は確かなもので、それの副作用なんかも見られなかった。
いくら恋人になったからとはいっても……長塚中尉の言った通り、夜は休めるとしても三日も戦場に留まらなきゃいけないこんな状況で……恋人だから嫌だというのは許されない。
唾液を全員に配るとかでも嫌なのに、もしその効果が認められて彼女まで戦場に連れて行かなきゃいけなくなってしまったら……。
……そう考えると、どうしても僕は言い出す事が出来なかった。
「……どうしたの?」
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