9= 最低で心地良いとき

「……どうしたの?」


不思議そうな彼女の言葉に、思わずビクッとしてしまう。


『僕』は彼女をそんな風に利用したくない。

でも、『兵長』は勝つ為に彼女を利用しなくちゃいけない。


皆痛くない方が良いに決まってる。

でも、僕は……彼女を独り占めしたいと思ってる。


それは、僕が彼女の恋人だってのは勿論だけど、……僕が既に彼女の恩恵にあやかってるからだ。


痛くないのがどれほど楽か分かってて、痛くなるのが嫌なのも分かるのに、それでも僕は今一人だけあやかり続けようとしてる。


それはとっても残酷で、恥ずべき事だ。


でも、それでも、僕は……。


「……汗」

「!」

「汗すごいかいてるけど」


僕が答えなかったからか、れいちゃんはそう言葉を重ねてきた。


肌寒いこの季節に出る汗なんて冷や汗だけだ。

思ったよりびっしょりしていて、落ち着かなきゃ……と更に焦ってしまうと、れいちゃんは僕の方に手を伸ばして頬に触れた。


くちづけされるのかな……とボーッと思っていた矢先、首元の汗が彼女の手に触れて、ぬるっとした感覚にまたヒヤッとする。


「ご、ごめ……」

「何?」

「汗かいてるから、今あんまり触らないで欲しいんだけど……っ?!」


優しく振りほどこうとすると、……どうしてそんな事しようとしたのか、全く分からないけど……。


……彼女は勢い良く立ち上がった勢いで僕に近づいて、僕の肩に片手をやり、頬にやっていたもう片方の手をズボッと背中と服の間に入れてきた。


「ちょ、ちょっと……?!」


さっきのがちっぽけに見えるくらい、彼女の方に僕の汗が移る感じがする。


……わざと?わざとなの?!


突然の奇行に汗を気にする暇も無く固まっていると、彼女は僕の背中からぬるっと腕を引っ張り出し、僕の顔の前に持って来た。


「な、なに……?」

「……舐めて」

「……え?」

「舐めて」


汗をかいた所を見た事が無い彼女の腕から、ゆっくり雫が伝うのが目に映る。


そしてその先には……ふざけてる訳でもからかってる訳でも無いいつもの彼女の表情。


「……えっと、何を?」

「舐めて」


とりあえず聞いてみても、彼女は答えてくれない。


……彼女の言わんとしている事は分からなくもない。

要は腕を……僕の汗が付いた腕を、舐めろって事でしょ?


でも……何で?

汚れたから綺麗にしてって事?


それなら川とかで洗えばいいというか、そもそも背中なんかに腕を突っ込まなきゃいいのに……と思ったりもしたけど、これ以上何を言っても答えてくれないだろうなってのは分かったので……しょうがないからゆっくり差し出された腕に顔を近づける。


ツンとした感じの、いかにもな汗の匂いと、彼女……れいちゃんの匂いが混ざった不思議な匂いが鼻腔をくすぐる。


もうここまで来たらしょうがないし、ぎゅっと目を瞑って、思い切って……汗の付いた彼女の腕を軽く舐めてみた。


「どう?」

「……しょっぱい」


どんな答えが正解か分からなかったけど、とりあえずそう言うと、彼女はフッと笑ってくれて一安心する。


「おかしい?」

「えっ……何が?」

「しきが、自分の汗舐めるの」

「……ま、まぁ、」


すると、そのままちょっと機嫌が良さそうに彼女は続ける。


感想だけ聞くだけ聞いて満足して放置、なんて彼女の事だからありそうだな……とも思ったけど、とりあえず会話を続ける気はありそうだ。


僕がそんな風に曖昧な答えを返すと、れいちゃんはまたふわっと笑った。


「おかしくて、忘れちゃったね」

「……忘れ……何を?」

「悩んでる事」

「……?……あっ、」


そういえば……すっかり今の一連で、どうしようもないくらいぐちゃぐちゃで気持ち悪かったのが、ほとんど無くなっていた。


……そっか。


今の奇行は、僕を心配して……なのかな。


そう考えると、不思議に感じていたのがだんだん微笑ましく思えてきて、思わず頬が緩んでしまう。


「ありがとう、れいちゃん」


今だけは……今だけは、この幸せに浸っていたい。


この時間だけは譲れないんだ。

頑張るから……この時間で三日の戦場と、その後の責任も乗り越える、から……。


「ん、」


……僕の言葉に、れいちゃんはそう呟いて小さく笑った。


そのまま、どちらからとなく寄り添い合って目を閉じると、まるで今が戦争中だなんて……。


「……あっ」


……甲高いサイレン。


呼ばれている。

皆も僕も、何をしていようと、




僕は……。


「行かなきゃだ。……ごめん、れいちゃん」


僕が言うと、れいちゃんはゆっくりと目を開けて寄りかかっていた体重を戻した。


……僕は結局、ただの兵士でしかない。


だから、有益な情報を黙っている事しか出来なくて、……どれだけ頑張ったって、いずれ殺される駒だ。


それでも、僕は……ちょっとでも長くれいちゃんを守ってられるというのなら、その為にだったら戦えるから。


「……痛いのは?」


僕が決意を固めていると、れいちゃんはそう聞いてきた。


痛いの……つまり、『くちづけ』の効果は切れてないかという事だ。


そういえば、長塚中尉はこんかいの戦場に出る期間は三日程になると言っていた。


三日……三日も効果を続けるなんて、どれだけくちづけすれば良いんだろうか。


考えるだけで気恥ずかしくなりそうだけど、だからと言って戦場で痛みが出たら飲み薬の様に使いたいと、彼女の唾液を図々しくも貰える程鋼の心を持ってる訳ではない。


「……あの」


……でも、だからといって戦場で効果を切らすつもりは無い。


勿論死んだり足でまといになったりするのが嫌なのもあるけど、何より……彼女を守る為なら、多少の恥ずかしさくらい後回しに出来ないで、何が恋人だと言うんだって話だからだ。


……そう、僕達は恋人なんだから。


「三日、行くから……いい?」

「何が?」

「だから……その、」


顔はもう茹でダコの様に赤いだろうけど……僕は勇気を振り絞り、彼女に抱きつく様にくちづけをした。


嫌そうな顔をされたりとか、辞めてとか言われないかと怖くてドキドキだったし、こんなのをれいちゃんは、自分から躊躇無くやってたんだと思うと、彼女とのメンタルというか……耐性の差を見せ付けられるようで、ちょっと落ち込みそうになる。


……けど、そんな劣等感は、ぎゅっと閉じていた目をゆっくり開いた時に映った彼女の表情で、全部飛んでいってしまった。


この、優しい穏やかな顔。


つい、何も無いのに涙腺が緩くなりそうで、慌てて目に力を入れて耐える。


「どうしたの?」


すると、あんまり僕がだらしない顔で見つめるからか、れいちゃんに至近距離でちょっと笑われてしまった。


「だって……」

「これでおしまい?」


僕が言い訳しようとすると、れいちゃんはそう言って僕の言葉を遮った。


……何だか、試されている様な気がした。


それに、このままじゃ事故とも言えそうな頭突きの様なくちづけしか出来ない奴だと思われてしまう。


長塚中尉じゃないけど、男のプライドというか……人としてのプライドで、さすがにそんなに甘く子供の様に見られるのは嫌で、僕はすぐさま意地になって彼女を抱き寄せ唇を重ねた。


「ん……」


……あったかい。


甘いのと同じで、本当はれいちゃんの頬より僕の頬の方がよっぽど熱くなってるハズなのに、キャンプの火なんかよりもずっとあたたかい。


うっすらと目を開けると、律儀に目を閉じてされるがままになっているれいちゃんが映った。


……でも、余裕たっぷりどころかこれじゃただ寝てるみたいだ。


そう思うと、何だかちょっと自分だけドキドキさせられてずるいなって、思ってしまって……。


「!」


れいちゃんの体が、ちょっと驚いた様にピクリと動いた。


僕は……たまたま中尉達が大人の話をする時に知った『大人のくちづけ』を、見よう見まねでれいちゃんにした。


何だかこんな事、変態みたいで恥ずかしいけど……それでも普通にくちづけするよりも遥かに刺激的で、内蔵で触れ合ってる様で、とっても不思議な気持ち。


何より、すごく……きもちよかった。


「し……」

「だめ。止めないで」


体を離して何か言いかけるれいちゃんだったけれど、僕はそれを遮って半ば強引にはじめてのくちづけを続けた。


……止められなかったんだ。

まるで、前……二度戦場で暴走した時の様な、体が言う事を効かない感覚。


段々と心と体が乖離して戻れなくなりそうな感覚に、僕はその時、確かに言われもない恐怖を覚えていた。

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