7= 温かくて離れない人
「
「……あっ、は、はいっ!」
聞き慣れた名前とそれに似合わない階級の組み合わせに咄嗟に反応しきれず、ワンテンポ遅れて返事をすると、たるんでると言わんばかりの強い眼光で睨まれて萎縮してしまう。
「今日から前兵長を全うしてくれた
「はいっ!えっ……と、頑張ります!よろしくお願いします!」
「……まぁ良いだろう。下がりなさい」
「はいっ……!」
皆の前に出て紹介されるなんて、さらには話す事になるなんて勿論用意してなかったから、当たり前の挨拶しか出来なかった。
なので当然期待外れの様な対応をされるけど、僕はそれどころじゃなかった。
……出発の前に、彼女に会わないと。
前の様に居なくても分からない様な下っ端で居られないからこそ、この出発前に彼女に会えるのか……抜け出せるかどうかでさえ分からない。
多分、今回行って帰ってくるのはさっきのくちづけでは足りないし……。
……それもそのハズ、今日中は大丈夫だと思われていたのに、レーダーが捉えた量が予想より多く、こんな夜中から出ていかないと万が一侵攻を許してしまうのではと言うし、これ以上量が増えると二日三日戦場に留まるのも止む無しと言われる程だからだ。
「王生?どうした?」
……と、ぼーっと考えていたら、解散後準備に入ろうとしていた長塚中尉に心配された。
「いえ……すみません、シャキッとします」
「良いんだ。お前の気持ちも分かる」
「?……はぁ、」
「あっ、そうだ」
長塚中尉の言葉にちょっと首を傾けていると、思い出した様に耳打ちされる。
「少し時間あるし、彼女に行くと伝えて来たらどうだ?俺もあいつに言いに行こうと思うし」
「……そうしたいんですけど、もう寝てるかなって……」
「寝てたって、見送りくらいはしてくれるさ。……何せ、行くのは戦場だからな」
はっきりとは言わなかったけど、つまりは毎回最後になるかもしれないんだから、戦場に行く前くらいは会っとけ……という事か。
「男の役目は戦う事。女の役目は、そんな男を見送って迎える事だ」
「……いつの時代の話してるんですか」
ふざけた様に言う長塚中尉にため息をつきつつ歩いていると、いつの間にか寝床の所に着いて、その前には宝来さん……長塚中尉の恋人が立っていた。
「由紀子。起きてたのか」
「あのサイレンじゃ、誰だって起きますよ」
「……そうか」
少し悲しそうに笑い合う二人の横で、自分の若干の場違い感を感じていると、さすがに気づかれないという事も無くて、宝来さんと目が合ってしまった。
「……王生さんは、もしかしてれいさんに会いに?」
「えっ、と……」
そう言われるのはここまで来た時点で目に見えていたのに、いざ聞かれると戸惑ってしまう。
長塚中尉と宝来さんの関係とは違って、僕らの関係には名前が無い。
そしてそれは……寝ている所をわざわざ起こしてまで会う程の理由を付けられるものでは無かった。
そう……強いて言うなら、片思い。
僕の一方的な願いでしかない。
……こんな状況、おかしいんだ。
「ちょっと待っててくださいね」
「あっ……」
僕がしどろもどろになっていると、そう言って宝来さんは引っ込んで行ってしまった。
彼女……安在さんに留まらず、長塚中尉と宝来さんの時間まで引き裂いて……本当にダメダメだ。
「……どうした、王生」
「……」
……ずっと、失敗して、それでダメだったって言って。
流されてばっかりで、今だって確認するのが怖くて不安なままで。
兵長にもなったのに、責任感なんてまるで無いままで。
「れいさん、連れて来ましたよ」
もうこれ以上は誤魔化せない……いや、誤魔化しちゃダメなんだ。
結果がどうであれ、僕はこの状況に甘んじてちゃダメなんだ。
……それは、これから痛い思いをしなくちゃいけなくなっても。
「……安在さん」
告白しよう。
僕と彼女の関係を、夜見送って貰う為に起こせるものなのか、そうでないのか……いい加減ハッキリさせないといけないから。
****
「王生兵長!」
日が昇り、戦場に着いて……僕は浮かれていた。
『敵』に向かって銃を乱射して……精度が悪い分、確実に一発は当てられるように、戦闘不能に出来るように、うんと前線に近づいた。
『いいよ。……王生さんがそれが良いなら、恋人になろっか』
……僕は、浮かれていた。
「王生兵長!それ以上進まれては……僕らでは援護し切れません!」
「……大丈夫!」
何故か分からなかったけど、いくら前線に出ても、全く怖くなかった。
いや、怖いどころか……心の底から湧き出てくるのは、ワクワクする様な楽しい気持ちばかり。
……どうしてそう思うのか分からないけど、進みたくて仕方ない。
石に足をとられて転んでも全く痛くないし、近づきすぎて蹴飛ばされてもどうって事無かった。
『……安在さん』
ただ、銃声の響く中、頭の中では何度も何度もあの光景が繰り返される。
『僕の……僕の恋人に、なってくれませんか』
僕の言葉に、きっと長塚中尉と宝来さんは驚いただろう。
……まぁ当然だ。
二人は、僕らはもうとっくに恋人なんだと思ってたんだから。
けど……そんな事気にも出来ないくらい、僕は彼女の事でいっぱいだった。
もう後には引けない。
ここで断られたら、それこそもうおしまいだ。
恋人にはなれないけどくちづけは良いよなんて言われて、それを図々しく享受できる程、僕は出来た人間じゃ無かったし。
『いいよ。……王生さんがそれが良いなら、恋人になろっか』
だから、その答えを貰った時……僕はもう他の事なんて考えられない程、彼女との世界に浸り切っていた。
『……じゃあ、僕の事は王生さんってのじゃなくて、名前の方……しきって呼んで欲しいな』
恋人になって一番の言葉が、ありがとうとか、好きだとかじゃなくて……そんな言葉になってしまったのも、自分で聞いといて良いと言われる予想なんて出来てなかったからだ。
『いいよ。……しき』
言われた通りに名前で……しかも、さん付けで呼ばれていたのを急にラフな呼び方になったから自分で言っておいてちょっと驚きつつも、当然頬は緩んでほんのり火照った。
好きな人に名前を呼ばれて、恋人になったんだって、ようやくちょっとだけ自覚出来て……。
『じゃあ……そうだな。私の事は、れいちゃんって呼んでよ』
『……れいちゃん?』
『そう。それが一番』
一番……何なのかは分からなかったけど、とりあえず彼女にとってその呼び方が特別なんだって事は分かった。
だから、その呼び方を僕に許してくれた事が嬉しくて嬉しくて……怖かったけど、これだけで勇気を出して恋人にして欲しいと言った甲斐があったなと思えるくらい……いや、お釣りが来るくらいだった。
「れいちゃん……」
彼女の下の名前は宝来さんとかが呼んだりするので知っていたけど、この呼び方で呼ぶ人は居ないので特別感があってくすぐったい。
はぁ、早く帰ってこの呼び方で呼んで、名前で呼び返されたいな……。
痛くないし、死にたくないけど怖くは無いから前線に出ちゃうけど、やっぱりこんな前に居ても死ぬって感じが無いというか、むしろ後ろで怯えてた時の方が死にそうな気がしてたというか……。
「王生っ!!!」
……えっ?
そんな風に考えていた時、大きな声が聞こえた。
長塚中尉……兄さんの声だった。
……そしてそこからは、とてもゆっくりと時間が過ぎた。
強く後ろに飛ばす様に押しのけられて、思わず体勢を崩す。
視界に入らなかった『敵』の銃口がこちらの目線と真っ直ぐ合う事に気づく。
そしてその直線上に、大きくてがっしりした……見覚えしかない背中が映る。
背中を打ち付けて、痛くは無かったけど一瞬視界を逸らす。
……そして、その隙に。
「長塚中尉!!」
誰かの悲痛な声にもう一度目を向けると、僕の目の前には血の赤と、肉片と、焦げた様な匂いがあった。
「……王生、無事か?」
血をだらだらと流しながら、そう言って笑うのは……紛れも無く、兄さんだった。
「……」
そして、こんな場面を見ても尚……彼女の事と、彼女と交した『くちづけ』が、脳裏から離れない僕が居た。
『しき……頑張ってね』
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