第9話

 悪魔の消滅を見届けたのち、瑠璃の元へ駆け寄った。瑠璃の顔は血の気が失せたように真っ青で、まるで生気を感じさせない。

「大丈夫? ねぇ、大丈夫なの?」

 横たわる瑠璃の顔を覗き込みながら、必死の思いで声をかけた。すると、瑠璃が眩しそうに目を開けて、

「大丈夫、だよ。だいぶ落ち着いてきた」

 と言いながら、上半身を起こし始めた。

「まだ動いちゃダメよ! そんな傷で大丈夫なわけないじゃない! 早く病院に行かないと!」

 慌てふためく私を見て、苦笑する瑠璃。だが、私の背後を見て、

「――蓮美、後ろ!」

 刹那、鉛色の刃が私に振り下ろされた。瞬時に握った斧槍を私の背中に置き、間一髪防ぐ。

 この状況で、私を攻撃する人物。それは一人しかいない。

「もう、殺して差し上げてもよろしくて?」

 刃を弾くと同時に、振り向き立ち上がった。相対するは、長鉾を構え不敵な笑みを浮かべる栗花落。

「栗花落。私には時間がないの。今日は見逃してくれないかしら」

「嫌です。昨日の続き、この場を借りて始めませんこと?」

 栗花落が笑顔で言う。だが、その構えには一分の隙も見当たらない。

 私一人なら逃げることも出来ただろうが、後ろには負傷した瑠璃がいる。瑠璃と共に離脱したところを狙われたら、そこで終わる。

「……瑠璃、ごめんなさい。一人で行ける?」

 振り向くことなく、背後の瑠璃に問いかけた。

「言ったでしょー? もう大丈夫。離脱ぐらいなら、問題ないよー。……それよりも、蓮美。もう時間が――」

「ええ、わかってる。だから、時間はかけない」

 瑠璃の発言を遮り、斧槍を構えた。時間が残り少ないことは、私もよく知っている。

「……わかった。先に戻るね」

 瑠璃がそう言って、離脱を始めた。直後、

「させませんわ!」

 栗花落が長鉾を突き出し、突っ込んできた。長鉾を斧槍で弾き、栗花落の横っ面を蹴り飛ばす。

 吹き飛んだ栗花落が、砂埃を上げながら地面に転がった。だが、即座に立ち上がり再度向かってくる。間髪入れずに襲いくる追撃。それを躱しながら、斧槍を構え応戦する。幾度も繰り返し刃と刃が火花を散らして衝突し、灰色の空間に金属音が鳴り響く。

 音速すら凌駕するような刃の衝突を、数えること数十度。彼女の容赦ない苛烈な攻めを辛うじて防ぎながら、改めて思う。

 栗花落は強い。彼女の手元から変幻自在な角度で放たれる刃の数々は、そのどれもが私の急所を目掛けて飛来する。一撃でも受けてしまえば、たちまち私は命を落とすことになる。まさに、鋼の殺意。そして、きっとそれは彼女にとって造作もないことだ。

 だが、私はまだ立っている。私の生存こそが、彼女の心をどうしようもなく証明していた。

 栗花落が振り下ろした長鉾を、斧槍で受けた。そのまま鍔迫り合いが続き、無言のまませめぎ合う。

 拮抗した静寂の中、ふと栗花落が口を開いた。

「……なぜですの?」

 栗花落が私に問う。油断を誘うために話しかけたわけではないことは、栗花落の長鉾に込められた力が雄弁に語っていた。圧倒的な技量を持ちながら、人並み外れた膂力も持ち合わせている。これが栗花落の強さ。ほんの少しでも気を抜けば、押し切られる。斧槍を握る両手に神経を張り巡らせながら、聞き返した。

「何のこと?」

「とぼけないでください! どうして私にあの【権能】を使わないのですっ!」

 栗花落が怒りを露わに叫んだ。目尻が限界まで吊り上がり瞳が血走っている。まさに鬼の形相だ。

 栗花落が言う【権能】。それは、間違いなく【極限時流制御・発散加速ダイバージェンス】のこと。つい先ほど悪魔との戦いで見せた私の【権能】。その様子を、栗花落は気配を殺しながら、目撃していたのだろう。そして、彼女はこうも考えている。あの【権能】を私に使わないのは、私に対して本気ではないからだ――と。

 なるほど。つまり栗花落は『あなたは私に手を抜いている』と言いたいのだろう。

 それに対する、私の返答はこうだ。

「本気じゃないのは、お互いさまでしょう。あなたこそ、【権能】を使ってみなさい」

 口にした途端、みるみるうちに栗花落の顔が真っ赤になっていく。そして、栗花落が後ろに跳んで距離をとった。

「今の言葉、後悔させてみせますわ」

 長鉾を上段に構え、栗花落が深呼吸を繰り返している。栗花落の周囲に濃密な殺気が漂い始めた。私の全身を得体の知れない悪寒が駆け巡る。

 これは、恐怖だ。私の本能が目の前の彼女は危険だと、全細胞が警鐘を鳴らしている。それは、ありとあらゆる生物が決して乗り越えることが出来ない境界。

「――【我、幾千を殺す者也黄泉津大神】」

 栗花落が静かに告げる。次の瞬間、栗花落が手にしている銀色に光り輝く長鉾が、一筋の光さえ逃さない漆黒へと変貌した。

 そして、それを構えたまま、栗花落が私目掛けて駆け出した。

 私は栗花落の動きを目で追いながら、静かに集中し、脳裏に浮かんだ言葉を口にした。

「――【極限時流制御・収束停滞コンバージェンス】!」

 私に振り下ろされた漆黒の刃を、私の斧槍で受け止める――!

 長鉾が斧槍に触れた瞬間、栗花落が勝利の笑みを浮かべた。

 だが、みるみるうちにその笑顔が引きつっていく。目を見開き、口元は開いたまま。

「驚いたでしょう? 目論見が外れて残念ね。私にはもう、あなたの【権能】は通用しない」

 そう告げると、栗花落が鬼の形相で言葉にならない奇声を上げながら、長鉾を振り回し始めた。私はそれを落ち着いて受け流す。

 栗花落が宿す〝神〟について、見当はついていた。栗花落の武具であるあの長鉾は、おそらくかの女神が国生みの際に使用した鉾、すなわち〝天沼矛あめのぬぼこ〟の再現。椿の【糸】と私の斧槍を破壊してみせ、あまつさえあの悪魔をも殺して見せた彼女の【権能】は、『この大地に住まう者すべてを呪い、日毎に千を殺してみせる』と宣言した女神の能力。そして、彼女が口にした〝黄泉津大神〟こそ、黄泉の国、死後の世界を支配した神の名。

 またの名を、【伊邪那美命イザナミノミコト】。彼の女神は、私たちが住まうこの国に語り継がれる神話において、国土と数多の神々を産み落とした始まりの地母神。

 そして、それは死の象徴。無機物でさえ殺してみせるその【権能】こそ、万物の〝死〟であるかの女神にのみ許された能力だ。

 おそらく、栗花落はその【権能】を利用して〝気配を殺した〟ままこの領域に潜伏していたのだろう。

 だからこそ、彼女は自身が扱う【権能】に揺るぎない自信を持っていた。彼女の長鉾が触れた瞬間に勝利を確信したのもそのために違いない。

 だが。

「どうしたの? あなたの【権能】が私に通用しない以上、あなたはもう私を物理的に殺すしかなくなったのよ?」

 獣じみた雄たけびを上げながらただ長鉾を振り回すだけの栗花落。私はそれを軽くいなしながら、栗花落との距離を詰める。

 先ほどまでの栗花落ならともかく、今の栗花落は衝撃と焦りに我を忘れ、力の限り長鉾を振り回しているだけだ。冷静さを忘れた栗花落の長鉾は、精彩を欠く。ただ動き回るだけの長物なら、私の技量だけでも防ぐのは容易い。

 彼女の【権能】は確かに強力だ。生命であれ、無機物であれ、この世に〝永遠〟が存在しない以上、〝死〟は森羅万象、ありとあらゆるものに訪れる、絶対的な終焉。

 だが、〝死〟とは〝生〟の対極にあるもの。その二つを直線で結ぶのは〝時間〟に他ならない。

 私の願いに応えてくれたクロノスは、私に二つの【権能】を託した。

 一つは、【極限時流制御・発散加速ダイバージェンス】。それは、私が持つ『彼女たちと共に、先へと進みたい』という、未来への渇望、私の欲望。私を取り巻く時流は抑えきれない情動によって発散し、何人たりとも寄せ付けないほどに加速する。

 そして、もう一つが【極限時流制御・収束停滞コンバージェンス】。これは、私の中にある『彼女たちと在る今を、決して手放さない』という、現在への執着、私の執念。私を取り巻く時流は、私の意思に従って極限まで停滞し、零へと収束する。

 従って、栗花落の【権能】を受けた私の斧槍は〝死〟を無効化したのではなく、〝死〟に辿り着くまでの時間が極限まで引き伸ばされただけに過ぎない。

 だが、それは我を見失った彼女には知る由もないことだ。

「どうして、どうして、どうして、どうしてぇぇぇぇぇ!」

 鼓膜を劈く様な聞くに堪えない絶叫は、圧倒的な声量で聴覚を刺激する。血走った瞳から放たれる獣の眼光は、目の前の私を切り裂き、斬り捨てる未来だけを見ている。

 だから、攻めが大雑把になり付け入る隙が出来る。現在から目を逸らした者が、未来へと歩みを進めることは出来ない。

 栗花落が長鉾を大きく振り上げ、力任せにそのまま振り下ろした。単調な軌道。私はそれを軽くかわし、長鉾をそのまま横から斧槍にありったけの力を込めて弾いた。

 長鉾が栗花落の手元からするりと抜けて、数メートル先に吹き飛ぶ。

「あ……、あぁ……」

 呻くように呟くと、栗花落はそのまま地面に崩れ落ちた。その顔に先ほどまでの怒りはなく、焦点が合わない虚ろな瞳が、既に死人のようだった。

 戦意喪失。ここまでだ。

 へたり込んだ栗花落に、斧槍の切先を突き付けた。

「ふっ、ふふふ……」

 栗花落が俯いたまま肩を震わせ、笑っている。

「何がおかしいの?」

「いえ、まさかあなたに敗けてしまうなんて、思いもよらなかったものですから。最早、私には笑うことしかできませんの」

 栗花落はそう言って笑い続ける。私は斧槍の針の先端を栗花落の胸元に突き付けた。

「最期に、一つ。教えていただけませんこと?」

 栗花落が笑うことを止め、私を見上げた。脱力しきった瞳の奥には、最早何も残されていない。

「何かしら」

「あなたに宿っている、神の名を」

 予想していなかった問いに、思わず息を呑んだ。刹那、昨日の発言が脳裏を過ぎる。

 ――彼女には聞かなければならないことがありますの。

「……それを聞いて、どうするのかしら」

「どうもしません。答えを得たところで、私はそのままあなたに殺されて死にゆくのみ。ですので、冥土の土産にでも教えていただければ、と思った次第ですの」

 死を目前にして、私のことなんて何故知りたがるのか。理解できずに栗花落の問いに答えるべきかどうか逡巡していると、栗花落が静かに語りだした。

「あなたは、私に宿る神が、かの【伊邪那美命】であることを知っていたことでしょう。ですが、あなたが私の身に宿る神を理解していたように、私もまたあなたが宿す神について、予測していました」

 栗花落が語る。死を突き付けられた人物とは思えないほど、冷静に、穏やかに。

「あなたは昨日、私に挑んだ時『私の友人を二度も手にかけた』と言いました。しかし、私があなたと刃を交えたのはただの一度だけ。そして、それも結局私はおめおめと逃げ帰ることになりました。であるならば、あなたが言う『二度』とは何を指すのか。それは、当の本人である私さえ与り知らない、失われた時間。すなわち、あなただけが知っている事実ではないか、と」

 栗花落の推測は正しい。彼女が言うように、【時間跳躍】した場合、私が帰還した地点より先の出来事は全てなかったことになり、誰の記憶にも残らない。私以外の人物からすれば、私の記憶に残っているその出来事はまだ存在していないのだから、当然だ。

「そして、先ほどの悪魔との戦い。この【擬似神代領域】においてさえ物理法則を無視しているようなあなたの動きは、まさに時間の法則に干渉しているとしか考えられません。これらの状況証拠から、私はあなたが行使する【権能】は時間を操作しているのではないか、と思った次第です。……しかし、ここで一つ疑問が残ります。時間を操る神、すなわち〝時間神〟とは、一体如何なる存在か」

 無言のまま視線で続きを促した。栗花落に気付かれないよう、ごくりと唾を飲み込む。

「私が知っている限り、〝時間神〟なる存在はどの神話体系においても、存在しません。もちろん、私が知らない地域には時間を意のままに操る神々も語り継がれているかもしれない。しかし、そんな辺境の神々が、私たち人間を救うために力を貸すでしょうか?」

 栗花落の瞳が、そんなことはあり得ないと強く訴えかけてくる。

 神々の知名度は、人間に対する干渉度に比例する。人々の間に多く知れ渡るということは、それだけ人間への接触を繰り返したということ。逆に言えば、知名度の低い神々は私たち人間に干渉する程興味がない、ということになる。

「そして、私に宿りし【伊邪那美命】は、冥府を統べる神。不思議なことに、私には生物の所在が分かるのです。それは、人の内側に眠る神々でも例外ではありません。……ですが、昨日私はあなたの首元に触れた時、はっきりと理解いたしました。あなたの中に神々の気配がないことを」

 蘇る栗花落の声。

『あなたに聞きたいことがあります』

 あの時彼女が異様なほど驚いていたのは、そういうことだったのか。

「さて、改めて聞かせてください。穂村蓮美さん。あなたに宿った神の名は、なんというのですか?」

 私の沈黙や嘘を許さない、栗花落の鋭い眼光。刃を喉元に突き付け、優位に立っていたはずの私が、いつの間にか追い詰められている。私が握っていたはずの主導権は、気が付けば私の手を離れていた。最早私に黙秘権はない。

 深呼吸を二度ほど繰り返し、静かに栗花落へ告げた。

「私の中にある神の名は、【時間神クロノス】。あなたの言う通り、私には〝時間〟に干渉する【権能】が与えられた。そして――そんな神は存在しない。」

 時間神クロノス。その名はギリシャ神話の主神ゼウスの父として、知られていることがある。しかし、正確には違う。ゼウスの父として語られるクロノスは農耕を司る神だ。時間神クロノスという存在は、ある思想家によって創りだされた存在でしかない。

「私の中の神は、私の願いによって生まれた存在。どの神話にも語り継がれていない、ただの偶像。私の中にしか存在しないの」

 この【擬似神代領域】に赴く前。あの病院の屋上で瑠璃に聞かされた三つの話。その内の一つが、〝私の真実〟だった。

 静寂が私たちを包み込む。先ほどまでコロコロと表情を変えていた栗花落は、ただ無表情のまま静かに私を見つめている。その瞳には、先ほどまでの私を射殺さんばかりの殺意は既にない。彼女の双眸は、もう私さえ映してはいなかった。まるで時間を止められたように、栗花落は微動だにしない。

 私は、栗花落から目が離せなくなっていた。目を逸らせば取り返しのつかないことになる様な気がしてならない。絶対に目を離してはいけないという強迫観念が、私を支配している。心臓は早鐘のようで、鼓膜を刺激するのは鼓動だけ。時間の感覚なんてとうになくなっていた。無言のまま栗花落と見つめ合って、もう丸一日は立ったような気がするし、ほんの数秒前まで斬り結んでいたような気もする。

 ふと、栗花落の目尻に煌めくモノを見た。それは、徐々に肥大化し、一つの塊として栗花落の目元から頬へ。栗花落の真っ白な頬に残る一筋の輝き。

 ――涙?

「……ああ、なんと憐れな」

 栗花落の呟きと共に、大粒の涙が彼女の頬から灰色の大地へと零れ落ちた。

 堪らず疑問を口にした。

「どういうこと?」

「貴方は、神々に魅入られた者ではありません。ですが、見初められてしまった。神々に魅入られた人物に」

 その震えた声に、いつもの嫌味な調子は皆無だった。まるで自分の身に降りかかった不幸を嘆くような、深い悲しみ。他者への明確な憐み。

 不意を突かれた私は、ただ驚くばかりだった。しかし、静かに涙を流し続ける栗花落を見ていると、段々と胸の底から熱いものが込み上げてきた。

「――ふざけないでッ!」

 私の口から出た怒号は、私が想像していた以上のボリュームで栗花落を圧倒した。彼女が虚を突かれたと言わんばかりに顔を上げ、真っ赤に充血し、潤んだ瞳で私を見つめる。

 私の中にあるもの、それは怒りだ。

 憐憫とは他者への慈愛を示す感情。他者に降りかかった不幸をまるで自らのことのように感じ、同調する機構。

 だが、それは他者が自らより不幸である場合にしか発生しえない。その人物がどれだけ不幸であったとしても、自らより恵まれていることが明らかなら、憐れむどころか嫉妬さえ覚えるのが人間だ。

 つまり、栗花落が私を憐れんでいるということは、彼女が私を自分より下だと感じているということに他ならない。それも、皆目見当もつかないような訳のわからない理由で。

 冗談じゃない。謂れの無い憐憫ほど癇に障るものはない。

「何を勝手に憐れんでいるのよ! 私はこの力を授かったおかげで、皆を護ることが出来た。悪魔たちと命がけで戦ったおかげで、かけがえのない友人を護ることが出来た。他の誰でもない、私のこの手で。大切な友人が死にかけていても、ただ嘆くことしか出来ないあの無力感を、もう二度と味わわなくて済んだのよ。私自身の手で護り抜くことが出来たのよ。だから!」

 言葉が矢継ぎ早に飛び出していく。私の想いが、感情が、止め処なく溢れ出る。

「あんたに同情される筋合いなんて、何一つない! 私は、この力を手にしたことを後悔したことなんてないし、これからも絶対に後悔しない! たとえこの力の代償が――」

 激情に身を任せていたはずなのに、その言葉だけが喉に詰まった。それだけ、重い言葉だった。喉に引っ掛かったその言葉を、目の前の栗花落への憤りで、何とか押し出して口にする。

「……死、だったとしても」

 栗花落が、驚いたように眼を瞠った。そして、消え入るような声で呟いた。

「ご存知でしたのね。私たちの〝呪われた運命〟について」

「……ついさっきね」

 この事実こそが、瑠璃に教えられた三つの内の二つ目。〝私たちの行く末〟。

 私たち【ゴッズ・ホルダー】は、願いを叶えた対価として、自らの肉体に神々を宿し、世界の破滅を目論む悪魔たちと戦う宿命を負わされた。それはとても過酷で熾烈なものだが、それでも私たちは世界を救い、自分たちが生き残るために死に物狂いで戦った。しかし、私たちが支払った代償はそれだけではなかった。

 私たちの肉体に宿った神々は、私たちが悪魔と戦えるように様々な【権能】を授けた。それは神々にのみ行使することを許された、神の御業。もちろん、それらは人間である私たちでも扱えるように制限されている。だが。

 神々が地上を去ってから、幾星霜の年月を重ねたこの現代。神々が実在した証が塵一つ残っていないこの現代を生きる私たちの身体は、その身に宿った神々の存在に耐えられるような代物ではない。私たちの肉体は自らの内に潜む遥か高次元の存在に侵食され、塗りつぶされていく定めにあるのだ。

 つまり、【権能】を行使すればするほど私たちの肉体は神々へと近づいていき、人間としての機能を緩やかに停止させていく。

 それが、私たちの末路。【ゴッズ・ホルダー】の逃れ得ぬ宿命。

 今になって、数か月前の椿の発言を思い出す。

 ――まるで、生命力を根こそぎ奪われてるみたい。

 彼女は無意識のうちに理解していたのだ。己の肉体が内側から蝕まれつつあることを。

「……そう、でしたか。あなたが知ってしまう前に、私があなたを救済できればよかったのですが、それも最早叶わない」

 栗花落が、斧槍の柄を掴みぐっと自分の胸元に押し当てた。刃の切先に、柔らかいものが食い込んでいるような感触がある。少し遅れて、彼女の胸元がじわじわと真っ赤に染まっていく。

「あなたは、あなたのしたいようにすればいいのです。私にはそれを止める力も、術も、理由も、何一つありません」

 栗花落が消え入るような声で言う。その殊勝な態度にまた、怒りがふつふつと沸き上がってきた。

「そう。じゃあ、好きなようにさせてもらうわ。目をつぶって、歯を食いしばりなさい」

 そう言うと、栗花落が固く目を瞑った。私は、栗花落の手から強引に刃を引き戻し、大きく振りかぶって――

「――ふんッ!」

 斧槍を地面に投げ捨て、握った拳で栗花落の左頬を殴り抜いた。栗花落が情けない呻き声を上げながら灰色の地面に転がり込む。

 ありったけの怒りを込めて固めた拳は、自分でも驚くほど頑強で、栗花落を殴った後も解けない。

 だが、これでもういい。

「これで私の気は済んだ。あとは逃げるなり好きにしなさい。もう、私には関係のないことよ」

 私には、まだやるべきことがある。急がなければ。

 栗花落に背を向け、領域を離脱しようとしたその時、背後で何者かが動く気配がした。

 背後に何がいるのか。答えは火を見るより明らかだ。

「――しつこいッ!」

 叫ぶと同時に振り返り、斧槍を構える。刹那、私に鉛色の刃が振り下ろされた。目にも留まらぬ速度で私を切り裂かんとするその刃を、構えていた斧槍で受け止める。

「……どういうおつもりですの?」

 見ると、眼前には左頬を赤く腫らしながら鬼気迫る表情で長鉾を握る、栗花落の姿があった。

「もう勝負は着いたでしょう。私は勝った、あなたは負けた。それだけのことよ」

「違う!」

 栗花落が叫ぶ。いつもの嫌味な調子や、先ほどまでのしおらしい様子とも違う。

 これは――怒りだ。

「どうして私に止めを刺しませんの?」

 必死の形相で私に問いかける栗花落の目には、涙が浮かんでいる。

「私には、死にたがりの相手をしている暇はないの。あなた、結局死にたいだけなんでしょう?」

「――なんですって?」

 栗花落が眼を瞠った。どうやら私が言ったことは真実だったようだ。

「あなたには、私を殺すつもりなんて初めから無い。だって、あなたは私に殺されることを望んでいるから。そうでしょう?」

 確信したのは、昨日だ。あの悪魔に全力を出した栗花落の動きは、一つ一つの所作や躰捌きが人間離れしていた。恐らく、私が栗花落に挑んだ時に本気を出されていたのなら、私はきっと【権能】を発動する隙も与えられず敗北していただろう。だが実際には、そうはならなかった。これは、彼女が私に手加減していて、私を殺す気がなかったことの証左だ。

 それだけじゃない。思い返せば、初めて【擬似神代領域】で接触した時もそうだった。私が到着するまで、栗花落は椿と数十分にも亘って戦っていただが、椿は全く手傷を負っていなかった。にもかかわらず私が加勢した途端、栗花落は驚くべき速さで椿に致命傷を与えた。もし栗花落が本気で椿を殺そうとしていたなら、私が間に合うことなく椿は命を落としていたはずだ。私の目の前で椿を殺そうとしたのは、恐らく私に自分への殺意を抱かせるため。実際、【権能】を使って椿の致命傷を回避した私は、怒りに身を任せ躊躇なく栗花落を殺そうとした。今にして思えば、それこそが栗花落の目論見だったのだろう。

 だが、私の行動と栗花落の目論見を、椿が阻止した。だから、二度目の接触で菱子を殺害したのち、私たちに攻撃を仕掛けなかったのだろう。私が栗花落を殺そうとしても、椿がそれを止めてしまうと知っていたから。

 今にして思えば、栗花落の行動は『自分を他者に殺害させる』という目的に対して終始一貫していた。

「私はあなたを殺さない。死にたいなら、他人の手を借りず一人で死になさい」

 勢いをつけて、栗花落の長鉾を跳ね返した。長鉾は栗花落の手からするりと抜け、彼女の遥か後方へと飛んで行く。

「…………どうして、ですの?」

「何が?」

「どうして……私を救ってくださらないの」

「どういうこと?」

「私は皆様を救って差し上げようとした。この呪われた運命から、逃れ得ぬ宿命から。だというのに、どうして、誰一人私を救おうとして下さらないの」

 栗花落の両目から、大粒の涙が零れ落ちた。先ほどの憐憫とは違う。これは、悲哀か。

 彼女は、本気で信じているのだ。死ぬことが救済で、誰も自分を救おうとさえしてくれていないのだと。

 私は、彼女のことをよく知らない。彼女がどういう経験をして、何を感じたのか。どんな経緯を得て、そう思ってしまったのか。だから、私が彼女に告げるべき言葉なんてきっと無い筈だ。

 けれど。涙を流し、身体を震わせながら涙を流す彼女を前にして、気が付けば私は語り掛けていた。

「……死は、救済なんかじゃない」

 栗花落がゆっくりと視線を動かし、私と目を合わせた。曇り一つない眼。それは、疑うことを知らない幼子のように真っ直ぐだった。

「何を仰いますの?」

「死んで救われるものなんて、何一つないのよ」

 脳裏を過ぎる、世界を救うために戦い、失意のうちに散っていった仲間たちの死に顔。恐怖、驚愕、憤怒、悲哀、絶望。そのどれもが、この世の不条理に打ちのめされた顔だった。

 私は、人の死をよく知らない。ニュースで見知らぬ他人の死を知ったとしても、その人物のご冥福を祈ったりできるほどいい人間ではない。

 だが。それでも、そんな私でも、死が誰かの救いになるなんてことはないと、知っている。ましてや何も知らないまま殺されるなんて、そんなものは救済でも何でもない。

「死は、ただの終わり。それ以上でも、それ以下でもない。死は、死でしかない。それ以上の価値を見出そうとするのは、自分が神様にでもなったつもりの愚か者だけよ」

 私がそう告げると、栗花落が静かに崩れ落ちた。

「そんなはず、ありませんわ。だって、お父様も、お母様も、あんなにも穏やかな顔をしていましたもの」

 彼女の口から発せられた、単語に既視感を覚えた。直後、あの悪魔の発言が脳裏を過ぎる。

 ――例えば、キミが両親を殺したこととか?

 ようやく理解できた。彼女は、きっと両親の死を願ってしまった。

 私たちは、世界の裏側にいる神々にさえ届くほどの鮮烈な祈りをもって、その身に神を宿した。その神々とは、私たちの祈りを叶えた神だ。

 世に蔓延る不条理を憎んだ者には、正義を司る神が宿った。豊作を願う者には、豊穣を司る神が宿った。自らの運命を嘆いた者には、運命を司る女神が宿った。

 私はイレギュラーなケースだが、それでも私の『かなえを助けたい』という願いは、時間を統べる神によって叶えられ、その【権能】を授かり受けた。

 栗花落がその身に宿した女神、【伊邪那美命イザナミノミコト】は死を統べる女神。それは、死の象徴。彼女がその女神の【権能】を奮うということは、その女神によって願いを叶えられたということであり、その願いが死にまつわるものであることは想像に難くない。

 私は、彼女のことをよく知らない。彼女は何が好きで、どんな時に笑って、何をしている時に喜びを感じるのか。なぜ、両親の死を願ったのか。明確な殺意で願ったのか、彼女の心が悲鳴を上げた際に無意識に願ってしまったのか。知らないことばかりだ。

 だけど、それでも一つだけ。たった一つだけ、わかっていることがある。

「……あなたが死を救済だと思っていたとしても、それが怖いならやめておきなさい」

「そんなわけありませんわ! 救済が怖いものですか!」

「なら、なぜ自殺しないのかしら?」

 目を瞠った栗花落が、虚を突かれたような顔をした。そして、彼女はそのまま押し黙ってしまった。

 近年、欧米では銃を携行した警官によって射殺される自殺が増加しているという。無言のまま警官に銃を向ける不審人物。警官は目の前の脅威から自らを保護するため、引き金を引く。だが、その人物が持っていた銃には弾丸が込められていなかったり、そもそも本物と見紛うほど出来の良いレプリカだったり。そんなケースが相次いで発生しているという。

 自分で自分を殺せない、自殺志望者。一見すれば、それはただの臆病者だ。自らが選んだ選択さえ、他人任せにしてしまう軟弱者。その誹りは当然免れない。

 だが。私はこうも思う。

 人間社会に溶け込めない、周囲との協調性が認められない社会不適合者。私たちの社会では彼らを弱者として、あらゆる集団から排除しようとする。そして、世間から爪弾きにされた彼らに自己の力のみで生き抜く術はなく、その一部が死を選択するのも当然の帰結である。しかし、彼らは考える。孤独のまま死んでしまうのは寂しい。

 だから、誰かに覚えていてほしい。何一つ関わりがない、名も知らぬ他人であったとしても。どうか、忘れないでほしい。自分と言う個体の存在を。

 彼らは、自死に他人を関わらせることで死後であったとしても、社会との関わりを持とうとしているのではないだろうか。いや、そうすることでしか、他人と関わることが出来ないのだろう。

 それはきっと、私の眼前で泣き崩れる少女も同様だ。彼女もまた、他人に自分を殺させるという婉曲な方法で、報われない自分を無意識に抱いた罪悪感から、誰にも必要とされない孤独から救済しようとしている。

 それは、決して褒められたことではない。一体他人にどれだけ迷惑をかけるつもりだ、と罵倒する人物がいたとしても、その人物に道理がある。

 もし私が与えられた日常を享受するだけの平凡な女子高生だったなら、訳のわからない人物に絡まれたと眉を顰め、距離を置くことだろう。

 けれど、私にはわかってしまう。なぜなら、私も彼女と同類だからだ。

 血の繋がった肉親から躊躇なく突き放された時の悲哀。誰も帰らなくなった自宅で一人過ごす夜の孤独。自分は誰からも必要とされていないと知った時の無力感。

 私は知っている。私たちの様な人間にとって、ただ生きることがどれほど困難で苦しい道のりであるかと言うことを。それが、この身一つで生きていくことを諦めてしまいそうになるほどの、絶望であることを。

 目の前で泣き続ける少女は、もう一人の私だ。

 かなえと出会わなかった私。生きていく意味を見失い、身に余る苦痛から逃れるために命さえ投げ出してしまいそうだった、あの頃の私。

 私は、栗花落のことをよく知らない。

 だが、彼女が私であるというのなら。私は、告げずにはいられない。

 地に膝をつき、俯く栗花落の顎を持って、無理やり正面を向かせた。真っ赤に目を充血させながら人目憚らず泣きじゃくる彼女の姿は、初めて痛みを覚えた少女のようだった。

「足掻きなさい、最期まで」

 もしかしたら。彼女の精神はとうに衰弱しきっていて、生きていくことに耐えられないかもしれない。誰も信用できなくなった彼女の耳には、私の声なんて届かないのかもしれない。

 それでも、過去の自分と彼女の姿が重なって見える私には、この気持ちを抑えられなかった。

「親は、神は、確かにあなたを見捨てた。それは紛れもない事実で、覆しようのない真実よ。でも、それがこの世の全てじゃない」

 親があなたを疎んでいたとしても。神があなたを利用していたとしても。

 あなたは、この世界から拒絶されたわけじゃない。

「生きなさい。辛いのなら、苦しいのなら、助けを求めなさい。多くの人に無視されるかもしれない。そのせいで、また苦しみを味わうかもしれない。でも、それでも、あなたはあなたにできることを全力で実行しなさい」

 救いの手を求めても差し伸べられるとは限らない。あなたの努力が他人に認められることはないかもしれない。だとしても、諦めたところで何も起こらない。私たちは社会から爪弾きにされたけれど、一人では生きていけないのだから。ほんのわずかでも可能性があるのなら、それに縋りつくしかない。私たちが生きる苦痛から逃れるためには、全身全霊で足掻くしかない。

 マッチ売りの少女は灯した明かりに夢を見るべきではなかった。勇気を振り絞って手当たり次第にドアを叩くべきだったのだ。息絶える最期まで、マッチを売り続けるべきだったのだ。

 十中八九追い返されるだろうが、それでも万に一つ助けてもらえる可能性だってあったはずだ。持っていたマッチを全て売ることが出来たなら、明日を迎えることだってできたはずだ。

「もがいて、足掻いて、みっともなくても、情けなくても、かっこ悪くても、力の限り生きなさい。そうすれば何かが見つかるかもしれない」

 あなたのことを想ってくれる人物が。あなたを必要とする居場所が。あなたが生きていく意味が。

「そうして、持てる力全てを出し切って、それでも何も得られなかったのなら、何もなかったと断言できるのなら、それから――一人で死になさい」

 私たちが抱いたこの絶望は、他者を傷つけても、他者に自身を傷つけさせても、決して晴れることはない。私たちに出来る選択。それは、この身に余るほどの絶望を背負いながら生きていくか、背負うことも生きることも諦めてしまうか。二つに一つ、そのどちらかしかない。

 この世界は不条理で出来ている。いつまで経っても戦争はなくならないし、貧富の差は埋まらない。善人は病に倒れ、悪人が屍の上で笑う。どれだけ文明が発達しても、この理不尽で出来た社会の歪みは、永遠に消えないだろう。

 だが、理不尽を嘆いたところで、この世界は塵一つ変わらない。だったら、私たちにできることは全力で生きて、死んでから後悔しないようにすることだけだ。――もしかすると、それは私たちに限らず、誰でもそうなのかもしれない。

「あなたが考えるべきことは、どうやって死ぬか、じゃない。どうやって生きるか、よ。他人に殺されようって人間なら、今更何も怖くないでしょう」

 それが、今の私に言えること。目の前の栗花落に、あの頃の私に、伝えたかったこと。

「…………もし」

 いつの間にか泣き止んでいた栗花落が、重々しく口を開いた。

「もし……私に、何も無かったら。その時は、殺してくださいますか?」

 それは、懇願にも似た問いかけ。彼女が初めて私に求めた救済。

 私は昨日彼女に命を救われた。彼女があの悪魔の前に立ち塞がっていなかったのなら、私は即座に殺されていたはずだ。

 その借りが、返せるのなら。

「……そうね。あなたが最期まで足掻いてみせたのなら、私はあなたを殺すわ」

 私は、忘れない。運命に翻弄され、それでもなおもがき続けた、あなたのことを。

 そう告げると、彼女が手の甲で涙を拭い、白い歯を覗かせながら笑って見せた。それは純粋無垢な少女の笑みだった。

「約束、ですわよ?」

 言いながら、彼女が右手の小指を立てて私の前に出す。

「えぇ、約束よ」

 私も小指を立て、彼女の小指と絡め合う。

 満足気に微笑んだ栗花落が、静かに領域を離脱した。

 さようなら、あの頃の私。

 誰もいなくなった灰色の世界で、一人呟いた。

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