第7話

 自動ドアが完全に開ききることさえ待てず、私は病院に飛び込んだ。私の勢いに驚いた何人かがこちらを振り向いたが、もはやそんなことはどうでもいい。

 受付でかなえの名前を出し、場所を聞きだした。再び猛然と走り出す。後ろから何か聞こえた気もするが、やはりどうでもいい。

 聞いた場所にたどり着いた時、視界に飛び込んだのは青いソファに腰掛け、暗い表情で項垂れている菱子、椿、そしてかなえの母親だった。

 派手に足音を立てながら駆け寄る私に、三人とも一斉に気付いた。

「蓮美! どうしたんだよ、その痣」

 菱子が叫んだ。栗花落にやられた傷が残っていたのだろう。私が受けたダメージに治癒が追い付いていないのだ。言われてみれば、確かに身体中が痛む。

 だが、そんなことよりも。

「かなえは? どうして倒れたの? 今はどういう状況なの?」

「かなえさんは、いきなり倒れたの。最初は貧血かと思ったのだけれど、全然目を覚まさなくて。顔も真っ白で、これはただ事じゃないって救急車を呼んだの」

 椿が伏し目がちに答えた。

「原因は?」

「今、検査中よ。詳しい原因はわからないって」

「……あたしのせいだ」

 菱子が、絞り出したような声で言った。

「あたしが、誘ったから。あいつ、きっと無理してたんだ。あたしが、あたしが誘わなかったら……」

 菱子が膝の上で拳を固め、肩を震わせながら言う。

「そんなことないのよ、菱子ちゃん」

 菱子の震える肩を、かなえの母親がそっと包み込むように抱きしめた。

「もう高校生だもの。自己管理が出来てないのは、自分のせい。それに、責任なら私にもあるのよ。あの子の異変に気付けなかった私のせいだわ」

「そんなことない! あたしが、あたしのせいで――」

「菱子、今はそんなこと言っている場合じゃない。それにあなたのせいじゃないわ。だって前回は――」

 言いかけて気付いた。そう、前回だ。

 今のこの時間は、言ってみれば二週目だ。それはもちろん、私にとって。

 栗花落に襲われた菱子を助けるため、私は九月の下旬から八月の下旬、つまりあの花火大会の日に時間を巻き戻した。その事実を知っているのも、当然私だけだ。

 私が時間を巻き戻す前のかなえは、倒れたりしていなかった。だが、今のかなえは意識を失い、病院へと搬送されている。それはつまり、私が一カ月以上もの時間を巻き戻したために、未来が変わったということに他ならない。

 ならば、かなえが倒れることとなった原因は――

 言葉を失った。私には何も言えない。私に何かを言う資格なんてない。

「……待つのよ。かなえは、必ず良くなるから」

 今の私たちにできるのは、かなえを信じて待つことだ。それ以外、何一つない。

 菱子が何か言いたげな顔のまま、喉元まで出かかっている言葉をぐっと飲み込み、頷いた。

 私もベンチに腰掛け、静かに待った。大丈夫だ、かなえはきっとよくなる。きっと――

 どのくらい時間が経っただろうか。私がここに腰掛けてから何日か経過した様な気もするし、ほんの数秒前に栗花落に殺されかけたような気がする。時間の感覚なんてとうに失せていた。

 そして、治療室の扉が静かに開いた。中から長身の痩せた白衣の男が顔を出し、かなえの母親を呼んだ。彼女は神妙な面持ちで静かに扉の向こうへ去って行く。

 かなえに何かあったのだろうか。わからない。どうか、吉報であって欲しい。

 だが、そんな私の気持ちを余所に、扉から戻ってきた彼女の表情は沈痛なままだった。

 医師曰く。簡単な検査だが結果から異常は全く見られず、心拍数や呼吸にも乱れは見られない。数値に異常がない以上、心因性のものである可能性も考えなければならない。最近、何かに悩んでいる様子はないか、と。

 当然、そんなものあるはずがない。かなえは今日も元気に笑っていたのだ。たとえかなえが人知れず悩んでいたとしても、私たちはもちろん、家族まで誤魔化すことは出来ないだろう。心当たりなんて全くない。彼女の母親も同様に答えたという。

 だが、実際にかなえは昏睡状態に陥っており、原因が見つからないのも事実だ。とりあえず一週間、より精密な検査をするため、入院することになった。

「だから、みんな今日は帰りなさい。もう夜遅い時間よ。親御さんも心配していらっしゃるわ」

 かなえの母親が笑いかけながら言った。だが、その瞳の奥には隠し切れない不安が覗いている。

 菱子と椿が渋々頷いた。時刻は既に二二時を回っている。制服の高校生なら補導されかねない時間だ。

「私は残ります。そばにいさせてください」

 私は元々一人暮らしだ。家に帰ったところで意味はない。

 かなえの母親が一瞬だけ困ったような顔をして、

「そうね。蓮美ちゃんがいてくれるなら、かなえもきっと元気になるわ」

 と、許してくれた。

 彼女は菱子と椿の二人を最寄りの駅まで送り、そのついでに一旦家に戻るという。私は病院で待つと答えた。今はほんの少しでもかなえのそばを離れたくなかった。

 三人を見送るために正面玄関まで来たとき、菱子が思い出したように言った。

「蓮美、そう言えば瑠璃は? 『蓮美を呼んでくる』って言って飛び出したから、てっきりあんたと一緒に戻ってくると思ってたんだが」

 問われた瞬間、脳裏に浮かんだのは【擬似神代領域】から帰還した直後の、摩耗しきった瑠璃の姿。あれから少し時間が経ったが、彼女は今どうしているのか。

 いずれにせよ、私から菱子に伝えられることは何もない。

「ごめんなさい。わからないわ」

「そうか。わかった、あとで連絡しとくわ」

 三人と別れ治療室の前に戻ると、かなえが病室へ運ばれていくところだった。真っ白なシーツに覆われたストレッチャーと、それに横たわるかなえ。彼女の顔色はやはり真っ白で、それを見た私の中で、『かなえはもう目を覚まさないのではないか』という一抹の不安が頭を掠めた。頭を激しく振り、有り得ない妄想を振り払う。そう、ただの妄想だ。かなえが目を覚まさないなんてこと、あるわけが――

 かなえは個室に移された。清潔感のある照明が純白の壁紙を照らした、生活感の無い病室。そして、その真ん中で寝息すら立てずに眠るかなえ。冷房の効きは弱いはずなのに、なぜか肌寒さを感じた。

 病院はとっくに消灯時間を迎えており、ドアの隙間から廊下の明かりが漏れてくることもなければ、壁越しに見知らぬ誰かの話し声が聞こえてくることもない。

 なんとなく、部屋の照明を消した。きっと、目を覚ましたかなえが眩しがるだろう。特に根拠はないが、そう思った。

 ベッドの横に置かれたパイプいすに腰掛け、ふと横たわるかなえの手にそっと私の手を重ねてみた。冷たい。かなえの手はまるで陶器のように冷え切っていて、生物としての熱が感じられなかった。

 刹那、いつか見た地獄の光景が脳裏を過ぎった。鼓動が速くなる。

 大丈夫。私は奇蹟を願い、代償を払うことで、かなえをあの地獄から救って見せた。もう二度と、かなえを失うことなんてない。大丈夫。今の私なら大丈夫だから。

 いつものように自分の胸を押さえ、そう言い聞かせる。

 その時、ドアが静かに開いた。

「蓮美ちゃんたら、明かりぐらいつけていいのよぉ?」

 笑い声と同時に、部屋の照明がついた。その眩しさに目がくらむ。振り返ると、かなえの母親が微笑んでいた。

「いえ、……なんとなく、点けなかっただけです」

「そっか。そういう時もあるわね」

 彼女が笑いながら言い、私の隣に置いてあるもう一つのパイプいすに腰掛けた。

「蓮美ちゃん、ありがとうね」

 唐突に、彼女がぽつりと呟くように言った。

「いえ。私がそばにいたくて、ここにいるだけですから」

「今日のことももちろんそうだけど、それだけじゃなくて。いつもかなえと仲良くしてくれてありがとう」

「へぇっ?」

 予想だにしなかったことを言われ、変な声が出た。

「かなえはねぇ、蓮美ちゃんと仲良くなって変わったのよ」

「かなえが、ですか?」

 彼女が頷いた。

「娘にこんなこというのもどうかと思うんだけど、かなえはちゃっかりした子でねぇ。打算的な子で、どうすれば自分が悪者にならないか、計算してるような子どもだったの。昔からいろんな子を泣かせて、それでも自分が悪くないって言い張る様な、ね。私は、かなえになんて教えればいいのか、ずっと悩んでたの」

「――――」

 彼女の話に私は言葉を失った。彼女の口から語られるかなえと、私が知っているかなえの姿があまりにも違い過ぎているからだ。私が知るかなえは少し天然だけど、いつも穏やかに笑っていて、ただ存在しているだけで周りを笑顔にする子だった。たまに怖い時もあるけれど、それでも、打算的に振る舞っているかなえの姿なんて私は見たことがない。

「このままずるがしこい大人になったらどうしよう。そんな風に考えることもしょっちゅうあったのよ。信じられないでしょ?」

「……ええ、とても」

 私が本音を漏らすと、彼女が悪戯に笑った。

「いいのよ。きっと、蓮美ちゃんの前ではかなえは違うから」

「私の前では?」

 彼女が微笑みながら頷いた。

「中学二年生になって少し経った頃だったと思うわ。その頃から、ただ話しているだけで笑うようになったの。打算的な笑顔じゃなくて、『楽しくて仕方ない』って感じの」

 私とかなえが出会ったのも、二年生になり同じクラスになってからだった。お互い目立つ方ではなかったし、それまでは名前も知らなかった。

「それでね。日が経つにつれて、かなえから『蓮美ちゃん』って名前が出てくるようになって。あなたのことを話す機会が増えてね。それも本当に楽しそうに話すのよ。ああ、いい友達が出来たんだなって、安心したわぁ」

 そうなのだろうか。彼女の言葉に、素直に頷けない。

 私とかなえの出会いはごく平凡で、ありふれたものだったと思う。授業中に私が落とした消しゴムを、隣の席のかなえが拾ってくれた。それがキッカケで、なんとなく顔見知りになり、少しずつ話すようになって、気が付けば友人となっていた。ただそれだけだ。そこには何一つ劇的なものなどない。私が彼女に影響を与えただなんて、とても思えない。

 それに。

「……その頃の私は、いろいろありました。かなえにとって〝いい友達〟だったなんて、とてもそうは思えません」

 当時の私は、間違いなく根暗で、陰気だった。中学校に入学する前に父親が蒸発し、その一年後には母親も消えた。どちらも失踪した理由は知らない。私が覚えている限り、私の家庭は何一つ変わったところのない、ごく平凡なものだったはずだ。だから、当時の私はなぜそうなったのか理解できず苦しんでいた。

 結局、私は父方の祖父母に引き取られた。そして私は希望を叶えてくれた祖父母のお陰で、金銭的な援助を受け、誰もいなくなった家で一人暮らしを続けている。

 かなえと出会ったのはそんな頃で、周囲の人間と会話することも億劫になっていた時期だった。だから、かなえにとって私が〝いい友達〟足り得たとは到底思えない。

 だけど。

「でも、私にとってかなえが〝いい友達〟だったのは、確かです。……私は、彼女に救われました」

 彼女と過ごすのは、私にとってこれまでにないほど楽しくて、愉快だった。両親のことなんて、取るに足りないことだと思えてしまうほどに。彼女がいたから、今の私がここにいる。それは疑いようのない事実で、誇張でも比喩でもなく、私はかなえに救われた。

 だから、私は願ったのだ。彼女と共に生きていくことを。

「……そっか。きっと一緒なのね」

「え?」

「あなたも、かなえも。きっと似た者同士なのよ。だから、憶えておいてね。――あなたが危険な目に遭えば、かなえは絶対に悲しむ。あなたがかなえのことを心配するのと同じように、かなえもあなたのことを心配しているの。だから、無茶しないでね?」

 彼女が静かに語る。その瞳の奥にあるのは慈愛、そして隠し切れない不安。

 彼女は心配しているのだ。娘だけでなく、その友人である私も。

「……はい」

 私には、ただ返事をすることしか出来なかった。保証できない約束はこんなにも息苦しいのだと、初めて知った。

 彼女はそれだけ言うと、静かになった。見れば、彼女は目を瞑りすぅすぅと寝息を立てている。疲れていたのか、あっという間に寝入っている。やはり、彼女にも精神的な疲労が大きかったのだろう。

 せめて、原因さえわかれば私が時間を巻き戻して、かなえを救って見せるのに。そうすれば、かなえの母親にもあんな顔をさせずに済んだのに。

 そんなことを考えていると、唐突に微睡んだ。私も彼女との会話で緊張の糸が切れたようだった。私は襲い来る睡魔にそのまま身を委ね、気絶するように眠りに落ちた。


 朝陽と共に目を覚ました。病室に注がれる陽光がいつもより優しい。まだ残暑は厳しいけれど、季節が夏から秋へ移ろいつつあるのだと、肌で感じた。隣では、かなえの母親が昨日の体勢のまま眠っている。音を立てないよう、そっと立ち上がった。学校に行かなければ。

 本当はかなえと一緒にいたのだけれど、もしそうすればきっとかなえに怒られてしまうだろう。かなえに嫌われるのはごめんだ。

 それに、私にはやらなくてはならないことがある。

 病室を去る前、ふとかなえの手を握ってみた。気のせいかもしれないが、昨日より温かいような気がした。

 これならきっと近いうちに目を覚ますだろう。なら、私の役目は決まっている。

 かなえが元気に過ごせるよう、問題を片付けなくては。

 私は音を立てずに、病室を後にした。


 病院を出て自宅に寄った後、カバンを手に取ってそのまま登校した。いつもと変わらない通学路、見慣れた風景。ただ、私の隣にかなえがいないだけ。たったそれだけのはずなのに、やけに学校が遠い気がした。

「よぉ」

 校門を過ぎたあたりで後ろから菱子に呼びかけられた。振り返れば、浮かない顔をしている。それも当然か。

「どうだった?」

 菱子が私の横に並ぶ。彼女が何について尋ねているのか、確認するまでもない。

「まだよ」

 顔を見ずに答えた。

「そうか」

 菱子も短く返した。

 それ以降、会話もなく歩いていく。周囲の話し声や笑い声が、やけに大きい。

 教室に入り、見渡した。瑠璃の姿が見えない。普段ならもうすでに登校していて、机で突っ伏して寝ているはずだ。

「いねぇな」

 菱子も同じことを考えていたらしい。通学路の時よりも一段と声のトーンが下がっている。

「えぇ、そうね」

「昨日帰ってからメッセージ送ったんだけど、まだ返事がこねぇんだ。既読もつかねぇ。何かあったのか?」

 あった。衝撃的で目を疑うような光景が。だが、それを菱子に説明するわけにもいかない。

「ごめんなさい、わからないの。私は急いで駆け付けたから。てっきり、瑠璃は後ろから着いてくるものだとばかり思っていたわ」

「……そうか」

 菱子が悲痛な顔で呟いた。お互いに黙ったまま自席に着く。

 しばらくしてチャイムが鳴り、担任が入ってくる。

 担任の出欠確認で気付いたが、今日は栗花落も来ていない。殺意をもって挑んだ私を、いとも容易く返り討ちにした彼女。そして、突如として出現したあの瑠璃の姿をした悪魔に戦いを挑み、為す術もなく敗れた彼女。

 昨日、私と瑠璃が【擬似神代領域】から離脱した時に彼女も帰還していたはずだが、今頃何をしているのだろうか。

 そして、彼女と再び相見えた時、私はどうするべきなのだろうか。

 悩みの種は尽きない。ただ、時間だけが流れていく。

 私も時間と共に流れていくことが出来れば、どれほど楽だろうか。

 冷房の風が、私の頬を冷たく撫ぜた。


 授業が終わり、私はすぐさまかなえの病室へと急いだ。私がいない間に目を覚ましているかもしれない、という期待。私がいない間にもう二度と目を覚まさなくなっているかもしれない、という不安。道中、相反する二つの感情に揺さぶられながら病室へ駆けこんだ私の視界に飛び込んできたのは、朝と変わらず白いベッドに横たわるかなえの姿だった。その傍らでは、かなえの母親がかなえの髪を梳かしている。

「あら、蓮美ちゃん。また来てくれたのね」

 私に気付いた彼女が、微笑んだ。

「あぁ、これ? 小さい頃はね、いつもこうやって私が髪を梳かしてたの。小学校に入っても『ママ、やって!』って言ってね。何時からか自分でやるようになってたんだけど。久しぶりにやってあげると、懐かしくなって昔を思い出しちゃうわぁ」

 そう言いながら、彼女がかなえの髪を梳かしていく。穏やかな手つきで、癖が強い彼女の髪を、ゆっくりと丁寧に。家族の団欒、という単語が思い浮かんだ。

 途端に、この場に私がいるのは場違いだ、という思いが込み上げてきた。挨拶だけして帰ろうとすると、呼び止められた。

「あら、今来たばかりなのにもう帰っちゃうの?」

「あ、え、えと、ノートのコピーを持ってきただけ、ですので」

「まだ受け取ってないわよぉ?」

 彼女がくすくすと笑う。私の胸中を見透かされているようで、思わず赤面した。

 カバンから慌ててコピーを取り出し、それを手渡すと、

「この後、何か用事があるの?」

 と聞かれた。思わず正直に、

「い、いえ、特には」

 と答えてしまった。すると、彼女が笑顔で言った。

「じゃあ、ちょうど良かったわ。悪いんだけど、少しかなえのこと見ててくれない?」

 一度家に帰って夫、つまりかなえの父親の晩御飯を準備したいのだという。

「ええ、それぐらいなら」

「ごめんね、蓮美ちゃんにもそのうち御馳走するから、またそのうちいらっしゃい? じゃあ、よろしくね」

 それだけ言い残すと、彼女は足早に病室を去った。

 どうやら気を遣わせてしまったようだ。家族の団欒を邪魔するばかりでなく、要らぬ気遣いまでさせてしまうとは、我ながら間が悪い。

 つい先ほどまで彼女が腰掛けていたパイプ椅子に座った。誰もいない場所で、かなえと二人きり。少し前にもこんな状況があった気がする。だが、その時と今とでは、何もかもが違っている。

 ふと、かなえの枕元に櫛が置いてあることに気付いた。それを手に取り、数秒考えたのち、私も彼女と同じようにかなえの髪を梳かしてみることにした。

 かなえの髪に触れる。癖っ気があって、明るい茶色のショートカット。そう言えば、かなえがよく愚痴を零していた。癖が強いからあまり伸ばせないし、髪を梳かすのに時間がかかるし、地毛なのに染めていると勘違いされてしまうから、嫌だと。でも、私は自分の癖のない真っ黒な髪があまり好きになれないから、天真爛漫で溌溂とした彼女によく似合っているその髪質が羨ましい。私がそう言うと、かなえはいつも決まって『交換できたらいいのにね』なんて言って、二人で笑い合っていた。

 かなえの思い出話を聞いたせいか、そんなことを思い出してしまった。

「あのね、かなえ。私、あなたと一緒に見たいものが、いっぱいあるの」

 気が付けば、私は彼女に話しかけていた。彼女の髪を梳かしながらも、私の唇が言葉を紡いでいく。

 あと一ヶ月で文化祭が始まるわね。菱子や瑠璃、そして、あなたと一緒にいろんな出し物や出店を巡るのが今から楽しみなの。違う高校だけど、椿も呼んであげなきゃね。あの子、ああ見えて寂しがり屋だから。ああ、そう言えばあなたは確か、クラスの出店でメイド服を着るのよね? 私もまだ見てないし、とても楽しみだわ。あなたのことだから、きっととてもよく似合うのでしょうね。かなえに『ご主人様』って呼んでもらうのも楽しみだわ、なんて言ったらあなたは怒るかしら? 

 その次は修学旅行。行先は東京だったわよね? 私、行ったことがないから楽しみにしてるのよ? あなたはどこに行きたいの? 私は神保町で、古本屋を梯子してみたい。……我ながら、女の子っぽくないチョイスね。あなたに言うと、笑われてしまうかしら。菱子は嫌がりそうね。あの子、この前自分のことを『活字アレルギー』だって言っていたから。まぁ、私の希望が通らなくても、あなたたちと東京タワーやスカイツリーを観光するだけできっと楽しめるはずね。

 それが終われば、私たちはもう高校三年生。かなえは進学希望よね。あなたが天文学に興味を持っていたなんて、正直意外だった。将来は学者を目指すのかしら? 私は、特にやりたいこともないけれど、あなたと同じ大学に行きたいと思う。目標は……入学してから考えようかしら。菱子は適当に就職とか言っていたわね。まぁ、彼女ならきっとどこへ行っても大丈夫でしょう。あの子、強い子だから。そう言えば、瑠璃の進路希望って聞いた? 確か、前に一度聞いた時は『何も考えてないよー』なんて言っていたわね。彼女、自分のことはあまり話したがらないから。今度、もう一度聞いてみようかしら。あの子に聞かなきゃいけないことが、また一つ増えたわ。今思うと、椿の希望も聞いたことないわね。今度会った時、聞いてみようと思う。

 それから、私たちは高校を卒業して。お互いが進む道は違っても、たまに顔を合わせて近況報告したりして。好きな人が出来たとか、仕事が忙しいとか、勉強が難しいとか、そんな他愛もない話をして。さらに大人になったら、結婚して、子どもを産んで。きっと、年齢を重ねれば、悩みの種類も愚痴の数も、話題も噛み合わなくなっていく。でも、それでも、私はあなたと、あなたたちと生きていきたい。あなたたちと過ごすこの毎日が、何年、何十年たっても色褪せないものだって、確信しているから。

 だから――

「だから、目を覚まして。……かなえ」

 いつの間にか、震えている声。漏れ出す嗚咽。純白のシーツに落ちていく大粒の雫。止め処なく溢れる涙が、私の抑えきれない感情と共に流れていく。

 どうか。どうか、神様。私に彼女と共に歩む力を、彼女と共に生きていく力を下さい。

 私に捧げられるものなら、何でも差し出します。だから、どうか。私から、私たちからかなえを取り上げないでください。

 私は、確かに彼女を護ったのに。地獄のような戦場で戦い抜いて、世界を救って、彼女を救ったはずなのに。こんなの、あんまりだ――


 病室の外、ドアの前に立つ人の気配で目が覚めた。気が付けば私は眠っていたらしい。時刻は十九時を回っている。一時間ほど眠っていたようだ。窓から差し込む光は、いつの間にか月明りに変わっていた。

 部屋の外で息を潜め、こちらを探る様な気配。

「ここにいるのは、私一人よ」

 なんとなく直感した。ドアの向こう側にいるのはかなえの母親でも、病院関係者でもないと。

 数瞬遅れて、引き戸が遠慮がちにゆっくり開く音が聞こえた。振り返ると、瑠璃が手持無沙汰に棒立ちしている。

「いやー、待たせちゃったね」

「そうね、待ったわ」

「うん。説明するって約束したからねー。ここで話す?」

 瑠璃の問いに、首を横に振った。

「ここはダメよ」

 かなえを静かな場所で寝かせてあげたい。彼女の前で、余計な話をしたくない。

「そっか、わかった。じゃあ、着いてきてー」

 かなえの病室を出て、瑠璃の後を何も考えずに着いていく。廊下を歩き、階段を上る。途中、すれ違った何人かの人々が私たちを振り返った。思いつめた表情で無言のまま歩く私と、普段と変わらない顔つきの瑠璃の組み合わせは異様だったのだろう。

 やがて、階段を上った先、締め切られたドアの前で立ち止まった。

『関係者以外立ち入り禁止』

 屋上に通じるであろう扉に、ありきたりな注意書きがある。

 だが、瑠璃は躊躇うことなく銀色の丸いドアノブを掴み、そのまま捻った。バキリ、と鈍い音がして、扉は鈍い音を立てながらゆっくりと開く。

「開いたよー」

「開けた、の間違いでしょう」

 瑠璃は私に応えず、扉の奥へと進んでいく。私も彼女に続いた。

 外に出た瞬間、湿度と熱気を感じた。

 打ちっぱなしのコンクリートに、四方を囲む錆びかけた手すり。殺風景な屋上の真ん中には灰皿と、背もたれさえない二つの丸椅子。普段は喫煙所として使用とされているようだ。だが、今は誰もいない。

「さー、座りなよ。蓮美」

 瑠璃が丸椅子に腰掛けながら、もう一つの椅子を私に差し出す。私は言われるがままに座った。

 沈黙。私も瑠璃も、何も言わない。無言のまま時間だけが流れていく。

 不意の突風に体が震え、思わずくしゃみが出た。

「くしゅんっ」

 瑠璃がくすりと笑う。思わず、私もつられて笑ってしまった。

「ごめんねー、急にいなくなって」

 瑠璃が笑顔のまま言った。屈託のない、少し眠そうな、いつも通りの笑顔。たった一日しか経っていないはずなのに、随分久しぶりな気がする。

「菱子がぼやいてたわよ。返事ぐらいはしてあげなさい」

「あー、そうだった。それもかー」

 また、瑠璃が小さく笑った。

 そして、再び私たちは沈黙した。どちらも何も言わない。ただ、黙ってここから見える景色を眺めている。

 そうしてまた幾分かの時間が流れた頃。

「……聞かないの?」

 痺れを切らしたように、瑠璃が私に訊ねた。不安げな様子で私の顔を覗き込む瑠璃は、なんだか新鮮だった。

「説明、してくれるんでしょう? だったら待つわ。あなたが話してくれるまで」

「……あたしを疑ったりしないの?」

 意味が分からず首を傾げると、瑠璃が苦しそうに言う。

「あたしは、あたしの姿をしたあの〝悪魔〟と無関係じゃない。ただの人間でもない。そして、それを蓮美や椿にひた隠しにしてた。椿と蓮美が栗花落に追い詰められてた時も、菱子が辛い時も、あたしは全部知っていながら見て見ぬ振りをした。それが、あたしの役目だったから。ずっと皆を裏切っていたし、利用していた。それでも、蓮美はあたしのことを信用できるの? あたしが話したことを信じられるの?」

「当たり前じゃない。私は瑠璃を信用しているし、信頼しているわ」

 即答した。瑠璃が驚いている。意外だったのだろう。

 本当のことを言うと、ここに来るまでの私は何もかも瑠璃に問い質したくて、気が気ではなかった。

 でも、こうやって二人で並んで、瑠璃の笑顔を見て、改めてわかった。

 私は、瑠璃を敵だなんて思えない。たとえ、彼女が私を裏切っていたとしても、彼女が私を利用しようとしていたとしても。

 いまここにいる彼女はただの〝瑠璃〟で、間違いなく私たちの〝友人〟だ。

 だから、私の答えはとっくに決まっていた。

「私は〝友人〟を信じることにしたのよ」

 その結果、私が傷ついたとしても。私は何度だって信じるだろう。

「……蓮美、変わったね」

 瑠璃が感心したように言う。以前も他の誰かに同じことを言われた気がする。

「そうね。よく言われるわ」

 不意に笑みが零れた。自分でもなぜだかはわからない。けれど、この気分は悪くない。

「きっと、あなたたちのお陰よ」

「そっか。いやー参っちゃうなぁ、ホント」

 瑠璃が唐突に立ち上がった。彼女はそのまままっすぐ歩き、手すりの前で振り返った。

「……信用できるかどうかは、全部話してから聞くことにするよ。聞いてくれる?」

「ええ、もちろん」

 二つ返事で応えた。瑠璃は小さく頷き、手すりに体を預けて天を仰ぐ。

「じゃあ、最初から話そうか。蓮美はさ、あたしと初めて会った時のこと、憶えてる?」

「ええ、もちろん」

 戸惑いながら答えた。こんな時に、何を言い出すのだろう。

 だが、瑠璃は依然真剣な眼差しで、私を見据える。

「本当に? ちゃんと思い出してみて」

 目を瞑り、記憶を辿る。確か、瑠璃と会ったのは――中学生の時、私が落とした消しゴムを隣にいた瑠璃が拾ってくれて――いや、違う。これはかなえとの出会いだ。そもそも瑠璃は私と違う中学校だったはず――だけど、私の思い出には同じ制服を着て笑っている瑠璃がいる。いや、これは高校生になってからの記憶か?――

 思わず目を開いた。瑠璃が無表情で私を見つめている。

「正確に思い出せないでしょ?」

 瑠璃の言葉に目を瞠った。まるで私の記憶を知っているかのような発言。

「これは――」

「【悪魔】には人間の機微が理解できないからねー。嘘の記憶をゼロから創り上げるより、曖昧な記憶を植え付けた方が楽だし、そっちの方が気付かれにくいんだ」

 瑠璃の言葉が理解できない。戸惑う私に、瑠璃がはっきりと告げた。

「実は、あたしと蓮美が初めて会ったのは、今年の五月なんだよー」

「なっ……」

 あまりの衝撃に、言葉を失った。一体、どういうことなのか。

「一年近く前にあった、〝悪魔たち〟による大規模侵略。蓮美たちは、確か【最終戦争ラグナロク】って呼んでるんだっけ?」

 瑠璃が静かに語り始めた。無言のまま頷く。

「あの時、顕現しようとしていた【上級悪魔】は、とても傲慢な奴で、たかが人間なんかが自分に敵う筈がないって、信じて疑わなかった」

 神々の権能を貸し受けた私たちでさえ、たかが人間。ほんの僅かとはいえ、神々と同種の力を奮い、有象無象の悪魔を難なく退ける私たちまでも、所詮は人間でしかないと一括りにできるほどの存在。それほどまでに、次元が違う相手だった。

「そして、それは他の【上級悪魔】達もそうだった。自分たちは静観していながらも、アイツの勝利は間違いないだろう、と確信していた」

 神々の監視を欺き、現実世界に顕現する一歩手前まで侵攻。最後の防波堤はほんの少し神々の加護を受けた程度の、たかが人間。それも、肉体を鍛え上げた歴戦の戦士ですらなく、たまたま選ばれた年端もいかぬ少女たち。所詮はただの消化試合。結果は火を見るより明らか――のはずだった。

「ところが、ビックリ。犠牲を厭わない少女たちの奮闘によって、なんとアイツは地上に進出することさえ叶わず、まさかの大敗北。こうして、アイツは再び神々に封印され、一切の自由を奪われ〝世界の裏側〟へと封じ込められたのでした。……ここまでは蓮美も知っての通り。ここからが、あたしの話」

 私は何も言わず、視線で続きを促した。

「あの【上級悪魔】は確かに傲慢で鼻持ちならない奴だったけど、油断して人間に敗北する程愚かではないはずだ。そう考えた【上級悪魔】のうちの一体は、あることに気が付いた。〝神々の代行者〟として戦った人間たちの中に、一人。他の人間と違う人間がいる。……それが、蓮美」

 不意に名前を呼ばれ、心臓がドキリと跳ね上がった。私は、とんでもない存在に目を付けられていたようだ。

「アイツが敗れた原因はこの少女にある。そう考えた私は、神々に気付かれないよう、時間をかけて自らの魂を極小に切り分け、二つの存在に転生させた。一人はあたしと同じ姿をした、あの〝悪魔〟」

 呼び起こされる、粘着質な声、瑠璃と瓜二つの姿、迸る殺気。

「アイツの役割は、【ゴッズ・ホルダー】として戦う蓮美を観察すること。戦闘力、権能、宿している神。それらを全て把握し、解析し、理解すること。最近、この辺りだけ弱い悪魔――【下級悪魔】が大量発生していたでしょ? それもアイツの仕業。蓮美を探るための撒き餌だよー」

 ここ半年間程、異様なペースで発生していた【下級悪魔】。あれは、私を標的にしたものだったのか。

『【中級悪魔】を見た、なんて話もあるわ』

 脳裏を過ぎる椿の言葉。あれも、おそらくあの〝悪魔〟のことだったのだろう。

「……そして、もう一人が〝あたし〟。あたしは人間として、蓮美を監視するために産まれた存在。蓮美の人間関係、感情の起伏、思考。それら全てを理解すること。それが、あたしの存在意義。つまり、アイツとあたしは、蓮美を観察するために産まれたんだ」

「――――」

 一瞬、呼吸を忘れそうになった。瑠璃の話は、私の予想を遥かに超えていた。

 世界を滅ぼさんと目論む悪魔たちの王【上級悪魔】、その分け御霊。それが、〝瑠璃〟の正体。彼女と言う存在の真実。

 驚愕、憐憫、畏怖、罪悪感。自分の感情を上手く言語化できない。彼女に何と声をかければいいのか、彼女に何を伝えればいいのか。私が、彼女に声をかける資格はあるのか。

 そんな私の胸中を無視して、私の唇がどうでもいい疑問を口にする。

「私が【ゴッズ・ホルダー】になったのは、一年前の話でしょう? その後に産まれたのなら、あなたの年齢は……」

「あぁ、【悪魔】にも色々いるからねー。時間を操ることができる奴もいて、そいつが私の時間を加速させたんだ。蓮美みたいに巻き戻したりもできるよー? って言っても、そいつも幽閉されてるから、自由にできるわけじゃないけど」

 再度、絶句した。瑠璃は、既に私の【権能】を把握している。

 もしや、あの悪魔が言っていた『穂村蓮美について理解した事情』とは、私の【権能】の詳細、すなわち【時間跳躍】を理解したということだったのか。だが、なぜあのタイミングだったのだろう。【権能】なら、あの時以前にも何度か使って――

 そこまで気付いた時、ある疑問が浮かんだ。

 考え込む私を見て、失望したと思ったのだろう。不意に、瑠璃が私から視線を逸らし、天を仰いだ。

「とまあ、それが私の正体。偽りの記憶に、偽りの身分、偽りの存在。何もかも嘘だらけで、そもそも人間ですらない。今まで皆をずっと騙してた。それでも、蓮美は私を信用できるの?」

 瑠璃は夜空を見上げたまま、微動だにしない。

「ねぇ、瑠璃」

 呼び掛けたが、やはり瑠璃は動かない。

「一つだけ、聞かせて欲しいの」

「なに?」

「昨日、どうして私を助けたの?」

 あの時、もし瑠璃が助けに来なければ、私はあの場で栗花落諸共あの悪魔に殺されていただろう。だが、瑠璃の役目が私の観察だというのなら、それでも問題は無い筈だ。あの悪魔も言っていたように、すでに私には観察対象としての価値がないのだから。しかし、彼女はあろうことか〝もう一人の自分〟と言っても過言ではない存在に危害を加え、私を助けた。彼女は〝私の友人〟でいることを辞め、〝正体不明の裏切り者〟としての素顔を晒すことになったとしても、私を救うことを選んだのだ。

 それは何故か。私にはある確信があった。

 瑠璃が静かに語り始める。

「いやー、人間のフリなんてするもんじゃないねー、ホント。ちゃんと寝て、ちゃんとご飯食べないと動けなくなるし、トイレに行かなきゃいけないし、ちょっとした事故でも死ぬ危険があるし」

 その言葉は、私に向けて言っているわけでもなさそうで。

「勉強しなきゃいけないし、周りに合わせないと怪しまれるし、進路とか恋愛とかどうでもいいことでも悩まないといけないし」

 不満だけを紡ぐ言葉とは裏腹に、なぜか彼女はとても寂しそうで。

「人間じゃないと友達にもなれないし、どれだけ頑張っても一〇〇年ちょっとしか生きられないし、死んだら何も残らない」

 ようやく私は気付いた。

「辛いなー、人間のふりは」

 彼女は、自分に言い聞かせているのだと。

「確かに、嘘だらけね」

 言いながら、立ち上がって歩き、彼女の傍らに立つ。

 覗き見た彼女の横顔は、見惚れるほど美しい。

 私は、静かに語り掛ける。

「あなたと私が出会ったのは、今年の五月。それまでの記憶は、全て嘘。でも、逆を言えば今年の五月以降のあなたは、本物だってことでしょう?」

 瑠璃は応えない。瞬き一つせず、ただ夜空を眺めるばかりだ。

「だったら、やっぱりあなたは私の友人なのよ。たった四ヶ月に満たない時間でも、あなたと過ごした思い出は幾つもある。テスト前に勉強会をしたり、海に行ったり、花火を見たり。どれも、あなたが欠けていては不完全な思い出ばかり。そして――あなたもそう思っていた。だから、私を助けた。違う?」

 沈黙。

「もう一度聞くわ。あなたは、どうして私を助けてくれたの?」

 静寂。少しして、大きな溜め息。

「あー、そうだよ。そこまで言われちゃ仕方ない。あたしは、蓮美やかなえ、菱子に椿。みんなでいるのがどうしようもなく楽しかった。自分の存在意義を見失うほど」

 瑠璃が視線を下ろし、私と目が合った。見慣れた筈の茶色い瞳が、いつもより薄暗い。

「あたしの役目はもう終わったんだ。もうここで私が人間として振る舞う理由はない。本当なら、すぐにでも戻らなきゃいけないんだけどねー。それなのに、あたしはまだここでこうして、蓮美と話してる。なんでだろうねー?」

 神々や悪魔に感情はない。それらは不要なものとして、生れ落ちた瞬間から排除されているからだ。だからこそ、神々は無駄を持ちながらも進化を遂げる人間を愛し、悪魔はその無駄に付け入り蹂躙する。

 だとすれば、私の目の前にいる、自分でも理解できない感情を持て余す少女は、紛れもなく〝人間〟だ。

「蓮美を助けた理由? そうだね、今まで騙してたことへの謝罪、っていうのはどう?」

 軽い言葉に不釣り合いな、懇願する表情の瑠璃。それは犯した罪を懺悔し、神々に許しを乞う人間そのもので、その姿は彼女がどうして私を助けたのかを雄弁に語っていた。

 だったら、私が彼女に告げるべき言葉は。

「ダメよ。許せるわけなんてないじゃない」

 私の返答が予想外だったのか、瑠璃が目を丸くした。そして、俯く。

「……そっか。そうだよねー」

「えぇ、当然よ。一度助けただけで償えるなんて、考えが甘いわ」

「……うん、甘かった」

「だから、あなたは一生かけて償いなさい」

「え?」

 驚いた瑠璃が顔を上げた。その瞳の奥にあるのは、多くの困惑とほんの少しの期待。

 彼女が求めている言葉も今ならわかる。だが、たとえ解からなかったとしても、私は彼女に告げていたことだろう。

「私たちを利用していたこと、私たちを騙していたこと、私たちとの日々が『辛かった』と言ったこと。それがあなたの〝罪〟よ。だったら、あなたの〝罰〟は決まっているわ」

「……なに?」

「あなたは、一生、私たちの友人でいなさい。私たちが悩んでいたり、困っていたらそれを助けなさい。一緒に悩んで、一緒に困って。そうやって、私たちと一緒に過ごすのよ。あなたが人間として寿命を迎えるまで。それがあなたの〝罰〟」

 彼女が人外であることなんて、今更問題ではない。もし彼女が自身の全てを明かしたとしても、かなえも、菱子も、椿も、彼女が目の前からいなくなることを許しはしないだろう。もちろん、私も。それが本人の意思にそぐわない理由によるものなら、尚更だ。

 だったら、彼女には友達でいてもらうしかない。たとえ、それでどんな困難が待ち受けていたとしても、きっと私たちが解決してみせる。

 だって、私たちは――

「〝友人〟だもの。当然でしょう?」

「……そっか。このまま一生かぁ。それは辛いなー」

 そう呟く彼女の口元は綻んでいて、初めて見る彼女の表情は新鮮だった。

「本当に、あなたは嘘つきね」

「そうだよ。でも、決めた。もう蓮美たちには嘘を吐かない。大事な〝友人〟だからね」

 そう呟いた彼女の横顔は、いつもの気だるげな表情ではなく、穏やかで晴れ晴れとした笑顔だった。見る者を笑顔にする、太陽の様な眩しい笑顔。その微笑みに、かなえの面影を見た。刹那、脳裏に浮かぶ真っ白なベッドに横たわったままの、かなえの姿。

「……あとは、かなえが目を覚ますのを待つだけね」

 思わず呟いた。かなえの現状を思い出し、陰鬱な気分が胸の奥底から広がっていく。

「ねぇ、瑠璃。かなえはどうして倒れたの? あの〝悪魔〟と何か関係があるの?」

 訊ねると、瑠璃の顔から途端に笑顔が消えた。彼女が悲痛な面持ちで顔を伏せる。

「やっぱり、何か関係があるのね! お願い、私にも教えて! どうすれば、私はかなえを――」

「そうだね。たった今、決めたから。あたしはもう蓮美たちに嘘は吐かないし、隠し事もしない」

 私の問いかけを遮り、彼女が顔を上げた。

「まだあたしには、蓮美に伝えなきゃいけない〝本当のこと〟がある」

 彼女はいつになく真剣な眼差しで、私を見据えている。

「〝蓮美〟のこと。〝ゴッズ・ホルダー〟のこと。そして、〝かなえ〟のこと」

 瑠璃の言葉に、私は困惑するほかなかった。【ゴッズ・ホルダー】、私、かなえ。その三つの単語に関連性を見いだせない。一体何を話すつもりだというのか。

 私は無言のまま視線で続きを促し、瑠璃が重い口を開く。

 そうして――私は全てを知った。

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