第2話

 昔、誰かが言っていた。『幸福とは、不幸の休止期間に過ぎない』、と。

 不幸は常に誰かを陥れようと、その機会を虎視眈々と狙っている。貪欲に、執拗に。一度誰かに襲い掛かったなら、それ以外の人間を襲うことはない。幸福とは、自分が不幸の標的になっていない期間でしかない。

 だから、私たちは他者の不幸を何よりも求め、執拗に執着する。自身が幸福でいられることを確認し、安堵する為に。

 だが。もしその不幸が他の誰でもない自分を標的に選んだと知った時、私たちはどうすればいいのだろうか。


「……どうして、こんなことに……」

 無意識のうちに、その呟きが私の口から零れ落ちた。それは、私の嘆き。目の前の事実を受け入れることが出来ない逃避と、自身の無力さを苛める糾弾。そして、絶望。

 いつも通りの教室で、クラスメイトがいつも通りに過ごしている中、私だけがいつも通りに振る舞えなかった。思考が働かず、事実を受け止められない。

 やり場のない感情を拳に込め、力の限り振り下ろしたが、自然と拳が解けていく。力が入らない。

 全身が脱力し、机に突っ伏した。底知れない虚無感が私の全身を支配する。

「……どうしてなの、かなえ……」

 あまりに残酷な現実に、涙一滴さえ出ない。涙はとうに枯れてしまった。

 護ると誓ったのに。もう二度と失わないと決めた筈だったのに。

 ああ、私はまた無力だった。もう、私には何も──

「かなえ……かなえ……!」

 嗚咽を漏らしながら彼女の名前を呼ぶ私に、

「やかましいな、おい!」

 と一喝する声があった。顔をあげるまでもない。声の主は菱子だ。

「朝から泣いてんじゃねぇよ! こっちまで気が滅入るわ」

 菱子がブツブツ文句を言いながら、斜め前の自席にスクールバッグを乱暴に置いた。

 やかましい? 私が?

「あなたは、悲しくないの……?」

「いや、そりゃ悲しいけど仕方ないだろ」

 仕方がない。それは、現実を受け止め、前に進むための言葉。けれど、今の私にはどうしてもその一言が呑み込めない。

「駄目なのっ! 私には、かなえがいないと駄目なの……」

「……今日も朝から、だねー」

 眠たげな両目を擦りながら、瑠璃がやってきた。

「瑠璃、何とか言ってやれよ!」

「しょうがないよー、これは。中学の時からずっとこうだったしー」

「いや、そうは言っても、かなえは風邪で休むだけだぞ?」

「蓮美は『かなえ中毒』だからねー」

「ヤク中の禁断症状かよ……」

 この二人はなぜ、呑気に会話できるのか。こうしている間にも、かなえは床に伏せて耐え難き苦痛に苛まれているというのに。刻一刻と得体の知れない病魔がかなえの身体を蝕んでいく。これが悪魔だったならどれだけいいことか! すぐにでも私が飛んでいって退治して見せるのに。

 ……ん?

「まぁ、放課後にみんなでお見舞いに行けばいいだろ? な?」

「……そうね」

 何で気付かなかったのだろう。別に放課後を待つ必要なんてないのに。

「お、やっと泣き止んだか。全く、これだから中毒患者は──」

「こうしてはいられないわ! 今すぐかなえのところへ行って、看病しなくては!」

「あたしの話聞いてねーのかよ!」

「放課後なんて悠長なことは言ってられない! 待ってて、かなえ! 私がすぐに楽にしてあげるから!」

 いま、あなたの元へ駆けつけるから!

「いやいやいや、もうすぐ授業始まるっつーの!」

 教室を飛び出そうとする私を菱子が抱き着くように抑える。でも甘いわね、菱子。私のかなえへの想いの大きさなら、あなた程度なんの障害にもならない──!

「おいおいおい、蓮美やべーって! どこにそんな力隠し持ってんだ! おい、瑠璃! スマホ触ってないで手伝え!」

 腰にまとわりつく菱子を引きずりながら、ようやく教室の扉にたどり着いた。もうすぐよ、待っててかなえ──

「あ、かなえから返信来た。『授業サボってお見舞いに来る蓮美ちゃんは嫌い』、だって。どうするの、蓮美?」

「────」

 授業サボってお見舞いに来る蓮美ちゃんは嫌い。瑠璃が言ったはずのその言葉は、私の中で聞き慣れたかなえの声で再生された。

 かなえが、私を嫌う? そんな、ことが────

 ええ、そんなわけないわ。だって、私は授業をサボったりせず、放課後にかなえの元へ向かうのだから。

 予鈴が鳴った。授業開始五分前だ。

「菱子、チャイムが鳴ったわよ。いつまでも私にしがみつくのはやめなさい」

 私の腰に手を回していた菱子が手を離し、驚愕と畏怖の入り混じった表情で私を見る。

「えぇ……急に冷静になんなよ。さっきまでの自分の言動を思い出せよ」

「何が言いたいのか、皆目見当もつかないわ。さっさと席に着きなさい」

 言いながら私も自席に着く。一限目は確か数学Ⅱだったわね。任せて、かなえ。あなたの分まで綺麗なノートを作って見せるわ!

「……なぁ、瑠璃。あたし、もう蓮美が怖い」

「慣れだよー、慣れ。菱子もいい加減慣れなよー」

「そんなもん、慣れたくねぇ……」

 耳に入ってくる二人の会話は、私には理解できなかった。

 かなえがいない日常は恐ろしいほど退屈で、永遠を思わせるほど時の流れが停滞していた。我ながら見事な出来のノートをカバンに詰め込み、放課後を告げるチャイムとともに教室を飛び出す。菱子と瑠璃の慌てて追いかける姿を尻目に、私は一目散にかなえの自宅を目指した。後ろから私を呼び止める声が聞こえたが、聞かなかったことにして全速力で走り出す。彼女たちの速度に合わせていては、かなえの元へ辿り着くまでに陽が暮れてしまう! かなえの一大事だというのに、一体なぜそこまで悠長にしていられるのか。

 かなえの家は高校の最寄駅から二駅電車で移動し、緩やかな坂を十分ほど登ったところにある。閑静な住宅街の一角に存在する、立派な門構えで二階建ての一軒家。

 逸る鼓動を抑え、深呼吸を繰り返してからインターホンに手を伸ばす。指先がボタンに触れる寸前で、玄関が開いた。

「あらー、蓮美ちゃん。来てくれたのー?」

 物腰柔らかな物言いに、見るものを心穏やかにする柔和な笑顔。かなえの母親だ。

「こんにちは。今日のノートのコピーと配布物を届けに来ました」

「いつもありがとう。かなえなら部屋で寝てるわー。私は買い物に行ってくるけど、ゆっくりしていってね?」

「ありがとうございます。お邪魔します」

「無防備だけど、襲っちゃダメよー?」

 彼女が悪戯な笑みを浮かべて言う。

 そんなつもりは毛頭なかったはずだが、どきりと心臓が飛び上がった。うまく返せない私を尻目に、彼女は冗談よー、とだけ言い残し、自転車に乗って鼻歌を歌いながら行ってしまった。

 状況を整理しよう。かなえの母親は今しがた買い物へ出た。彼女の父親は仕事中だ。この時間帯に姿を見たことはない。そして、かなえは部屋で寝ている。……つまり、今この家にはかなえが一人だけ?

 そこまで理解した途端、心臓が異様な速度で脈動を始めた。全身が熱くなる。門を通り、震える手で玄関を開ける。鍵はかかっていない。

「お邪魔しまーす……」

 この家にいるのはかなえだけなのだから言ったところで聞く人はいないのだが、なぜか言わなければならない気がした。かなえを起こさないよう、静かにドアを閉める。

 靴を脱ぎ丁寧に揃えた。かなえの家の玄関に自分の靴が当然のように並んでいる光景を眺め、得体の知れない興奮を覚えた。

 かなえの部屋は玄関から入って正面にある階段を登り、左側にある。朝陽が差し込む心地よい部屋だ。音を立てないよう、そろりそろりと階段を一段ずつ踏みしめながら登る。見慣れたはずの風景が全く別物として私の眼に映る。息を殺し、音を殺し、長い時間をかけてようやくかなえの部屋の前に着いた。深呼吸を何度も繰り返す。覚悟を決めてドアノブに手をかけた。じんわりと手汗がにじむ。ドアの開閉に生じる音が最小限になるよう、細心の注意を払いながらドアノブをゆっくりと回し、押し込む。ドアが開いた。

 かなえはベッドの上で安らかに眠っている。すぅすぅと一定のリズムで聞こえる安らかな寝息が、私の興奮をより一層駆り立てた。

 あぁ、かなえ! なんて可愛いのかしら。顔色が普段より不健康な白さだけれど、それがまた儚さを醸し出し、かなえの可憐さに拍車を掛けている。

 気がつけば、私の視線はかなえのいつもより血色の悪い、けれど柔らかく張りのある唇に引きつけられていた。かなえの小ぶりで小さなお口。食欲旺盛なかなえは食事をするときいつも小さな口を大きく開けて、モリモリと食べ物を頬張っている。かなえはいつも恥ずかしがって私にあまり見ないでほしいと言っていたけれど、私はかなえの小動物のような姿が好きだった。そんなかなえの唇が今、私の眼の前で無防備を晒している。

 私の中で、かなえの存在感が一回りもふた回りも大きくなっていき、次第に視線だけでなく、私自身もかなえの唇に引き寄せられていく。

 あぁ、かなえ、かなえ、かなえ!

 あとほんの数センチで私の唇とかなえの唇が触れ合う──

 その時、

「危ない!」

 肩を掴まれ、勢いよく引き倒された。予想外の衝撃。

「ふぎゃっ!」

 間抜けな叫びと同時に、尻餅を着いた。

 見上げれば、呆れた顔の菱子と瑠璃が私を見下ろしている。

「蓮美……あんた行き着くところまで行っちまったな」

「寝てる病人を襲うのは流石にダメだよー、蓮美」

「待って、違うの」

 二人の瞳が雄弁に語る。何一つ違わない、と。

「いや本当に違うのよ。いい? 私はかなえの唇を奪うつもりなんて毛頭なかった。かなえの顔色を観察して、どの程度の症状なのかを見極めて、適切な看病をしようとしただけなの。本当よ」

「本当か?」

「ええ、神に誓ってもいいわ」

「じゃあかなえに誓ってよー」

「……いや、それは違うでしょう?」

「違わねぇだろ……」

「何が違うのよ。何も違わないわ。あなたそれ以上言うと削るわよ」

「何をだよ! 怖いこと言うな!」

「静かにしなさい! かなえが眼を覚ますでしょう!」

「お前の方が声大きいだろ!」

「二人ともやめなよー」

 言い合っていると、ベッドでもぞもぞと動く気配がした。

「うーん……ママ?」

 かなえが寝ぼけ眼を擦りながら上体を起こした。

「おはよう、かなえ。気分はどう? 具合が悪いところはない? 痛みは?」

「……あれ? 蓮美ちゃん⁉」

 驚いたかなえが普段からは考えられない素早さで布団に包まった。予想外の来客にテンパってとりあえず隠れちゃうかなえかわいい。

「なんでここにいるの⁉ ママは?」

「買い物に出かけたわ」

「もぉ! 部屋にあげる前に起こしてっていつも言ってるのに!」

 布団の中からくぐもった怒りが聞こえる。

「大丈夫よ、かなえ。ここには私たちしかいないわ。だから、ね? その可愛らしいあなたの顔を私だけによく見せて?」

「蓮美ちゃん……」

「イチャついてるとこ悪いけど、あたしらを忘れんな」

「かなえ、私たちもいるよー」

 丸まった布団が震えた。

「菱子ちゃんと瑠璃ちゃんもいるの⁉」

「いやー、あたしらは勝手に上がらせてもらっただけなんだけど……」

「結果的に良かったと思うよー、ホント」

 二人の視線が全身に突き刺さる。

「それはどうでもいいの」

「おい、あたしらはどうでもいいらしいぞ」

「仕方ないよー。蓮美にとってかなえ以外はどうでもいいことだから」

「それで、どうなの? もう熱は下がった? まだ気分は悪い?」

 布団がもぞもぞと動き、かなえが亀のように顔だけ出した。額に薄っすらと汗をかいているのは、風邪のせいだろうか。

「うん、もうかなり良くなったよ。皆来てくれてありがとう」

 そう言って、かなえが力なく笑った。だが、見る者を心穏やかにさせる笑顔とは裏腹に、かなえの顔色は病人であることを雄弁に語っている。かなえのことだ。きっと私たちにこれ以上心配させまいと、気丈に振る舞っているのだろう。だが、明らかに顔色が良くない状態でそう言われたところで信じる者はいない。

「いや、どう見ても大丈夫には見えねぇよ。あたしらに気ィ使わないでゆっくり寝てな」

 菱子が大丈夫だと抗弁するかなえを半ば無理矢理ベッドの上に転がし、彼女が包まっていた布団をかけ直した。

「無理しちゃダメだよー、かなえ。最近、体調崩しがちなんだから」

 瑠璃が諭すように言った。かなえが恥ずかしそうに頷く。

「二年になってからもう三度目だろ? 身体が弱いんなら大人しくしてろ」

「黙りなさい。かなえはどこかのズボラ人間と違って繊細なのよ。同じ土俵で語らないでちょうだい」

「おい、瑠璃。こいつとうとう堂々と喧嘩売ってきやがった。これ、買ってもいいか?」

「まぁ菱子がズボラなのは否定できないねー」

「その喧嘩、まとめて買ってやるぞてめぇら!」

 憤慨する菱子を瑠璃と二人で宥めながら、ふと思う。瑠璃の言う通り、かなえは近頃よく体調を崩している。それは貧血であったり、風邪であったりするのだが、昔のかなえはここまで病弱ではなかったはずだ。私が記憶している限り、かなえはむしろ健康的で、風邪を引くことなんて滅多になかった。それが最近になって、なぜ頻繁に体調不良に陥るのか。

 ……悪魔の仕業?

 脳裏に浮かんだその仮説を一蹴した。悪魔は人間の理性を剥き出しにするだけでなく、その免疫機構さえ弱めることがある。しかし、かなえからは一切悪魔の気配がしない。ならば、やはり関係ないのだろう。

 騒ぎ立てる菱子をとりなしていると、ふと視線を感じた。かなえの方を見やると、かなえが大きな瞳で真っ直ぐ私を見据えている。

 目が合ったのはほんの一瞬で、かなえは私の視線から逃げるように目を逸らした。けれど、その一瞬だけ絡み合ったかなえの視線に、私は既視感を覚えた。

 何かを私に訴え、懇願するような眼差し。そんな目で私を見たのは一体誰だったか。

 いがみ合いを続ける菱子と瑠璃。その様子を見ていたかなえが、笑い声を零した。

 二人が驚いたようにかなえを見る。

「あっ、ごめんね? 菱子ちゃんが怒ってるのに笑っちゃって」

 かなえが笑顔を引っ込め、上体を起こしながら申し訳なさそうに言う。

「いや、構わねぇけど。何かおかしかったか?」

「ううん。違うの。みんな元気で今日も平和だなーって、思っただけ」

 かなえが微笑む。さっきの取り繕った笑顔とは違う。いつも通りの、何一つ変わらないかなえだった。

「あぁ、そうかい。……なんだか怒る気にもなれなくなっちまった」

「そうだよー、あたしたちは元気だよ。あとは、かなえが元気になればいつも通りなんだけど」

「うん。心配かけてごめんね、瑠璃ちゃん。明日にはまた学校行けると思うから」

「ったく、ホントだよ。心配かけやがって。とっとと良くなりやがれ!」

 菱子がぶっきらぼうに言って、かなえの額にデコピンを放った。

 あぅっ、とかなえが可愛らしい悲鳴をあげながら、ベッドに倒れる。

「菱子ぉ! あなたって人はぁぁぁ!」

 一度ならず二度までもかなえに乱暴を働いた。それどころかかなえの小さくてツルツルでキュートな額に赤い跡までつけるなんて!

 ──一切の痕跡さえ残さず、この世から消し去ってやる。

「おい、落ち着けよ! 目が怖ぇって! 冗談じゃねぇか!」

「蓮美ちゃん、私は大丈夫だよ! だからやめて、暴れないで! 瑠璃ちゃんも笑ってないで止めてよー!」

「いやー、蓮美もいつも通りだねー」

 日常的な喧騒はかなえの母親が帰宅すると同時に収束し、私たちも療養中のかなえに無理をさせないよう、早々に引き上げることにした。

 帰る方向が正反対である菱子と瑠璃の二人と駅で別れ、ホームで電車を待つ。

 彼女たちにまた明日と、気軽に言える喜びを噛み締めながら、ふと思い出した。

 私に縋るような、かなえの視線。あれは、つい先日見た椿の姿と同じだった。




 少女が、舞う。

 その手に持つ斧槍は、それそのものが意思を持つかのごとく、自在に宙を滑る。その切先に触れた異形が一体、また一体と消え去る。

 空には一切の色彩がない。黒々とした大地には、灰のような砂つぶが転がるばかりで、遮蔽物は何一つない。そして、果てには彩色に欠けた地平線が横たわるのみ。

 ──擬似神代領域。眼に映るもの全てが灰色に染め上げられたこの空間こそ、彼女のための世界。彼女だけの舞台。そして、躊躇いも、戸惑いも、恐怖も、憤怒も、感情の一切を排除した彼女もまた、この舞台のための舞台装置プリマ

 少女は舞う。異形の観客がいる限り、この舞台から降りることはできない。観客がいる以上、彼女には休息も安堵も許されない。ただひたすらに、踊り続ける。それが彼女の役目であり、使命であり、唯一の救いだった。

 少女は舞う。彼女をエスコートするものが一人、また一人と姿を消す。

 やがて、最後の一人が消滅した。演舞を終え、プリマの役を降りた彼女が短く溜息を吐く。もはやこの舞台に観客はいない。彼女一人を残して、此度の舞台は幕を閉じた。

 だが。まだここに、招かれざるボクがいる。

「これは、これは。下級とは言え、こうもあっさり退けるとは。そのお手並み、実に鮮やか」

 ──少女の背後に〝悪意〟が這い寄る。


 暢気なスローテンポの拍手。それは健闘した者を褒め称える所作。けれど、

 ──殺気。じりじりと身を焦がす炎のような敵意。今まで対峙したどの悪魔よりも濃密な殺意。

 不覚を取った衝撃を抑え込み、瞬時に振り向く。けれど、何も見当たらない。そこにあるのは見慣れた灰色の空に黒色の大地、そして、決して交わることのないその二つの平行線のみ。

 幻聴? いや、そんなはずはない。いま確かに──

「けど。ちょーっと油断しちゃったかな?」

 耳元で囁く声がした。振り返ると同時に得物で背後を切り裂く。だが、私の斧槍は空を切るだけだった。

「穂村蓮美。先の大戦で主戦力だったって聞いたから見に来たけど、期待外れだなぁ」

 頭上で響く、私を嘲笑う声。

「……あなたは誰?」

「ははははは! まさか自己紹介が必要とは思わなかった! そんなもの、意味はないだろう?」

 その通りだ。私に姿を見せない用心深さ。私を調べ上げている周到さ。そして、私の全身を突き刺すような剥き出しの殺意。それらが雄弁に語っている。こいつの正体は火を見るより明らかだ。

 ――最近、【中級悪魔】を見たって話も──

 椿の声が脳裏をよぎる。中級ですって? 冗談じゃない。こいつの圧力は下手すれば上級にも匹敵する──

「理由を聞いておこうかしら?」

「理由ってなんのだい?」

「こうして私と会話している理由よ」

 はっきり言って、私はこいつの気配を感じ取ることが全くできなかった。さっき不意打ちを仕掛けられていたら防げなかっただろう。だが、こいつはそうしなかった。攻撃ではなく、対話。そこにこの状況を脱する鍵があるはずだ。

「理由? うーん、理由ねぇ……? わかんないや! あははははは!」

 私を圧し潰さんばかりの重圧とは裏腹に、あっけらかんとした様子で声が言った。

「強いて言えば暇つぶしかな?」

「暇つぶし?」

「うん、そうだよ。ボクたちはね、暇なんだ」

 声が無邪気に、饒舌に語る。まるで、自分の話を聞いてもらえることが嬉しくてたまらない子どものように。

「何年も、何十年も、何百年も、何千年も、君たち人間が想像を絶するほど長い間、閉じ込められていたんだ。もちろん、ボクたちは寿命だって長い。けど、これだけ長く幽閉されると流石に退屈しちゃうよねぇ。だから面白そうなものがあると、ちょっかいを出したくなる! それだけなんだ」

「それは嘘ね」

 反射的に言葉が喉をついて出た。

 悪魔は生まれながらに秩序を嫌悪し、混沌を愛する。人間の幸福を唾棄し、絶望と憎悪を何よりも慈しむ。暇潰しだの、好奇心だのは、それら醜い本性を覆い隠す戯言に過ぎない。

 彼らは私たちに興味なんて持たない。

 彼らにとって人間は、自身が演出する舞台の小道具に過ぎないのだから。

「いやー、まいったなぁ。すぐにバレちゃったかぁ」

 声が嘲笑う。それを看破したからなんだと言わんばかりに、無力な私を嘲笑する。

「でも君に興味があるのは本当だよ? 君の能力は他の子たちと比較してもずば抜けている。その秘密を知りたいんだ」

 私の能力? それは私が授かり受けた【権能】、すなわち【時間跳躍ジャンプ】のことだろうか。秘密も何も、そういう能力でしかない。

「君を消してもいいんだけど、そうすると同じような子が現れた時にまた困るからねー」

 ごくり、と無意識のうちに唾を飲み込んだ。その言葉は脅しではなく、きっと真実だ。つまり、私の【権能】こそが私の命綱であると。それが知られたのなら、私は用済みとなり、跡形もなく消え去るだろう。

「ねぇ、君のその強さの源はなんだい?」

「さあね? 残念ながら、私は教えるつもりなんて毛頭ないわ」

「そっかぁ、残念! じゃあ、しばらく君のことを観察させてもらうよ」

 いつでも見守ってるからねー、と薄気味悪い残響を置いて、声が消えた。

 全身が強張ったまま、硬直した。

 圧倒的な無力感。もしあいつが正面から挑んできても、きっと今の私では勝てない。

 もっと強くならなければ。でないと、私は再び喪うことになる。

 私が何を喪うのか。想像しただけで、鳥肌が立った。

 拭いきれない不安を覚え、暗澹とした気分のまま、私は領域を離脱した。


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