第3話



 あの声の襲来以後、一瞬たりとも気の抜けない重圧に捉われた私をよそに、時間は着実に進んでいく。何事もなく、平穏に。私はまるで、「いつか空が落ちてくるのではないか」と怯える無知な民草のように、恐怖に身を置きながら日々を過ごした。私の日常になんら変わりはなく、私たちの平穏になんの危機もない。いや、訂正しよう。少しばかり語弊があった。正確には、私たちの生命を脅かす危機はない、だ。そうではなく、私たちの生死に全く関わりのない危機なら、既に目前に迫っている。

 学生である限り避けて通れない関門。すなわち、定期試験である。


 夏至を過ぎ、太陽が赫灼と大地を照らす休日の昼下がり。私たちはかなえの部屋に集まり、夏休み前の来るべき試練に備えていた。寿命が満了間近であることを感じ取ったセミの大合唱が、私たちの焦燥感を一層煽る。

「……ああああ! うるせぇしわからねぇ!」

 私たちの中で最も忍耐力に欠ける菱子が、高らかな敗北宣言とともにペンを手放した。

「菱子の方がうるさいよー」

 瑠璃がペンを走らせながら、菱子に目もくれず告げる。

「大体、因数分解ってなんだよ! 勝手に分解すんなよ。そのままにしておけよ」

「屁理屈捏ねてたら、また赤点だよー」

「へいへい、もうどうでもいいわ。赤点上等だよコンチクショー」

「菱子ちゃん、そんなこと言わないで勉強しよう? ね?」

 かなえの可愛らしいお願いに、流石の菱子も再びペンを手に取った。ブツブツ言いながらも問題に向き合っている。やっぱりかなえは天使だ。

 いつもの光景。試験間近の風物詩。今の私にとって、何物にも代え難い時間だ。

 ただ、私だけがいつも通りでなかった。

「……ねぇ、蓮美ちゃん。ここ、わかる?」

 かなえが声を落として私に尋ねる。ここは図書館ではなくかなえの部屋なのだから静かにする必要はないのだが、集中力のない菱子に配慮してのことだろう。流石、かなえだ。心遣いが行き届いている。

 しかし、

「…………ごめんなさい。わからないわ」

 時間をとって考えたものの、問題を解く糸口さえ掴めない。

 普段の私なら試験前だけでなく日頃から予習復習、何時でもかなえの質問に答えられるよう万全の態勢を整えている。だが、ここ最近の私は頻繁に出現する悪魔に気を取られていた。先週は一週間で三回も出現したのだからやってられない。それに、姿を見せなかったあの悪魔の存在。いつ襲われてもおかしくない状況下での戦闘は、著しく私の体力と精神力を消耗した。

 そんなこともあり、私はこの期末試験に全く備えられていないのである。

 情けない。自分が情けない。かなえが私に助けを求めているのに、私は彼女の力になれない。ああ、今ほど自分という存在の無力さを覚えたことはない。

「へぇ、珍しいねー。蓮美がわからないなんて」

「お、なんだ? お前も赤点候補か?」

「黙りなさい。万年赤点塗れ留年寸前落第生のあなたと一緒にしないでちょうだい」

「おい、それは言い過ぎだろ! つーかまだ落第してねぇよ!」

「怒るところはそこじゃないよー?」

 一触即発の菱子と私、そこに外から茶々を入れる瑠璃という、混沌とした空間。それに耐え切れなかったかなえが慌てて取りなす。

「りょ、菱子ちゃん! そんなに怒らないで赤点取らないように勉強しよう? 私ももう ちょっと考えてみるから、蓮美ちゃんもそんなに落ち込まないで? ね?」

「……ごめんなさい」

「ちっ……」

 口論にこそならなかったものの、険悪な空気が流れ、勉強どころではない。

「あ、あー! そう言えば来週転校生が来るんだって!」

 話題を変えようとかなえが、今思い出したかのような芝居で声を上げた。

「へぇー、こんな時期に転校生?」

「うん。昨日、職員室に集めた課題持って行ったときに、早乙女先生が他の先生と話してるの聞いちゃった」

「はーん、試験目前に転校してくるだなんて、間が悪い奴だなぁ」

「早乙女先生も同じこと言ってたよ」

 かなえが愉快そうに笑う。かなえの穏やかな笑い声が、場の空気を一辺に和ませた。

「で、男か? 女か?」

「うーん、そこまでは聞けなかったよ」

「美人だったら、ムカつくなぁ。速攻でヤキいれてやる」

 菱子が低俗極まりないことを言ってのけた。かなえと菱子。同い年でどうしてこうも違うのか。菱子にかなえの爪の垢をそのまま飲ませてやりたい。

「はいはい、菱子は勉強しようねー? 転校生の前で『また赤点だー』なんて、笑いものにされたくないでしょー?」

 瑠璃の言った場面を思い描いたのか、菱子がうぐぅ、と情けない悲鳴を上げ、押し黙った。

「でも、この時期に転校ってなんでだろうね? 親の転勤とかかなー?」

「それが、その子一人暮らしなんだって。早乙女先生が『一人暮らしの生徒は何かあった時に面倒だ』って愚痴ってた」

「あの先公、教師がそれを学校でグチるなよ……」

 菱子が呆れたように言った。いや、実際呆れているのだろう。

「まぁまぁ、早乙女先生も色々大変らしいから。……プライベートで」

「あぁ、騒いでたねー。『みそ汁にナス入れたぐらいで文句言う男はダメだ』、とかなんとか」

「三十過ぎて焦ってんだろうけどなぁ」

「……蓮美ちゃん? 静かだけど、どうしたの?」

 会話に参加しない私の顔を、かなえが気遣うように覗き込む。

「ごめんなさい。今日は調子が悪いみたい。帰るわね」

「夏バテ? 無理しちゃダメだよー」

「おーおー、帰れ病人。風邪うつす前に」

「大丈夫? 気をつけてね?」

 三人に別れを告げ、帰路に着いた。道すがら、ふと思う。

 掛け替えのない日常の中で、あの三人と違って私だけが溶け込めなかった。理由は語るまでもない。

『いつでも見守ってるからねー』

 あの声が耳の奥底にこびりついて離れない。もしかしたら、かなえの部屋でのやり取りも、今こうしている私の姿も、あの存在は私を見張っていて目的を果たす機会を虎視眈々と伺っているのかもしれない。そう考えるだけで、居ても立っても居られなくなる。あの悪魔の存在だけが私の中で膨れ上がっていく。まるで呪いだ。

 そして、このタイミングで現れるという転校生。果たしてこれは偶然なのだろうか。

 そうであればいい。すべて私の杞憂で終わればいいのだけれど。

 自宅で机に向かっても教科書の内容が頭に入ってこない。脳裏に浮かぶのは、漠然とした不安と、おぞましい未来のイメージ。

 嫌な予感がする。

 その日、私は頭の中の不安を拭い去れないまま、泥のように深い眠りについた。




「えー、それじゃあ転校生を紹介します。今日からこのクラスに入る、栗花落つゆり小雪さんです。じゃあ、栗花落さん。自己紹介どうぞ」

 黒板を背に、彼女が言った。視界の隅で、菱子が大きく溜息を吐いている。

「ご紹介にあずかりました、栗花落、小雪です。こちらには家庭の事情で引っ越して参りました。以後、お見知り置きを」

 線の細い彼女には似つかわしくない、凛とした力強い声。季節も相まって、彼女の声は風に揺られる風鈴を思わせた。そして、その声に乗せられた衝撃的な発言に教室がざわつく。

「はいはい、静かに。じゃあ栗花落さんは窓際の一番後ろの席に座って。教科書は横の人に見せてもらって」

「わかりました」

 彼女は教室のざわつきを物ともせず堂々と、しかし可憐に歩き私の隣に着席した。

わたくし、教科書はまだ準備できていませんの。よろしくお願いしますわ」

「わかったわ。穂村よ。よろしく」

 短く言葉を交わし、教科書に目を落とした。相変わらず、私の勉強は捗らない。こうして教科書を読んでいるつもりでも、内容が頭に入らず目が滑っていく。焦りだけが胸の内に募っていく。

 ふと、隣から視線を感じ、顔を上げた。栗花落がまっすぐ私を見ている。

「まだ何か?」

「……いえ、お気になさらず」

 それだけ言うと、栗花落は前を向いた。

 それ以降、その日は栗花落と会話することはなかった。彼女は一日中噂好きなクラスメイトに囲まれていて、自己紹介の発言や趣味嗜好などについて根掘り葉掘り聞かれていたようだ。だが、彼女がそれらの質問に満足に答えることはなく、その涼しげな表情を崩すこともなかった。

 彼女が転校して一週間ほど経った頃には、もう彼女に話しかける者はいなかった。口数が少なくて無愛想な、よくわからない人。私の知らないところで、彼女はそう位置づけられたようだ。私には全く関係のないことだが。

 そして迎えた期末試験。私は平均より少し上程度の、しかしいつもほど振るわない成績で終了した。かなえ、瑠璃、菱子はいつもと変わらない点数だった。

 かなえの成績を見て安堵する一方、心の片隅でショックを受けた。

 かなえは私が教えなくても十分できる。真面目なかなえのことだ。私から教えてもらえない分、いつも以上に勉強したのかもしれない。けれど。

 かなえに私は必要ない。

 ただその事実だけが私に重くのしかかり、私の心を押し潰さんばかりに圧迫していた。

 そして、弾けそうな不安を抱えたまま、忘れられない夏休みが幕を開けた。




 夏休みが始まってから二週間が経過した。連日続く猛暑日に熱帯夜。どこからともなく出現し、人々の心を掻き乱す蚊。日中疲れ知らずの耳障りなセミの大合唱。年々記録を更新する最高気温と、それに難色を示す世間。まさに夏真っ盛りである。

 そんな時に行く場所と言えば一つしかない。

「着いたね、蓮美ちゃん!」

 私の傍で無邪気に弾けるかなえの笑顔は、雲一つない晴天に燦然と輝く太陽にも劣らず眩しい。

 思わず頬も緩むというものだ。

「ええ、着いたわ、かなえ!」

「やっぱり人多いなー……。こういうのなんて言うんだっけか? イネ洗い状態?」

「それを言うなら、『芋洗い状態』だよー、菱子。現国は勉強し直しだねー」

「うるせぇ! 赤点取ってねぇんだからいいだろ! 海に来た時ぐらい忘れさせろよ!」

 隣で騒がしい二人も、この眩いかなえの笑顔に比べれば些細なことだ。

 お盆を前にして、私たちは海水浴場を訪れた。盆前なら比較的人も少ないのでは? と目論んでのことだったが、どうやら私たちと同じ考えの人間がかなりいたようだ。

 私たちが住む上代市は海に面しており、海水浴場が比較的近くにある。そのため、住民としては年中目にする海に大層な憧れやロマンなどは抱かないのだが、夏場ぐらいは海に入らなければそれはそれで落ち着かない。

「いやー、しかし来れてよかったよ。先週かなえが体調を崩した時はどうなることかと思ったけど」

 瑠璃がしみじみと言った。本来なら先週の予定だったのだが、かなえが貧血を起こしたので延期になったのである。

「えへへ、心配かけちゃってごめんね! もう大丈夫だから、今日は目いっぱい楽しんじゃおうね!」

 かなえの顔色はいつも通りで、とても無理をしているようには見えない。だが、油断は禁物だ。今日一日、かなえの様子に目を光らせておく必要があるだろう。

「じゃあ、早速着替えに行こうよ蓮美ちゃん!」

「えぇ、行きましょうかなえ!」

 そうだった。今の私には照りつける灼熱の太陽だの、じっとり湿った肌着が不快だの、菱子がいつも通りやかましいだの、そんなことは全てどうでもいいことだ!

 ここは海だ。普段着のまま着水する人間などいるだろうか? いや、いるはずがない。となれば、水場で着用する衣類、それすなわち水着に他ならない。

 水着……かなえの、水着……!

 あぁ、今日はなんて素晴らしい日だろう! 私は今日この日のためにこの一年、戦って闘って、戦い抜いたと言っても過言ではない。かなえの水着姿を脳裏に思い浮かべただけで全身の筋肉が硬直し、動悸、眩暈、激しい発汗に襲われる。それほどまでに私はかなえの水着と対峙することを心待ちにしていたのだ!

「さぁ、かなえ。脱衣所はあちらよ。行きましょう、早く。さあ、さあ、さあ!」

「は、蓮美ちゃん? ちょっと目が怖いかなー、って」

「はぁ、はぁ、私はいつも通りだから大丈夫よ! 早く行きましょう、かなえ!」

「荒い! 息が荒いよ! 目を見開きすぎて血走ってるよ! 瑠璃ちゃん、菱子ちゃん助けてー!」

 残念なことに菱子と瑠璃は毎度お馴染みの夫婦漫才に勤しんでいる。さぁ、これで私とかなえの間を阻む者は誰も──

「その辺にしておきなさい、蓮美さん。彼女、本気で嫌がってるわよ?」

 いないはずだったのだが。背後から聞こえた声にげんなりした。

「……邪魔をしないで、椿」

「そんなつもりはないわ。けれど、困っている人を見捨てるなんてできないだけよ」

 ああ、なぜこんなことになったのか。

 話は遡ること二十分前。海が待ち遠しくて仕方ない私たちは駅のホームでいつもよりほんの少しだけはしゃいでいた。しかしかなえが不安げにポケットを探り始めたあたりから事態が急変。なんと、かなえがどこかでスマホを落としてしまったという。かなえの水着姿を一分一秒でも長く見つめていたいのはもちろんだが、不安に表情を曇らせるかなえの顔は見たくない。背に腹は変えられないと、かなえのスマホを探しに行こうという話になった時、私たちに話しかけるものが一人。かなえのスマホを拾ったという人物が現れたのだ。聞けば、私たちの後方でスマホが落ちたのを見て、慌てて追いかけてきたのだとか。まさに暁光、私は神に感謝するところだった。

 それがプールバッグを持って一人でプールに行く予定だった椿でさえなければ。

 というわけで、椿は何故かちゃっかり私たちに合流し、一緒に海へ来たのだが。

「邪魔をしないでちょうだい。私はいま冷静さを欠こうとしているわ」

「邪魔するに決まってるじゃない。ほら、こっちへおいで?」

 椿が両腕を広げた。かなえは私のディフェンスを掻い潜り、あっという間に椿の後ろへ隠れた。椿の後ろから覗き込むように私の様子を窺っている。

「か、かなえ? 冗談よ? さあ、早く行きましょう?」

「今日、蓮美ちゃん、怖い。私、隠れる」

 何故唐突にカタコトなのか。そして、かなえが遠い。物理的にも、精神的にも。

 鉛のように重い心を引きずる私をよそに、かなえが初対面にも関わらず椿と親しげに話している。椿は私たちが通っている高校とは違う高校の生徒であるため、この場にいる人物の中では私以外に面識がなかった。そんな状況でもかなえの誘いに乗ったのは、かなえの人当たりの良さゆえか。

「ありがとう、椿さん!」

「さん付けじゃなくていいわ。私も蓮美さんと同い年よ?」

「えー、見えない! すごく大人びてるね!」

 見た目に騙されちゃダメよ、かなえ! そいつは容姿こそ立派だけど、中身は腐った女の生けるお手本みたいで、ドロドロのグジュグジュよ!

「あら、ありがとう円佳まどかさん」

「ううん。それより、椿ちゃんこそ私のことは名前で呼んで?」

「じゃあ、そうさせてもらうわ。かなえさん」

 流石かなえだ。初対面の人間にも物怖じせず、一瞬で仲良くなってしまった。これが椿相手でなければ手放しに喜べたのに。

「ねぇ、蓮美ちゃんとはどういう知り合いなの?」

「ただの腐れ縁よ。それ以上でもそれ以下でもないわ。気にしないで、かなえ」

「あっ、蓮美ちゃんには聞いてない」

 なんだろう。今日のかなえは一段と私に厳しい気がする。かなえの突き放した発言に凹む一方で、これはこれでいいかもしれないと新しい世界を垣間見た私がいる。つまりどんなかなえも可愛い。

「あらぁ、そうなの? この前、『あなたのことは嫌いじゃない』って言ってくれたのに。悲しいわ」

「あれは……!」

 仕方ないじゃない。そう続けようとしたのに、かなえの刺す様な冷たい視線が私の舌を凍らせた。

「へぇ、蓮美ちゃんはそう言って色んな女の子を引っ掛けてるんだ。知らなかったなー」

 泣き真似をする椿と、笑顔だが目が笑っていないかなえ。まずい。この状況は非常にまずい。

「違うのよかなえ。さっきの言葉は緊急を要する際に差し迫られて言っただけで、私にとって大切なのはかなえだけよ。本当よ」

「言ったことは否定しないんだ。ははっ、ウケる」

 かなえキャラ変わってない?

「お、なんだ? また蓮美が浮気したのか?」

「蓮美も気が多いねー」

 いつの間にか夫婦漫才を終えた菱子と瑠璃まで参戦してきた。四方を敵で囲まれ、私の味方をする者はなし。まさに四面楚歌である。

「またってなによ! 私は一度だってかなえ以外に心を許したことなんてないわ! 二人とも適当なこと言わないでちょうだい!」

「菱子ちゃん、その話後で詳しく聞かせて」

「かなえ⁉ 私にはあなただけよ、信じて!」

「口ではなんとでも言えるもんな!」

「いいから早く行くよー」

 先頭を歩き出した瑠璃に続き、更衣室へ向かう。その間、私は必死に弁明を続けたのだが、全く聞き入れられない。

 せめてかなえの着替え姿だけでもこの眼に焼き付けようとしたが、残念。かなえは家から来てくる派だった。そんなところも可愛いわ、かなえ。

 着替えを終え、迎えた私たちの海開き。意味もなく海中を漂ったり、砂の城を作ってみたり、海の家で山ほど食べたり、私たちは時間を忘れて海を満喫した。

 最初こそかなえは私に冷たかったものの、気がつけばいつも通りの様子で弾ける笑顔を輝かせていた。

 そして、かなえの水着姿は想像の何倍も愛くるしく魅力的で、私は胸の高鳴りを抑えられなかった。

 そうして過ごしているうちに、日が傾き始め、海面を朱に染め始めた頃。徐々に人が減り始め、私たちも帰ろうかとした時のことだった。


「少し、意外だったわ」

 波打ち際から更衣室までの道中、砂浜を歩きながら椿が私に囁くように言った。

「何のことかしら?」

「蓮美さんの態度。今日一日、あなたたちと過ごしてよく分かったわ。あなたは本当に彼女たちが大切なのね」

 しみじみと椿が語る。

「そうね。あなたの言う通りよ」

 私がそう言うと、椿が驚いたような顔をした。彼女にとって私の返答は意外だったのだろうな、と声に出さず独りごちた。

 少し前の私なら『そんなものじゃないわ、ただ流されているだけよ』とでも言って、否定しただろう。私は孤独で誰にも頼らず生きていくのだと、精一杯強がっていた頃の私。誰も信用せず、誰にも信用されなかった頃の私。それは懐かしささえ覚えるほど、遠い昔のことのように思えた。

「あなた……変わったわね」

 思わず口をついて出たと言わんばかり彼女の言葉に、思わず笑みが溢れた。そう言えば瑠璃もそんなことを言っていた。

「よく言われるわ」

「そう。私は少し、あなたが羨ましいわ」

「どうして?」

 問いかけつつ覗いた椿の横顔は、寂しげで今にも消えてしまいそうな表情だった。

「私は、前に進めない。足が動かないの」

 ちゃんと歩いてるじゃない。そんな風に茶化す気になれなかったのは、椿の目尻に涙が溜まっていることに気づいたからだ。彼女の足取りが重くなった。私も歩調を合わせる。前を歩く三人との距離が開いていく。

「今でも聞こえるの。助からなかった……ううん、助けられなかった、みんなの悲鳴が。目を塞いだらあの時のことを思い出すのよ。思い出したら、動機がして、すごく寒気がして、足がその場から一歩も動かなくなるの。頭の中が、今に私も殺されるんじゃないかって、私もみんなみたいにあっという間に殺されるんじゃないかって、いっぱいになって。そんな風にばかり考えちゃう。今でもまるで昨日のことみたいに思い出すし、二日に一回は夢に見ちゃう」

 頬を伝う一粒の涙。椿が下唇を噛みながら嗚咽を堪えている。

 もう一年近く前になる、私たちが【最終戦争ラグナロク】と呼んでいるあの戦いで。

 怯えたい。狼狽たい。叫びたい。逃げ出したい。

 それでも、戦わなければならない。

 なぜなら、目の前の敵から逃避したところで誰も助けてくれないから。私たちが、みんなを護らなければいけないから。

 私たちはどう足掻いても勝ち目のない強大な敵と対峙し、死を現実のものとして突きつけられてなお、逃げることも負けることも許されなかった。私たちが逃走すれば、私たちが敗北すれば、私たちだけでなく世界が破滅する。そのことを世界中の誰よりも痛感していたからだ。だから、私たちは戦った。戦って、戦って、戦い抜いた。だが、私たちが戦う相手は眼前に迫る悪魔だけではなかった。

 負傷した者の苦悶の声。命を落した者の断末魔。道半ばで倒れた者から託された思い。そして、世界を救わなければならないという使命。

 それは、まだ人生を歩み始めたばかりの私たちにとって、計り知れないほどの重圧で。平凡だったはずの人間を狂わせるには、過剰な重さを持っていた。その重圧は今もなお私たちの内側に巣食い、精神を蝕んでいく。まさに『呪い』だ。

「あの【下級悪魔】と戦う時、あなたの前では気丈に振る舞っていたけど、怖くて仕方ないの。私もあの時のあの子たちみたいに、痛くて苦しい思いをしながら死んでいくんじゃないかって。もう、限界なのよ」

 椿が歩みを止め、俯いた。真っ白な砂浜に大粒の滴が連なって落ちていく。

 椿は【ゴッズ・ホルダー】の中でも古参の強者だ。自分の能力を理解し、使いこなしている。だから、油断したところで【下級悪魔】如きに遅れを取ることなど、決してあり得ない。だが、どれだけ能力差があったとしても、私たちの戦いは結局のところ命のやり取りでしかない。それ故、どのような状況でも命を落とす可能性があるし、その不安は私にもある。

「戦いが終わって、普段の生活に戻った。でも友達と何の話をしてたか、毎日どんな風に笑ってたか思い出せなくなっちゃって。気がついたら私の周りには誰もいなくなって、独りぼっち」

 彼女はきっとまだ戦っているのだ。多くの犠牲を出しながらも、まさに奇跡としか言いようがない劇的な勝利を収めた、あの戦い。もう終わったことだと口にするのは容易いけれど、彼女の心は未だ戦いに囚われている。

「だから、今日みたいに〝いつも通り〟を楽しめるあなたが、私はとても羨ましい」

 椿が微笑んだ。きっとその羨望は彼女の飾らない本音で、だからこそその笑顔が痛ましくて思わず目を背けた。彼女の羨望を黙って受け止められるほど、私は強くない。

 私だってあの地獄は鮮明に焼き付いている。死んだ仲間の苦痛に歪んだ顔は忘れられないし、悪夢にうなされて飛び起きたことも一度や二度じゃない。

 けれど。それでも。

 私が、この日常を享受できる理由。それはきっと一つしかない。

「……私は、それでも大丈夫なの」

 私の言葉に彼女が顔を上げた。潤んだ瞳の下で幾つもの涙の筋が、そよ風に撫でられる海面のように、キラキラと光っている。

「あの子たちと一緒にいると、私が戦ったのは無駄じゃなかったって、そう思えるの。私の戦いはこの時のためにあったんだ、って。失った物も多いけど、それでも私は、私自身の力で彼女たちを護れたことが何より誇らしい」

 私は、もう誰かに助けられるだけの私じゃない。私がこの日常を護ったのだ、と。それはひどく一方的で、自分勝手な思い上がりかもしれない。けれど、それでも私にとって彼女たちの笑顔を守れたことが一番の勲章だ。

「だから、私は嬉しいし楽しいの」

 私が求めたものの全てが、ここにあるから。

 束の間、静寂が訪れた。言葉を失くした私たちの間には、何もない。細波の潮騒がやけに大きい。

 やがて、椿が絞り出すように言った。

「いいなぁ、蓮美さんは」

「……あの子たちだけじゃないわ。私はあなたを護れたことも嬉しい」

 あなたが、生きていてくれてよかった。あなたを死なせずにすんで、本当に良かった。あなたがここにいることも、私の戦果なの。

 私の言葉に、彼女が潤んだ瞳を丸くした。

「そっか。…………そっかぁ」

 私はこれで良かったんだ。そんな椿の声が聞こえた気がした。

 椿は嗚咽を漏らし、しゃくり上げながら泣きだした。それは、痛みを堪えていた子どもが母親に『よく我慢したね』と優しく褒められたように。もう我慢しなくていいのだと、優しく諭された時に出る涙だった。

 彼女の気が収まるまで待っていると、

「あー、蓮美が椿を泣かせてるぞー!」

 遠くから菱子の叫びがはっきりと聞こえた。

 遥か前方を歩いていた三人が早足で戻ってくる。

 ほら、既にここはあなたの居場所なのよ。だから、もう我慢しなくていいの。もうあなたは戦わなくていいの。

 顔を上げた椿が、駆け寄ってくる三人を見て泣きながら声を出して笑った。

 夕陽が地平線の彼方へと沈んでいく。それを背に笑う無邪気な彼女の姿は、私が見た中で最も輝いていた。


 やがて陽は沈み、漆黒の帳が降りる。今にして思えば、この時の私は忘れていたのだと思う。束の間の安寧に身を委ねていたせいで、痛感していたはずの事実を。

 明けない夜はない。しかし、訪れない夜もないのだ。


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