第1話
地獄を見た。もう二度と見たくないはずの悪夢だった。
目が覚めた。呼吸が荒い。心臓の脈動は何かに怯えたように大きくて、全身がぐっしょりと汗で湿っている。
脳裏に先ほどの光景がフラッシュバックした。思わず瞼を強く瞑る。
大丈夫。今の私なら、大丈夫だから。
何度も自分に言い聞かせ、深呼吸を繰り返し、ようやく私は恐怖から解放された。
そう、恐怖だ。私を蝕み、底の無い暗闇へ引きずり込まんとするあの感覚こそ、恐怖に他ならない。
ちらりと枕元の目覚まし時計を見やると、針はアラームを設定した三十分前を差している。目覚めは最悪だが、だからこそ二度寝する気にもなれない。ベッドから降り、カーテンを開けた。包容力のある穏やかな陽光で部屋が満たされる。
ゆっくりと身支度を済ませ、朝食の支度をしながら壁に掛けている月別カレンダーを見た。赤い日付が続いた後の青い日付、つまり平日。長かったゴールデンウィークも終わりを迎え、今日から再び高校生活が始まる。テレビやネットでは大型連休を惜しむ声が圧倒的だけれど、私はとてもそう思わない。むしろ、今日をどれほど待ち望んだことか。
だって、今日からまた――
そんなことを考えていると、熱したフライパンの中で目玉焼きの白身がじりじりと炭のようになりつつあったので、慌てて火を止めた。焦げた目玉焼きをトーストの上に置き、塩コショウを振ってかぶりついた。苦い。
最後に忘れ物が無いかカバンの中を確認していると、インターホンが鳴った。
何よりも早く振り向き、カバンを持って一目散に玄関へ向かう。見慣れたドアノブに素早く手を伸ばす。
何度でも言おう。私はこの日が待ち遠しかった。今日が来るのを指折り数えながら待っていた。だって今日は、
「
かなえに会える日だから。
彼女の愛くるしい笑顔と元気いっぱいな挨拶から早速エネルギーを急速充電した私は、駆け足で彼女に駆け寄りその勢いのまま彼女に抱き着いた。
「おはよう。会いたかったわ」
彼女の腰に回した腕に自然と力が入る。彼女の髪から香る柔らかい匂いが鼻腔の奥をくすぐった。
「もう、蓮美ちゃん苦しいよー。それに昨日も会ったでしょう?」
かなえが朗らかに笑いながら言った。彼女の弾けるような笑顔を見るだけで、私は元気になれる。
「私はいつだってあなたに会いたいのよ」
「えー? ほんとかなー?」
「本当よ。あなたに嘘を吐いたことなんて一度もないわ」
そう言うと、彼女は私を引き剥がし、私の顔を正面から見据えた。真剣な表情だ。真面目な面持ちのかなえも可愛い。
「……ま、そういうことにしておいてあげる。ほら、学校行こう?」
彼女が私に手を差し出した。私より一回りほど小さくて、女の子らしい可愛い手。
「ええ、行きましょう」
私が彼女の手を取る。彼女の手は温かくて、身体の奥底から元気が湧いてくる。
繋いだ手を決して離さずに、私たちは他愛のない話をしながら見慣れた通学路を歩いていく。
頭の中からはもう、悪夢なんて綺麗さっぱり消えていた。
「……なんつーかさぁ、あんたら見てると胸やけがするわ」
クラスメイトの一人、
「その歳で逆流性食道炎を患うなんて気の毒ね。養生なさい」
「えー、大丈夫? 保健室行く?」
彼女を保健室へ連れて行こうとするかなえに、菱子が手を振って拒絶の意を示した。
「悪気がないのが、なおたち悪い。ちなみに、あんたらここがどこだか分ってる?」
「ここは上代高校にある二年一組の教室に決まっているじゃない。そんなことも忘れてしまったの? 若年性アルツハイマーの疑いもあるわ」
「ええ、大変だよ! 菱子ちゃん、やっぱり保健室に行こう!」
いやいい、マジでいい、と菱子はかなえを寄せ付けない。
「そうじゃなくて、なんつーかこう、今の自分たちの状況理解してんの?」
菱子が若干の怒気を含ませながら、眉を顰めて言った。思わず、かなえと顔を見合わせる。
「蓮美ちゃんの上に座ってるよ」
「かなえを上に座らせているわ」
菱子がわざとらしく大きな溜め息を吐いた。肺の中にある空気を全て出し切ったと思われるほど、長い溜め息だった。
「……向かい合わせで座ってるくせに、何で平然としてるかね。自覚がないのは致命的だな。溜め息しかでねぇわ」
「頻繁な溜め息はうつ病のサインね。精神科の受診も考えておきなさい」
「さっきからあたしを病気扱いするな! おかしいのはあんたらだ!」
「それだけ元気があれば大丈夫だよね? 心配しちゃった。はい、蓮美ちゃん。あーん」
かなえがスティックプレッツェルのお菓子を一本取り、私に差し出した。私はそれを直接口に含み、ポリポリと軽快な音を鳴らしながら食す。
「どう? おいしい?」
「ええ、とってもおいしいわ。かなえが食べさせてくれたから」
「やだ~、恥ずかしいよぉ」
「恥ずかしがっているかなえも可愛いわ。じゃあ、私も一本。あ~ん」
プレッツェルを一本取り、かなえに差し出す。かなえが恥じらいながらも先端に食いついた。かなえの小さな唇が小動物のように動いている姿を見ていると、鼓動が異様に早くなる気がする。
「うーん、すっごくおいしい。じゃあ、今度は私が」
「いいえ、次も私がかなえにあげるわ」
「えー、駄目だよぅ。順番にしよう?」
「私はかなえがいっぱい食べてくれたらそれで──」
「あああああ! 教室で堂々とイチャつくんじゃねぇぇぇぇ!」
菱子が教室の中心で雄叫びを上げた。一瞬、クラスメイトたちの視線が集まったが、すぐに元通りとなった。いい加減、みんなも菱子の奇行(主に唐突な叫び)に慣れているのだろう。
「……菱子、うるさいよー」
菱子の前の席で机に突っ伏して仮眠をとっていたクラスメイト――彼女の名前は、確か――ああ、そうだった――
「瑠璃ぃ、あんたも何とか言ってくれよー」
瑠璃はちらりと私たちを見て、
「そんなに欲しいなら、もらえばいいじゃん」
と、欠伸をかましながら言った。
「菱子ちゃんも欲しかったの? 気付かなくてごめんね。はい、あーん」
「かなえ、悪いけどやめてくれ。蓮美が凄い顔でこっち見てる」
「私に気を遣う必要はないわ」
「発言と表情が一致してないぞ。せめてその顔やめろ」
菱子がおかしなことを言う。私は菱子を威圧しているわけではない。ただ、かなえが私以外の人物に私の目の前でお菓子を食べさせる想像をしたら、思いの外表情筋に力が入っただけである。私は決して、かなえの好意を無下にする輩はその身をもって償うべきだとか、菱子は一度地獄を見るべき、なんてことはほんの少ししか考えていない。
「まぁ、二人の間に割って入ろうとする菱子が悪いよー」
「えぇ……あたしは悪くないだろ」
言い合う菱子と瑠璃を見て、
「久しぶりだけど、みんな元気だねー」
と、かなえがにこやかな顔でしみじみと言う。会うのは久しぶりでも、それを感じさせない距離感。それがどれほど尊いことか。かなえだけでなく、この二人もいて初めていつも通りの日常となる。
「ええ、そうね。みんな元気でよかったわ」
私がそう言うと、瑠璃が何か感心したように、
「蓮美、なんだか変わったねー」
と言った。
「そうかしら?」
「うん、変わったよー。少なくとも、去年とは違う」
瑠璃は眠たげだが真面目な表情をしている。おそらく彼女は私の何らかの変化に気付いたのだろう。彼女は周囲に興味がないような素振りを見せながらも観察力がある。思い当たる節はあるが、それを正直に告げるわけにはいかない。適当に誤魔化すしかない。
「心当たりはないけれど……具体的にどういうところ?」
「今まではかなえしか見えてなかったけど、最近はそれ以外も見えてる感じ……かなー? 何か大きな悩み事でも解決した?」
鋭い。思いがけず核心を突かれ、どう答えるべきか迷っていると、横で聞いていた菱子が、
「お、さては彼氏でもできたか?」
と囃し立てた。そしてそれを受けてかなえが、
「えええ! そうなの、蓮美ちゃん!」
普段のかなえからは考えられないほど異様な速度で私に詰め寄る。
「い、いや、ちが────」
まずい。これは非常にまずい。何よりもかなえに誤解されたのがまずい。何とかして弁解しなければ。
「詳しく聞かせろよ。告白されたのか? それともしたのか? デートでどんなところ行ったんだ?」
「違うよね? 蓮美ちゃんはそんなことしてないよね?」
「いえ、私はそんなこと──」
私の言葉を遮るようにチャイムが鳴り響いた。担任が席に着くよう促しながら教室に入る。昼休みが終わり午後の授業が始まる。
菱子は後で詳しく聞かせろよ、と言いながら下卑た笑みを浮かべ、かなえは目に涙を溜めて今にも泣き出しそうな表情で、それぞれ自席に着いた。
頭が痛い。どうやって潔白を証明するべきか。予想外の疑惑に悩まされる一方で、頭の片隅では安堵していた。
これこそが私の日常だ。かなえが可愛くて、菱子が粗暴で、瑠璃は気だるげで。何気ない時間が他愛無い話で、いたずらに、贅沢に消費されていく。
このどうしようもなく無価値な日々が、私にとってはかけがえのない物だと。そう気づけたことが私にとって最大の幸せなのだろう。
いや、それは言い過ぎた。私にとって一番の幸福は言うまでもなく、彼女を護ることが出来たことなのだから。
授業を聞き流しながらかなえの後ろ姿を眺め、一人静かに喜びを噛みしめた。
刹那、脳を直接刺激する鋭い頭痛。浮き足立っていた私を、知覚した痛みとそれに伴う存在が現実に引き戻した。
「まったく。うんざりするわ」
思わず溜め息を吐いた。
魔が差す、と最初に言ったのは誰だったか。
時折、通常では考えられないほど精神に異変をきたす者が現れる。古来では人間に視認できない〝魔〟なる存在の仕業であると考えられ、言い伝えられてきた。それは日本において『狐憑き』、西洋において『臨床人狼病』と呼称され、広く恐れられていた。
しかし、現在では科学技術の進歩や医療の発展によって、それらはすべて脳内物質の代謝異常による精神疾患であると結論付けられている。かくして、得体の知れない存在であった〝魔〟は、機構が解明されたただの一疾患にその身を落とした。
だが。
人々の心身を蝕み、自らの意のままに操らんとする〝魔〟は、確かに存在する。
一つだけ訂正するのならば、〝魔〟は差すのではない。
無防備な人間に忍び寄り、付け入り、蹂躙するのである。
とある住宅街の一角。
黄金色に染まる夕空を背に、少女が歩みを進める。手入れの杜撰な街路樹は鬱蒼と生い茂り、貪欲に空間を侵食している。この近辺は人通りが少ないうえに、素行の不良な若者たちが屯しているため、近隣住民でさえ用がなければ立ち入ることはない。故に人気はなく、生物の気配をさせない住宅が立ち並ぶその一帯は、陽も落ちぬうちにゴーストタウンの様相を呈していた。
不気味な静寂の中を、少女は進む。夕陽を受けて煌びやかに輝く、肩にかかるほどの黒髪を揺らしながら、歩みを進める。
やがて、少女は三つの人影の前で足を止めた。少女の前にあるのは、しゃがみ込んだ三人の青年。赤、金、緑と信号機を思わせる髪色をした彼らの周辺には、煙草の吸い殻や、アルコール飲料の空き缶が散乱している。彼らは談笑するわけでもなく、歓談するわけでもなく、ただ静かに煙をくねらせ、不機嫌なしかめ面でアルコール飲料を口にしていた。
彼らの一人が少女に気付いた。威圧的な声音で少女を罵倒する。それでも、少女は顔色一つ変えず、彼らを見下ろしている。
少女は知っている。彼らのような人種は、目の前にある快楽を貪ることに長けていることを。彼らは悦楽を感じる為ならば人を傷つけることなど厭わない。故に、彼らはただ楽しいという理由だけで、手頃な人物に暴力を振るい、その尊厳を踏みにじる。
だが、それは裏を返せば『快楽を得られなければ他人に危害を加えない』ということでもある。ただ持て余した怒りを初対面の人間に直接ぶつけるなど、彼らの生態には似つかわしくない。ならば、なぜ彼らは目の前に出現した初対面の少女に敵意を剥き出しにするのか。
すなわち、〝魔〟である。
彼らは人間が社会生活を営むために獲得した理性を剥ぎ取られ、深層意識に眠っていた闘争本能を呼び起こされたに過ぎない。
人々の欲望に付け入り、本能の赴くまま動けと囁く存在。人々はそれを古来よりこう呼んでいる。
――〝悪魔〟と。
少女は確信した。彼らに取り憑いた悪魔こそが、自分をこの場に招いたこの世ならざるものであり、自らの力を以って排除すべき対象であることを。
彼らを見回し、敵性存在の力を推し量る。少女に対して積極的に威嚇を繰り返し、今まさに襲いかからんとする彼ら。自らの存在を隠匿せず、ただ欲望を解放させる程度。下級が三体。この程度なら、なんら問題はない。
少女が告げる。
【擬似神代領域限定接続──クロノス、承認】
それは、十代の少女の声色と思えぬほど、冷淡で、無機質だった。少女がこれまで幾度となく口にしたその文言は、少女自身を切り換えるスイッチでもあった。その言葉を告げたその瞬間から、少女は自らを、現世を生きる少女ではなく、敵を殲滅するための機械へと変化させる。ただのシステムに感情は不要。感傷も、躊躇いも、戸惑いも、葛藤も、その全てを置いて、今この瞬間から少女は破壊と蹂躙を繰り返すだけの暴力機構へと成り果てた。
茜色の空に、道路に、住宅に、亀裂が走る。少女を中心とした一帯が世界から切り離され、異なる次元へと変換される。世界の一部が切り取られ、一面の荒野、すなわち異空間へと閉じ込められる。
それは、神代。神々がまだ人々と同居し、地上を闊歩していた時代。これはその時代の大気ならびに大地を擬似的に再現した空間へと接続する秘法であり、少女に貸し与えられた【権能】の一端である。そして、この場所こそが少女の性能を遺憾なく発揮するための戦場。少女のために用意された舞台。
通常、神々とは縁が程遠い現世の人間は、この空間に侵入することさえ許されない。故に、下級の悪魔は依代となった肉体を離れなければならず、脆弱な本体を曝け出すこととなる。
少女の前に現れたのは、通常の人間より一回り小さい、三体の人型を模した存在。全身が灰色に染まっており、眼も、口も、鼻もなく、その輪郭は水を垂らされた水性絵の具のように曖昧だ。力のない悪魔では、この場所でまともな姿かたちを保つことさえままならない。
早々に決着をつけるべく、少女は静かに念じる。
次の瞬間、少女はその手に槍を握っていた。少女の背丈を遥かに超える長槍。だが、その槍の先端には敵を刺し穿つためのニードルのみならず、敵を斬り払うための三日月状の刃、斧が取り付けられている。斧槍。少女が手にした武器は、中世ヨーロッパで広く普及した重量級の武器、ハルバードと呼称されるそれに酷似していた。
少女が構えると、三体の内一体が聞くに堪えない雄叫びを上げながら地を蹴り、三メートルはあろう距離を一気に詰めて、少女に襲い掛かった。神代の空間では現代と異なる物理法則が適用されている。つまり、現世における安全圏など何の意味も為さず、悪魔と対峙するのは常に危険が伴う。
だが。
跳びかかってきた悪魔を横一閃、少女が斧槍を軽々と振り回し、薙いだ。悪魔が一瞬のうちに身体を二分され、跡形もなく消滅する。
まず一体。少女が冷静にカウントした。
残った二体の悪魔は互いに顔(のようなもの)を見合わせ、左右両方向から同時に襲い掛かった。先ほどの薙ぎ払いを見て、少女の間合いを確認し、二体同時にやられぬよう彼女に跳びかかる。
なるほど、知恵はあるのだろう。下級とは言えこれでも悪魔の端くれ。小賢しく生き延びる為の知恵は持っているらしい。だが、所詮は浅知恵である。
二体の爪が少女に届こうとせん時、少女が地面を軽く蹴り、跳びあがった。少女が地を蹴るために込めた力はほんのわずかである。だが、少女の身体は五メートルもの高さまで軽々と舞い上がった。
神代の空間は、現代の人間が存在することさえ許さないほど濃密な神々の気配に満ちている。従って、この領域に侵入するだけでなく、自らの質量を遥かに凌駕する武器を軽々と振り回し、およそ人の身では考えられないほどの跳躍を見せる少女が、ただの人間でないことは明白だった。
少女はその身に神を宿している。それは比喩ではなく、文字通り少女の内側には一柱の神が存在している。少女はその【権能】の一端を、悪魔を屠るために振るうことを許されているのである。故に、悪魔と対峙した少女は自らの身体能力を大幅に強化し、神々の世界であろうと自由に振る舞うことが出来る。
そして、少女に与えられた【権能】は、それだけではない。
少女が地を見下ろす。渾身の攻撃を空振り、ただ愕然としている二体の悪魔。少女は何も思わない。落下しながら、再び斧槍を一閃。二体の悪魔を排除した。
少女が着地する。敵を切り裂き、排除した。しかし、そこには後悔も、躊躇いも、快感も、何一つ存在しない。ただ、少女は目的のためだけに武器を振るうのであった。
敵は殲滅した。もうこの場所に用はない。少女が領域から離脱しようとしたその瞬間、少女の背後からけたたましい雄叫びが聞こえた。
刹那、少女が振り返ると【下級悪魔】の爪が眼前まで迫っている。悪魔は三体だけではなかった。おそらくこの領域を展開した際、離れた場所にいたこの悪魔も同時に転移してしまったのだろう。
悪魔の爪は少女の鼻先まで迫っている。このままではどんなアクションを起こしても間に合わない。悪魔の爪はその朧げな輪郭に似合わず、少女の身体を容易く切り裂くほどの破壊力と殺傷力を持っている。その威力は幾度となく悪魔と対峙した少女もよく知っている。
だが、少女は顔色一つ変えることなく、ただ一言、
「【
と告げ――
落下する少女は、斧槍を一閃。二体の悪魔をまとめて撃破した。そして、着地した少女はそのまま振り返ると同時に、背後へ斧槍を突き出す。手応えがあった。貫かれた悪魔が驚いた様子で自らを穿った斧槍を見下ろす。そして、消滅した。
現在からある一定の時間だけ過去に跳ぶ。それこそが、彼女が手にした異能の神髄。悪魔を殲滅するために与えられた切り
少女は周囲を確認し、今度こそ終わったと確信したのち、
「──離脱」
ただ一言、そう呟いた。
その瞬間、周囲の空間が溶けるように消えていき、少女は元いた住宅街の一角へ戻ったのである。
限定的に展開された神代の領域は、現実世界と異なる位相に存在する。
従って、少女は一瞬この地上から姿を消していたわけだが、それは目の前にいた三人の若者たちですら知りようのない事実だった。
少女と同様の異能者を除いては。
「流石、私たちのエースね。腕は鈍ってないようで安心したわ」
物陰から聞き覚えのある声がした。言葉面通りの称賛ではなく、言外に余りある含みを持たせたその声色は、懐かしくもあまり聞きたくない声だった。
「……何の用かしら」
「そんなに冷たくしないでよ。仲間でしょう?」
声の主が姿を現した。少女性を強調する制服には似つかわしくないすらりと伸びた手足に、出るところがしっかり出ている艶めかしいボディ、栗色のショートカット、きめ細かな白い肌、整った顔立ち、少女のように大きな瞳は、触れれば壊れてしまうような人形を思い起こさせる。
そんな彼女がその童顔に不釣り合いな笑みを浮かべ、粘着質な視線を私に送っている。栗色の髪は夕陽を受けてより一層煌めき、夜よりも深い漆黒の瞳が私を捉えて離さない。まるで蛇のようだ、と彼女の瞳を見る度に思う。映るもの全てを見境なく獲りこもうとする彼女の瞳孔は、獲物を前にして大口を開ける爬虫類を想起させる。
「……悪魔を一体、わざと見逃したのはあなたね」
「嫌な言い方しないでちょうだい。私が狩ろうとしたら、たまたまあなたがいて、悪魔が勝手にそっちへ向かっていったのよ」
彼女が微笑む。天使のように優雅なその笑顔こそが、人々を惑わせる。私は時折、彼女の中にこそ悪魔が棲んでいるのではないか、と思う。
「そう。ならそれはいいわ。早く用件を言いなさい」
「相変わらずつれないわねぇ。少しぐらい仲良くしてもいいじゃない。私たちは同じ【ゴッズ・ホルダー】なんだから」
「その呼び方は好きじゃないの」
【
だが、そんなことはどうでもいい。私はかなえを護るだけの力があればいいのだから、【ゴッズ・ホルダー】だとか【権能】だなんて話にはまるで興味が湧かない。私にとってこの力はただの手段でしかないのだ。
「……そうね、あなたはずっとそう。いいわ、あなたと世間話をするのはまた今度にしましょう。私もあまり暇じゃないの」
彼女がわざとらしく溜め息を吐き、真顔になった。真剣な眼差しの彼女は同性の私でさえ見惚れるほど美しい。かなえの方が可愛いけれど。
「最近、【下級悪魔】が増えてると思わない?」
「ええ、そんな気がするわ」
彼女の問いに、素直に同意した。
そもそも、この世ならざる存在である悪魔は、如何にして現世へと姿を現すのか。答えは簡単で、〝世界の裏側〟から神々の目を掻い潜って出没しているのである。神々と人々が共存していた時代、神代が終わりを迎えると同時に神々は現世に影響を及ぼしかねない悪魔たちを道連れに〝世界の裏側〟に退去し、人間が地上の覇者として君臨することになった後も、その慈悲で現代に至るまで悪魔の脅威から現世を守護し続けていた。
だが、神々にも見落としはある。現世を崩壊させかねないほど強力な悪魔に対しては過剰なほどその動向に目を光らせるが、そうでない木っ端な悪魔、つまり【下級悪魔】などに対しては監視の手が緩む。従って、力の弱い悪魔であればあるほど地上に現れやすいと言ってもいい。
だが、それでも、これまで私の行動範囲内で悪魔が出現するのはせいぜい隔週に一度ぐらいの頻度だった。特に、【
「他の子たちにも聞いてみたんだけど、やっぱり明らかに増えてるみたい。【中級悪魔】を見た、なんて話も聞いたわ」
「なるほど、確かに異常ね」
【下級悪魔】と【中級悪魔】の線引きは、彼らの知性によって行われる。【下級悪魔】が下級と位置付けられているのは、彼らの取るに足らない戦闘力だけではなく、その行動に全く知性が見られない、という点にある。彼らは闇雲に憑りついた人間の本能を解放し、ただ赴くままに暴れるしか能がない。彼ら程度では、神々や私たちの障害足り得ないのである。
対して、【中級悪魔】には人間と同等、またはそれ以上の知性がある。彼らは自らの目的を達成する為に策を巡らせ、憑りついた人間の思考や性格を徐々に変化させながら、神々に気取られぬよう隠密に行動する。それはつまり、神々から【権能】の一端を授かった私たちにも気配を悟らせないよう振る舞う、ということでもある。
そんな【中級悪魔】が私たちの前に姿を見せた。ただ馬脚を現しただけなら何の問題はない。だが、もしそこに何らかの意図があったなら。私たちの前に姿を現すことで、どんな利益があるのか。
なんにせよ、警戒しておくに越したことはない。かなえ周辺の警護をより強固にしなければ。
「それだけじゃないの」
彼女が絞り出すような声で言った。私は無言のまま視線で続きを促す。
「最近、何人も【ゴッズ・ホルダー】の子がいなくなっているらしいの……【上級悪魔】に消された、なんて噂もあるわ」
彼女が躊躇いながら言う。声の震えが隠しきれていない。噂だと言いながらも、彼女自身が信じているのだろう。
だが。
「それはあり得ないわ。【上級悪魔】なら、半年前に討伐した筈でしょう」
断言した。【上級悪魔】を滅ぼしたのは他ならぬ私だからだ。
【
「そう、よね。考えすぎよね、きっと」
「ええ、そうよ。そんなただの噂で弱気になるなんて、椿らしくないわ」
「……あなたが名前で呼んでくれるなんて、いつ以来かしら」
彼女が照れたように頬を染める。普段からこのぐらいしおらしければ、仲良くなれるのかもしれない。それを彼女に求めるのは『サルに日本語をしゃべらせる』ほどの難題なのだが。
「とにかく、忠告は受け取ったわ。ありがとう。次会う時まで達者でね」
「待って!」
彼女に背を向けて歩き出そうとした私の腕を、彼女が掴んだ。
「……なにかしら?」
「違うの。まだ、用件は残ってるの」
さっきの出会い頭の挑発的な態度はどこへやら、いまや彼女は私の腕を掴みながら声を震わせ懇願している。元々情緒不安定のきらいはあったが、最近特に激しくなっているような気がする。彼女が弱気になっているのは【上級悪魔】の噂だけでなく、そういう気質なのかもしれない。
「なら、さっさと済ませて頂戴。私もあまり暇じゃないの」
そう、私には為すべきことがある。
一刻も早くかなえの元へと行って、今朝の誤解を解かなければならない!
あれ以降、休み時間になるたび私をからかい茶化しまくる魔女・菱子の妨害によって、ついぞ私は放課後までかなえに弁解する機会に恵まれなかった。そして、終業後にすぐさま今朝感知した悪魔を殲滅しに来たところである。
かなえの誤解を解くのは言うまでもなく重要だ。その誤解は私の学生生活ひいては未来そのものを脅かすと言っても過言ではない。弁解し、かなえを納得させることが出来なければ、私は一巻の終わりだ。
しかし、悪魔の洗礼を受け、理性を失くした人間は獣にも等しい。本能を剥き出しにした下劣で低俗な人間の欲望の矛先が、いつかなえに向くとも限らない。かなえが低俗な人間の獣欲に曝されることなど、あってはならないのである。かなえの誤解を解くか、かなえの安全を確保するか。それは究極の選択にも等しいのだが、背に腹は代えられない。私は菱子の下卑た微笑や瑠璃の驚きに満ちた瞳、そして、かなえの不安を隠さずにはいられない表情に背を向けて、ここにいるのである。
可能なことならば、一秒でも早くここを去りたい。だが、それをこの女が許してくれるか。
彼女の【権能】をまともに受けてしまえば、私の能力でも対処できない。
結局、私は彼女の気が済むまで付き合うしかないわけだが。
当の彼女は俯いたまま、一向に話さない。余程言いにくいことなのだろうか。
「……遠慮せずに話しなさい。私はあなたに冷たい態度をとりたくてとっているわけじゃないの。他人とどういう風に接すればいいのかわからないだけ。だから、あなたのことを嫌っているわけじゃないわ」
彼女のことが嫌いではない、というのは事実だ。嫌味で陰湿なところもあるが、他者に不器用で冷たい態度をとってしまう私に関わってくれる。今でも連絡を取っている仲間は彼女しかいない。私は少なからず彼女に友情の様なものを感じている。きっとこれが腐れ縁というやつなのだろう。
「蓮美さん……」
「さあ、話して。私はあなたの事をバカにしたりしないから」
彼女のつばを飲み込む音が聞こえるようだった。彼女が意を決したように口を開く。
「……あのね?」
「ええ、何?」
「最近元気? どこか悪いところはない?」
「あなた私をバカにしているの?」
久しぶりに会ったかと思えば、陰湿な嫌がらせ。人が忙しいと言っているのに、空気の読めない会話。もう駄目ね。彼女は救いようなないバカだったわ。いいえ、彼女にほんの少しでも親近感を覚えた私の方がバカね。
「さようなら。もう二度と私の前に現れないで」
告げるや否や踵を返す。時間を無駄にした。一刻も早くかなえの元へ向かわなければ。いつも通りに通学路から少し離れた場所にあるファストフード店で、菱子や瑠璃と歓談していてくれればいいのだけれど。
「待って、違うの! っていうか、あなたさっきと言ってる事全然違うじゃない! 本当にちょっと待ってよ、ねぇ!」
彼女の懇願に背を向けて無言で応え、足早に立ち去る。
「待ってって……言ってるでしょう!」
彼女の強い叫びと共に、身体が動かなくなった。どうやら逃げ遅れてしまったらしい。
身体を見下ろすと、煌めく細長い金色の糸が、腕や胴、膝に足首と至る所に何重にも巻き付いている。
糸の正体はわかっている。これこそが椿の授かった【権能】であり、彼女を【ゴッズ・ホルダー】足らしめる異能だ。
「……こんな往来で【権能】を使うなんて、どうかしてるわ」
「悪いのは、ちゃんと話を聞いてくれないあなたの方よ。で、聞いてくれるわよね」
いつの間にか、彼女の声音は普段通りの高圧的なものに戻っていた。彼女が本調子を取り戻したのだろう。この状況では全く喜べないのだが。
彼女の糸に拘束されてしまっては、自力で脱出することは困難を極める。少なくとも、今の私に逃れる術はない。
「わかった。今度こそ、本当に話を聞くから」
諦めと同時に言った。すると、一瞬のうちに私を拘束していた糸が消滅し、自由になった。
おかしい。いつもの彼女ならここぞとばかりに私をいたぶるはずだ。
違和感を覚えつつ振り返り、驚愕した。
「椿……あなた大丈夫なの?」
見れば椿は息を切らし、身体をぶるぶると震わせている。元々色白だった肌も青みがかかっており、さながら重病人のように衰弱しているのが見て取れた。
「だから、話を聞いてっていったでしょう!」
口調こそいつも通りの勝気な彼女だが、今の彼女を見ていると、それもただの虚勢にしか思えない。
「まさか、【権能】を使ったから?」
彼女が震えながら頷いた。
【権能】とは、悪魔と対峙するために神々から与えられた異能だ。そして、その能力を十全に発揮するためには神々の領域、すなわち神代を再現した空間が必要となる。
だが、決して現世で全く使えないというわけではない。たった今彼女がやって見せたように、最大限に発揮することは叶わないが、限定的になら現世でも発動できる。その代償として、より多くの体力を消耗することになるのだけれど。
けれども。それにしても、彼女の様子ははっきり言って異常だ。体力の消耗だって、たかだか激しい運動をした程度のもので、体調を崩すようなものではない。たった一度、それも短時間発動しただけでこれほど弱るなんて、考えられない。
「……最近ね、【権能】を発動する度に、身体中の力が抜けちゃうの。擬似神代領域でもそう。まるで、生命力を根こそぎ奪われてるみたい」
息も絶え絶えに彼女が語る。それはまるで、余命幾ばくもない者の独白のようだった。
私、もう長くないの。苦しくて仕方がないの。
「あなたはどう? 大丈夫なの?」
言葉通りに受け取れば、彼女は私の身を案じているのだろう。だが、私には彼女の本音が透けて見えていた。
疑問、嫉妬、願望。
あなたは苦しくないの? 辛くないの? どうして? あなただけ卑怯よ。私たちは同じなのに。辛いって言ってよ。
「……ええ。あなたほどではないけれど、私も同じよ」
嘘を吐いた。私のためではなく、彼女を納得させるための嘘を。
私は現世でも擬似神代領域でも、【権能】を行使して疲労を感じたことがない。それはこの力を手にしてから今まで、ずっとそうだった。だから、彼女たちの苦痛は私にとって絵空事でしかない。
彼女が青白い顔のまま、安堵したように微笑んだ。
あなたも同じなのね、私だけじゃなかったのね。
「じゃあ気を付けてね、蓮美さん」
「ええ、あなたもね、椿」
短い別れの言葉を口にして、私たちは互いに背を向けた。
かなえの元へ向かう道すがら、ふと空を見上げた。周囲を朱く染めながら沈む夕陽、それを覆い隠さんとする鉛色の雨雲。なぜか妙な胸のざわつきを覚えた。
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